「炎天に膚剥げ舌を噛む骸」
その後、毎日爆心地にある警備本部に通っていたため後に血尿などに悩まされた。死亡後の平成九年の原爆記念日に原爆死没者名簿に大久保武雄の名も登録された。
橙青は戦中戦後の国内外の諸問題を解決した手腕を認められて昭和二十三年五月一日海上保安庁が設立されると初代長官に任命された。同年六月未、伊勢湾を視察している。
名古屋港から一〇〇トン足らずの巡視船「こたか」(旧海軍駆潜特務艇)に乗船、檣に初めての長官旗をなびかせて意気揚々と出港した。
「南風やするする揚る長官旗」
橙青の俳句を平明で味がないと云う人がいるがこの句程、平明で味のある句はないと思う。正に海上保安庁の夜明けであり橙青の意気込みが句一杯に溢れ出ている。
この句は昭和四十六年海上保安大学校に句碑となり若い海上保安学生の意気を鼓舞している。
橙青と灯台は縁が深い。灯台の句も沢山残しているが昭和二十四年の
「汽笛吹けば霧笛答ふる別れかな」
は、抜群で後に木下恵介監督の名画「喜びも悲しみも幾歳月」のラストシーンに生かされ万客の涙を誘った。
この句と恩師虚子の
「霧いかに深くとも嵐強くとも」
の句は、碑となって観音崎灯台の近くに並んで立てられている。
灯台の句碑と云えば龍飛崎にも
「龍飛崎鷹を放って峙てり」
の句碑がある。昭和二十四年四月灯台母船「第十八日正丸」(二五〇〇トン)で視察した時に作られたこの句は虚子も豪快な句であると賞賛している。
この頃の橙青は仕事にも俳句にも精力的に動いていた。
「行幸待つ春霞降る甲板と」
昭和二十五年三月昭和天皇が四国巡幸のため船で瀬戸内海を渡ることになった。橙青は海上保安庁掃海隊の総力をあげ突貫作業の末、巡幸までに無事に機雷の掃海を完了した。
「はげまして航安かれと時雨かな」
橙青と掃海隊には、この後もっと苦しい試練が待っていた。
橙青は昭和二十五年夏、只ならぬ朝鮮状勢をみて対馬や玄界灘を巡視船で視察している。朝鮮戦争勃発の十二日前である。
「鶯の大きな声に上陸す」
「南風強し烏幅子灯台絶壁に」
米ソ対立のもとに日毎厳しくなる朝鮮半島の風雲を肌で感じ日本のなすべきことを考へていたに違いない。
昭和二十五年六月二十五日 朝鮮戦争が始まった。ソ連をバックとした北朝鮮軍の勢いは強く韓国軍を一気に釜山附近迄追い詰めた。国連軍の旗色の悪さに海上保安庁の空気も重かった。
「むつかしき会議の卓の金魚玉」
国連軍反攻のためマッカーサー司令部は、日本船による朝鮮海峡の掃海を海上保安庁へ要請してきた。肥後モッコス橙青は土性骨の強い土佐っぽ、吉田茂首相と密談を重ね、二人だけの極秘事項として出動を決定した。
日本特別掃海隊は四隊二十四隻の編成で、昭和二十五年十月七日に出港して元山沖で掃海作戦に参加し十二月に帰還した。掃海隊の活躍は折からの吉田・ダレスの対日講話会談をスムーズに進めるための好材料になった。
橙青はこの実績を持って昭和二十六年二月渡米・米国政府と海上保安庁の組織強化に関する交渉にあたった。