初代海上保安庁長官 俳人 大久保橙青
(社)中部小型船安全協会 理事 早川栄司
初代海上保安庁長官 大久保武雄は、明治三十六年十一月二十四日熊本城下西通町にある醤油屋の三男坊として生れた。
祖先の大久保八左衛門宗雅は長水と号し近郊では有名な蕉門の俳人であった。その血を受けてか大久保は熊本第五高等中学校在学中より俳句に興味を持つようになった。
大久保が本格的に俳句を作るようになったのは昭和三年東大法学部政治学科を卒業し逓信省に入省してからである。
「箒木会」に参加し熊本の先輩で三菱地所の部長であった赤星小竹居と逓信省の先輩である富安風生の紹介で東大俳句会に入り高浜虚子に師事した。
当時の俳壇と云えば「ホトトギス」であり高浜虚子と云へば俳句の神様であった。初めて大久保の俳句が「ホトトギス」に載ったのは昭和六年の
「枯草を飛び移りゆく小蜘蛛かな」橙青
であった。俳号を橙青とつけたのは郷土熊本が橙の産地であることから橙の字を使いたいと以前から考へていた。丁度その頃ホトトギスに楠目橙黄子という先輩がいたので、その人より若い(青い)から橙青ときめたようだ。その年に奈良の郵便局長に就任している。
「渡御先の鹿追うてゐる舎人かな」
この句と
「沈丁や障子閉せる中宮寺」
は、虚子編の歳時記に掲載されている。虚子は早くも橙青の筋の良さを見抜いていたようだ。
昭和十四年四月航空局の国際課長だった橙青は山本五十六海軍中将から爆撃機を借り受け日本政府代表としてイランヘの親善飛行を行いイラン皇太子の御結婚式に出席している。
「大いなる志あり揚雲雀」
三十五才の橙青の大志は何んだったのだろう。
昭和十六年第二次世界大戦の直前にポルトガル領チモールとの航空交渉のため、日本政府代表としてオーストラリアのすぐ北の島チモールに飛んだ。途中の機中で詠んだのが
「指してゆくパラオは虹の輪の中に」
二ヶ月後にまさか開戦となるとは知らず橙青は美しい海の虹を見入っていたに違いない。
中国海運局長に赴任した昭和二十年の八月五日、陸運暁部隊との交渉事で広島を七時に発ち門司に向った。それから約一時間後の午前八時十五分に原子爆弾が広島に投下された。橙青は九死に一生を得た。被爆直後の広島市内は目を覆うばかりの惨状だった。