Seminar
5月のセミナーから
財団設立記念講演会
明日をつくる介護
―天地のめぐみを生かす―
エッセイスト 小倉寛子
去る5月20日、千代田区公会堂において日本画の小倉遊亀画伯のお孫さんである小倉寛子さんをお招きして、財団の設立記念講演会を開催いたしました。この講演会での小倉先生のお話をご紹介いたします。
私はよく「なぜお祖母様の介護に関わるようになったのですか」とか「どういう経緯でお孫さんが介護なさるのですか」と聞かれます。これは特に家族会議で決めたとかではなくて、自然の流れでそうなってしまったのです。
祖母は平成4年、97歳の時まで自分のスケジュール管理を全部自分でしていました。祖母が最後に旅行をしたのは96歳の時です。私はその頃勤めていましたが、健康な祖母、自己管理能力のある祖母というのはあたりまえだと思ってました。
突然の深い悲しみ
そんな折、父が64歳で本当に突然に亡くなりました。祖母は97歳で逆縁に遭うという大きな悲しみに見舞われたのです。私は、祖母が葬儀で大きな声を出して泣くのを初めて見ましたし、涙を浮かべて、何もできなくなるのも初めて見ました。その日を境に、祖母は画室へ入るのをやめました。それまでは何があっても80年近く筆をとり続け、画室に入っていた人が、起きていると悲しいから、辛い時間が長いから起きていたくないというのです。そして寝ている時間がだんだん増えていきました。それにともない食事や水分の摂取量も減り、そのことが気持ちだけでなく、体の機能も衰えさせていたのを私たちは分からなかったのです。
突発的な事件が起きたのは、平成4年の父の新盆の時でした。久しぶりに起きてきた祖母は、椅子に座るというより、人というものが椅子に置かれているという感じで、とても危機感がありました。翌日、出がけになんとなく気になって祖母のところへ行ってみると微熱がありました。その夜聖路加国際病院へ緊急入院となりました。祖母の体温は朝の時点では37.2度でしたが、夜8時に病院についた時には39.8度にもなっていて、血糖値が600、脱水で意識も混濁していて、私のことも分からない状態でした。その時に、高齢者の容態というのは、一瞬の判断が左右するということを実感しました。
祖母と私の新しい生活
そんなたいへんな状態から、祖母は驚異的な回復力をみせて、無事家に戻ってきました。そして平成5年の9月、退院したその日から祖母と私の新しい生活がはじまりました。その時点では「私に介護ができるだろうか」ということを考える余裕はありませんでした。やらざるをえない。今大切なことは何か、誰ができるのだろうという大きな流れの中に身を委ねるかたちで、祖母と一緒に暮らし始めました。
介護をはじめるといっても、それまでは勤めていましたから、食事も生活に密着したかたちで作ったことはありませんでした。はじめて祖母と2人で寝たときには、「息が止まってしまったらどうしよう」と夜中に何回も目を覚まし、寝息を伺いました。介護についてはまったく素人でしたし、身体介助やトイレのことも知識がなく、ひとつずつとりあえず出来るところから身につけていくしかありませんでした。
けれども、はじめに自分は素人だと自覚すること、介護に対する先入観を捨てたことがいい方向へ繋がったと思います。今は講座や本などで技術を学ぶことができますが、始めに技術ありきではなくて、これからどのように緒に過ごしていこうかという気持ちが大事だと思います。
私は食事の介助にしても、その日のおかずを見て、まずこれから食べたいな、あれから飲みたいなというところから入りました。それから身体介助にしても、体を動かす前に私だったらどういうふうに動かされたいかと考えました。