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三宅島の噴火と神津島の地震

三宅島は伊豆諸島の火山島で、主に溶岩を流出する噴火を、山頂や山腹から約20年の間隔で繰り返してきた。1983年には南西山腹で割れ目噴火が起き、溶岩流の一部が阿古の集落を襲った。その後は静穏な状態にあったが、2000年6月末にまた活動を開始した。

2000年の活動では、先ず6月26日に火山性地震が三宅島南部で群発し出した。数時間後に地震の震源は島の西部に、更に西方海域に移動した。地震の活動に合わせて、顕著な地殻変動も観測された。これらのデータは、マグマが地下深部から三宅島南部に向けて上昇し、その後海底下を西北西に移動したことを示す(図4)。27日には西海岸の沖合い約1kmの地点で、海面に変色域が見つかった。その後の調査で海底に火口列が見つかり、変色域に対応して、小規模な海底噴火が起きていたことが確認された。

三宅島の活動に刺激されたらしく、隣接する西方海域でも地震が群発し始め、7月1日には神津島東の近海でマグニチュード6.4の地震が起きた。この地震のために、震度が6に近い揺れが神津島に生じ、崖崩れで1人が死亡した。地震活動は神津島東方を中心に1カ月以上も継続し、この間に震源は新島や式根島、三宅島南西海域にも拡大した。一連の地震にはマグニチュードが5を超えるものが10個以上含まれており、新島、式根島、三宅島も震度6に近い揺れを経験した。地震の規模、個数、継続期間のいずれから見ても、この地域でこんな活発な地震活動が観測されたことは例がない。

群発地震に加えて、広域的な地殻変動が観測された。特に、神津島と新島の距離は、この1月余りの間に20cm以上も伸びた。ふたつの島の間では、海底の地殻に割れ目を造ってマグマが上昇してきたものと推定される。

三宅島の火山活動もおさまったわけでなかった。7月4月頃から山頂付近を震源とする火山性地震が増加し、8日夕方に山頂に噴煙が上がった。この噴火とともに、山頂に直径約1000m、深さ約200mの陥没孔ができた。噴火は7月14〜15日にも起き、陥没孔は拡大して容積は3億立方米にもなった。三宅島でこのように大きな陥没が生じたのは、2600年前に山頂カルデラが形成(八丁平噴火)されて以来なかったことである。噴火は更に続き、噴煙の高さは8月10日には3km、18日には15kmに達した。

火山噴火予知連絡会は、三宅島の初期の活動については、マグマの移動を刻々と捉え、島民の避難や解除のための情報を素早く出した。しかし、山頂噴火が始まってからは、地下の状態を的確に把握できず、上向きの噴火活動が予測できなかった。神津島近海の群発地震については、マグマの活動との関連を指摘したものの、活動の推移を探る手がかりをつかんでいない。

 

火山と賢くつきあうために

火山災害の多くは火山やその近傍で発生するが、噴煙から降下する火山灰は影響がずっと遠くまで及ぶ。火山灰は1cm程度の堆積でも交通や都市機能の障害になり、10cm以上積もると、建物を押し潰したり、農産物に壊滅的な被害をもたらす。ピナツボ火山(フィリピン)1991年の噴火では、火山灰や火砕流堆積物が、火山周辺の約30kmにわたって10cm以上の厚さに積もった。噴火による死者320人の大半は、潰された建物の下敷きになった人々である。

 

 

 

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