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1999年(平成11年)

平成9年神審第24号
    件名
貨物船第八共栄丸転覆事件

    事件区分
転覆事件
    言渡年月日
平成11年3月17日

    審判庁区分
地方海難審判庁
神戸地方海難審判庁

佐和明、山本哲也、工藤民雄
    理事官
竹内伸二

    受審人
A 職名:第八共栄丸船長 海技免状:四級海技士(航海)
    指定海難関係人

    損害
積荷及び予備グラブバケットは海没、船体はのち廃船、一等航海士溺死、機関長行方不明、一等機関士及び甲板員1人溺死

    原因
気象・海象(潮流)に対する配慮不十分

    主文
本件転覆は、潮流に対する配慮が不十分で、鳴門海峡最狭部を逆潮流の最強時近くに通航したうえ、渦流のなかを大角度の回頭を行って航行したことによって発生したものである。
受審人Aの四級海技士(航海)の業務を1箇月停止する。
    理由
(事実)
1 事件発生の年月日時刻及び場所
平成8年10月30日07時08分
鳴門海峡
2 船舶の要目
船種船名 貨物船第八共栄丸
総トン数 497トン
全長 61.75メートル
機関の種類 ディーゼル機関
出力 735キロワット
3 事実の経過
(1) 第八共栄丸の来歴
第八共栄丸(以下「共栄丸」という。)は、昭和62年9月に進水した砂利、石材運搬船で、R社とS有限会社との共有であったところ、翌63年9月からR社とT株式会社(以下「T社」という。)とが共有することとなった。そして、平成3年9月に貨物倉ハッチコーミングの高さを船体中心線上で0.752メートル上げて1.350メートルとし、総トン数が364トンから386トンに変わり、次いで、同5年10月に乾舷甲板を0.650メートル嵩上げしたことにより、総トン数が497トンに、満載喫水も3.425メートルから4.022メートルに変更された。
(2) 船体構造
共栄丸は、登録長58.11メートル幅13.00メートル深さ5.60メートルの、フラップラダーを装備した船尾船橋2層甲板型銅製貨物船で、乾舷甲板下には、船首から順に、船首水槽、デッキストアとその下部の1番バラストタンク、ボイドスペースとその下部の2番及び3番バラストタンク、機関室とその下部の燃料油タンク、清水タンク及び船尾水槽がそれぞれ設けられていた。また、乾舷甲板
上には、船首から順にボースンストア、デッキストア、貨物倉とその両弦側のポンプルーム、エンジンスペース及びステアリングエンジンルームがそれぞれ設けられていた。
上甲板上には、船首から順に、揚錨機、デッキストアに降りるため右舷側に設けられたデッキコンパニオン、グラブバケット付き全旋回式起重機、貨物倉ハッチコーミング、船橋楼及び後部係船機がそれぞれ設置されていた。
貨物倉は、ほぼ船体中央部に設けられ、長さが21.45メートル幅10.80メートルであったが、倉底は、石材運搬船に多く見られるように、乾舷甲板とほぼ同じ高さまで上げられており、そのキール面からの高さが3.45メートルで、ボイドスペース頂部が倉底となっていた。また、ハッチコーミングは、幅、長さともに貨物倉と同一で、ハッチコーミング上端から倉底までの深さが3.70メートルとなり、ハッチボード及びハッチビームを設置しないときのハッチコーミングを含む貨物倉の全容積は857立方メートルであった。
(3) 受審人A
A受審人は、平成元年から砂利、石材運搬船に乗船して船長または一等航海士として執職しており、平成8年10月1日に初めて本船に一等航海士として乗船し、同月16日に前任船長のBが休暇下船したので、臨時の船長として引き続き乗船していた。
(4) 積荷の種類とその積載状況
本件発生当時に共栄丸が塔載していた貨物は基礎石と称し、防波堤築造時に基礎捨石として用いられる、花崗岩(かこうがん)を重さ10キログラムから100キログラムの塊に砕いたもので、花崗岩自体の比重は約2.6であるが、倉内に積載されたときの容積1立方メートルの重さが約1.7トンと計算されていた。
T社は、香川県小豆島の福田湾から兵庫県淡路島の福良港に5,000立方メートルの基礎石を運送する契約を行い、共栄丸が10月26日から日曜日を除いて1日1航海の割合で運航していた。
基礎石の荷役は、福田湾内の桟橋から海中に投下されているものを、錨泊した共栄丸が起重機のグラブバケットで倉内に積み取り、また、揚地においては、船首尾錨を用いて錨泊し、自船を適宜前後に移動しながら起重機とグラブバケットを使用して定められた位置に海中投下することになっていた。
ところで、福良港においては、漁船等の通航の関係で自船の錨鎖巻取りによる前後移動が制限されており、基礎石を定められた位置に投下する際、倉内前部に積荷を搭載していると、ジブブームを立てた状態で巻き上げたとしても、その角度のままグラブバケットを起重機より前方の舷外に振り出すことが困難であったことから、荷役効率上、積荷を倉内に平らに積み付けるのではなく、貨物倉中央部少し船尾寄りを中心としてハッチコーミングを越えてほぼ台形状に積み付けて3航海を終えていた。
(5) 発航時のコンディション
A受審人は、同8年10月29日、福田湾において基礎石の積取りを行い、いつものように貨物倉前壁から後方約1.5メートルまで倉底が見える状態で、そこから後方へだんだんと高く積み上げ、同前壁から約7.5メートルのところからその後方約10メートルの間は、ジブブームを最後に格納するのに邪魔にならない程度に、積荷の頂部がハッチコーミング上端から0.8メートルないし1.2メートルの高さとなるよう台形状に積み付け、そこから後方へはだんだんと低く積み、貨物倉後壁では倉底から2.2メートルの高さとなっていた。
A受審人は、船首喫水3.25メートル船尾喫水4.50メートル及び中央喫水3.86メートルとなったところで積荷役を打ち切り、ハッチボードによる倉口の閉鎖が行えないまま、ジブブームを倒して船橋楼前方の所定位置に格納し、使用した13トンのグラブバケットを積荷頂部の右舷船尾寄りに、基礎石をつかませて約10度右舷に傾いた状態で置いた。
その結果、貨物倉内に645立方メートル1.117トン、ハッチコーミング上端から上に76立方メートル131トン、合計721立方メートル1.248トンの基礎石が積載された。
また、清水10トンが清水タンクに、燃料油10トンが燃料油タンクに、及び重量12.7トンと9.5トンの予備のグラブバケット2基がハッチコーミング船尾側と船橋楼との間に設けられた架台に、それぞれ搭載されていた。
ところで、操舵室には同5年10月の改造及び増トンに伴い作成された復原性資料が備えられており、これにハッチボード下まで船倉一杯に積荷を積載した満船出航状態の標準コンディションが表1のとおり示されていた。
A受審人は、操舵室に備えられていた復原性資料や貨物積載要領書を読まなかったものの、前任者の積付けを見ていたので、満載喫水線一杯まで積み付けることなく、前示のとおりの積付けを行い、その結果、共栄丸の発航時のコンディションは表2のとおりとなった。

表1
満載出港時標準コンディション


表2
共栄丸出港時コンディション(本件時)


注:ただし海水比重を1.025とする

(6) 鳴門海峡の潮流
鳴門海峡の潮流は、10月30日04時49分が南流から北流への転流時で08時12分が北流の最強時に当たっており、07時08分ごろ大鳴門橋の北側には、約6.5ノットの北流が存在し、潮流の本流西側に深さ約1メートルの渦がそれぞれ数箇所ずつ発生していた。また、同橋の北側で本流西方には0.5ノットの南東ないし東南東へ流れる反流が存在していた。
(7) 本件発生に至る経緯
共栄丸は、A受審人ほか4人が乗り組み、基礎石1,248トンを載せ、平成8年10月30日04時30分福田湾を発し、福良港に向かった。
これより先、前日の16時30分A受審人は、福田湾内の石材積出し桟橋において積荷役を終えたが、揚地着の予定時刻を翌30日07時半ごろと指示されていたことから、鳴門海峡を転流時に当たる30日04時半ごろ通過することとし、福田湾の発航時刻を同日02時00分と決め、このことを乗組員全員に告げて同湾内の防波堤に船尾付けで係留した。
02時00分A受審人は、予定どおり出港しようとしたところ、上陸していたクレーン士を兼ねる一等機関士が帰船しておらず、同人を待って2時間30分遅れて発航したもので、発航後一等航海士に当直を任せて降橋した。
05時57分ごろA受審人は、再び昇橋したところ大鳴門橋がほぼ正船首方向に見え、この進路で航行すれば鳴門海峡の逆潮流の影響を長く受けることとなり、すでに発航時刻が予定より大幅に遅れており、T社代表取締役Cが当日福良港に赴くことになっていたので、入航を遅らせることができないと思い、航行時間を短縮するため、進路を潮流の本流から外してその西寄りを反流を利用して南下することとした。そして、同時58分孫崎灯台から321度(真方位、以下同じ。)10.5海里の地点に達したとき、針路を同灯台を船首方向わずか左に見る143度に定めて自動操舵とし、機関を10.0ノットの全速力前進にかけ、折からの北流に抗して9.3ノットの対地速力で進行した。
06時57分A受審人は、鳴門海峡に接近したので、孫埼灯台から307度1.4海里のところで手動操舵に切り替え、針路を同灯台に向首する127度に転じ、その後反流に乗じて10.5ノットの対地速力で続航した。
A受審人は、このまま航行を続ければ、鳴門海峡最狭部の通過が北流の最強時約1時間前に当たり、流速が6ノット以上で、大鳴門橋北側には渦が発生していることが予測され、更に当時、ハッチを閉鎖しないでハッチコーミンク上端を越えて花崗岩塊をばら積みしている状況であったが、砂利を満載した重心の低い砂利運搬船で潮流の最強時に同様の進路で何度か通過したことがあったから大丈夫と思い、徳島県亀浦港の沖合で錨泊して次の転流時まで潮待ちするなど、潮流に対して十分な配慮をすることなく、鳴門海峡の西側の側方を反流に乗じて孫埼北側に接近したのち、ほほ直角に本流に進入し、右回頭して鳴門海峡最狭部を通過することとした。
こうして、A受審人は、07時03分孫埼灯台から307度660メートルの地点に達したとき、針路を大鳴門橋淡路島側橋脚に向首する102度に転じ、機関を半速力前進に減じて7.5ノットの対地速力で鳴門海峡の潮流の本流域にほぼ直角に進入する態勢としたところ、間もなく船体が北流の影響を受けて左方に圧流され始めたので、右に当て舵をとりながら続航した。
07時07分A受審人は、船首が本流域に進入して左方に振られるとともに、船体が左舷側に5度ばかり傾斜し、以前の経験と比べて傾斜角度が大きいことから機関を微速力前進に減じ、右舷前方に渦が発生しているのを認めていたものの右舵を大きくとったところ、フラップラダーが効いて右回頭を始め、間もなく船首部が渦の中に入り、左方からの強い渦流を受けて急速に回頭を続け、針路目標としていた飛鳥灯台よりさらに右方の大鳴門橋の徳島側橋脚に向首する態勢となるとともに、船体が右舷側に傾斜し始めた。
A受審人は、あわてて予定の針路に戻すため左舵をとって機関を全速力前進にかけたところ、そのころから船首部が右方からの渦流を受けるようになって急速に左回頭を始めたが、船体は傾斜が戻らないまま、大きく右舷側に傾き、積荷の上に積んでいたグラブバケットが右舷側から海上に落下し、次いで積荷や予備のグラブバケットが右舷側に移動して更に大傾斜し、機関を停止して舵を中央に戻したが効なく、07時08分孫埼灯台から066度540メートルの地点において、船首が181度を向いた状態で、開放されていた居住区右舷側扉、船首部デッキコンパニオン扉及び右舷側ハッチコーミングから多量の海水が船内に流入し、復原力を喪失して転覆した。
当時、天候は晴で風力1の南風が吹き、潮候は上げ潮の初期で、付近には約6.5ノットの北流とともに、深さ約1メートルの渦が発生していた。
転覆の結果、積荷及び予備グラブバケットは海没し、船体はグラブバケットを海中に吊したまま漂泊して後日サルベージによって引き起こされ、のち広島県江田島に曳航されて廃船となった。
また、A受審人は、付近航行中の漁船によって救助されたが、当時在橋していた一等航海士D(昭和17年11月26日生)及び機関長EのうちD一等航海士が溺死し、E機関長が行方不明となり、更に一等機関士F(昭和24年6月16日生)及び甲板員G(昭和23年7月7日生)がそれぞれ溺死した。

(原因の考察)
本件は、ばら積みの花崗岩塊をハッチコーミングより高く積み付けた状態で、鳴門海峡を北流最強時の約1時間前に南下中、同海峡の最狭部において転覆したもので、その原因について考察する。
共栄丸は、貨物倉がほぼ乾舷甲板上に設けられており、その倉底のキール面からの高さは3.45メートルであった。当時の積荷は、基礎石と称する花崗岩塊で、ハッチコーミング上端から上に約1.2メートルまでほぼ台形状に積み付けられていた。そして、共栄丸発航時のGoM値を各証拠に基づき算出すると、表2のとおり1.033メートルとなる。
一方、本船において平成5年10月の改造及び増トンに伴い作成された復原性資料において、満船出航状態の標準コンディションが示され、その時のGoM値が1.213メートルで、標準コンディションと異なる積付けを行う場合は、GoMをこれと同じかそれ以上に保つようにと記載されており、本件発生時の共栄丸のGoMはこれより0.180メートル少なかったこと、すなわち重心位置が標準コンディション時より高くなっていたことになる。
しかしながら、本船の発航時の平均喫水がほぼ3.87メートルで、乾舷が標準コンディションのものより0.152メートル多く、乾舷の増加分と積荷をハッチコーミング上端より高く積み上げたことによる重心位置が高くなった分を勘案すれば、本船が平穏な瀬戸内海を通常航行するには支障がない程度の積載方法であったものと認められる。そして、A受審人が同様の積付けのもと、鳴門海峡の転流時に通航した福良港への3航海は、無難に終了している。
以上のことからA受審人が、ばら積み状態の花崗岩塊をハッチコーミングより高く積み上げ、倉口を閉鎖せず、また、復原性資料を十分に検討しないで積荷を行い、同資料において指示されたGoM値を保持しないまま発航したことは遺憾であるが、本件発生の原因とは認められない。したがって、A受審人がこのような積載条件のもと、鳴門海峡最狭部を航行するに当たり、潮流に対する配慮を十分に行わず、逆流最強時近くに航行したうえ、同海峡最狭部付近において、側方から本流に対してほぼ直角に進入したのち渦流のなかを大角度の回頭を行ったことが、本件発生の原因となる。

(原因)
本件転覆は、小豆島福田湾から淡路島福良港に向け、ばら積みの花崗岩塊をハッチコーミングより高く積み付けて航行する際、鳴門海峡の潮流に対する配慮が不十分で、逆流の最強時近くに同海峡を通航したうえ、同海峡最狭部付近において、側方から本流に対してほぼ直角に進入したのち渦流のなかを大角度の回頭を行って航行したことにより、船体の大傾斜を招いて開口部から船内に海水が流入し、復原力を喪失したことによって発生したものである。

(受審人の所為)
A受審人は、小豆島福田湾から淡路島福良港に向け、ばら積みの花嵐岩塊をハッチコーミングより高く積み付け、倉口を閉鎖しないで鳴門海峡最狭部を航行する場合、同海峡の潮流が逆流最強時近くであったから、複雑な強い潮流に遭遇することのないよう、亀浦港沖合において潮待ちのため錨泊するなど、潮流に対して十分に配慮すべき注意義務があった。しかるに、同人は、以前砂利運搬船で砂利を満載して潮流の最強時に同様の方法で通過した経験があったことから大丈夫と思い、潮流に対する配慮を十分に行わなかった職務上の過失により、逆流の最強時近くに航行し、同海峡最狭部付近で船体の大傾斜を招き、共栄丸が転覆して乗組員3人が溺死し、1人が行方不明となるに至った。
以上のA受審人の所為に対しては、海難審判法第4条第2項の規定により、同法第5条第1項第2号を適用して同人の四級海技士の業務を1箇月停止する。

よって主文のとおり裁決する。






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