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1999年(平成11年)

平成10年門審第49号
    件名
漁船第五地洋丸乗組員死亡事件

    事件区分
死傷事件
    言渡年月日
平成11年3月24日

    審判庁区分
地方海難審判庁
門司地方海難審判庁

古川進、畑中美秀、清水正男)
参審員(原泰毅、永石俊幸
    理事官
根岸秀幸

    受審人
A 職名:第五地洋丸一等航海士 海技免状:二級海技士(航海)
    指定海難関係人

    損害
甲板手1人及び甲板員1人が急性呼吸困難、ガス中毒により死亡

    原因
汚水処理装置を保管する際の汚泥引抜き作業不十分、作業にあたり強制的換気措置不良

    主文
本件乗組員死亡は、汚水処理装置を保管する際、汚泥引抜き作業が不十分で、汚泥を含む汚水が残ったまま曝気ブロワが停止されて保管中、同装置内に有毒ガスが発生したことと、同装置の付属弁の取替え作業を行う際、強制的に換気をする措置がとられなかったことによって発生したものである。
受審人Aを戒告する。
    理由
(事実)
1 事件発生の年月日時刻及び場所
平成5年5月3日11時45分(現地標準時)
チリ共和国沖
2 船舶の要目
船種船名 漁船第五地洋丸
総トン数 3,086トン
全長 93.5メートル
機関の種類 ディーゼル機関
出力 3,603キロワット
3 第五地洋丸
第五地洋丸(以下「地洋丸」という。)は、昭和60年10月に進水した、遠洋底引網漁業に従事する船尾トロール型漁船で、チリ共和国タルカワノ港を基地として毎年2月から5月まで南米フォークランド沖でいか漁を、また6月から9月まで南氷洋でおきあみ漁をそれぞれ行い、10月から翌年1月までの間、同港で係船して入渠整備等を行い、日本人乗組員が年2回の同港への帰港時期に交替していた。
船体構造は、船尾にスリップウェイを有する全通二層甲板型で、上甲板前部に居住区、中部に急速冷凍庫及び冷蔵庫、後部に加工工場をそれぞれ配置し、また上部構造甲板には、前部に居住区、中部から後半にスリップウェイにつながる暴露作業甲板があり、船首楼甲板に船長居室、一等航海士居室及び無線室を配置し、船橋甲板に操船等指揮所を有する航海船橋を配置していた。また、上甲板以下には、船首側からフォアピークタンク、錨鎖庫、燃料タンク、魚倉及び機関室を配置していた。
操業形態は、いか漁を底引網で行い、一方おきあみ漁を表層引網で行っていたが、おきあみ漁の際には、漁獲物の品質を損ねないよう、乗組員便所のし尿を船外に直接排出しないための設備を必要としていた。そこで、燃料タンク区画の一部に汚水処理室が設けられ、同室内にR株式会社が製造したSBT-65型と称する汚水処理装置が設置されていた。
汚水処理室は、上甲板居住区の便所直下に位置し、床の寸法が前部幅2.12メートル、後部幅3.00メートル、船首尾長さ2.60メートルの台形で、高さ3.73メートルの天井の前部幅が3.96メートル、後部幅が5.03メートルで、船体外板が右舷側壁を成しており、床から約1.2メートルの高さに船首側から右舷外板にわたって取り付けられたストリンガを中段とし、便所の入口付近にあるハッチから垂直梯子で中段と床とに降りるようになっており、後部右舷側の床に内径310ミリメートル(以下「ミリ」という。)深さ330ミリのビルジだまりが備えられていた。また、換気装置として、右舷前部から上部構造甲板に至る呼び径80ミリの空気抜管が取り付けられていたが、強制的に給気又は排気をする通風機は備えられていなかった。
4 汚水処理装置
(1) 本体
汚水処理装置(以下「汚水装置」という。)は、本体が好気性バクテリアによる汚水の分解を行う接触酸化槽と、分解された処理水を塩素系消毒薬で滅菌する消毒室(以下「消毒槽」という。)とによって構成され、船首尾方向の各辺が内法で1.3メートル高さ1.6メートルの鋼板製溶接構造の接触酸化槽の中央に同じ高さの円筒状の消毒槽を配置し、上面に本体蓋を載せて周囲をボルトで締め付け、本体内面全体にタールエポキシ樹脂塗料が塗装され、1日最大65人分のし尿を処理する能力を有していた。
接触酸化槽は、底部から0.2メートルの高さまでを除く同高さ1.3メートルの標準水面以下の範囲に、表面積を大きくするため凹凸加工を施した厚さ0.5ミリの硬質塩化ビニール製の接触材を33ミリの間隔で立てて並べ、消毒槽との仕切壁に近い底部に取り付けた4個の空気吹出ノズルから圧縮空気を水面に向けて吹き出させ、槽内の汚水全体に循環流を生じさせるようになっており、本体蓋には4個の蝶ナットを有する直径355ミリの点検用の上蓋と、上部構造甲板まで延びる呼び径80ミリの臭気抜管を備えていた。また汚水の分解で槽内にたまる汚泥を定期的に排出する際に、接触材から汚泥をはく離するために底部から圧縮空気を吹き出す逆洗用空気管を備えていた。
消毒槽は、内径が300ミリで、接触酸化槽の底部から内管で越流してくる処理水を塩素系消毒錠剤に接触させて滅菌処理するもので、排出ポンプの発停制御と高水位警報のために静電容量式液面検出器を備え、槽上部で接触酸化槽の臭気抜管と連絡していた。
塩素系消毒錠剤は、外径42ミリ、高さ317ミリの2本の塩化ビニール製消毒筒に入れられ、同筒の底部付近に処理水が接触するための通過孔があけられ消毒錠剤が下から順に処理水に接触して溶解するもので、汚水装置本体蓋の上部に突き出た補給キャップを外して補給することができた。
消毒槽及接触酸化槽の排出弁は、各槽底部から本体船首側に出た呼び径40ミリの鋼管製排水管に接続され、消毒槽排出弁の出口が排出ポンプヘ、また接触酸化槽排出弁の出口が海水供給管にそれぞれ連絡し、両排出弁出口の間を中間弁が仕切るよう配管されていたが、いずれもねじ込仕切弁が用いられていたので、各弁を取り替える際にはねじ込配管と4個のフランジを仕組みとして取り付けたまま取り外しをしなければならなかった。
(2) 付属装置
曝気ブロワは、1.5キロワットの電動機で駆動されるルーツ式ブロワで、本体側壁の台上に設置され、圧力2キログラム毎平方センチメール、標準状態で0.98立方メートル毎分の圧縮空気を呼び径32ミリの鋼管で接触酸化槽の空気吹出ノズル又は逆洗用空気管に送るものであった。
排出ポンプは、吸込部に固形物を粉砕するカッターを有する遠心ポンプで、本体の船首側に電動機と一体型で立てて設置され、制御スイッチが「自動」位置にしてあれば、前示液面検出器の信号で消毒槽の水位が底部から1,062ミリで始動し、同312ミリで停止するようになっていた。
(3) 取扱説明書
取扱説明書には、運転操作、一時停止操作、維持管理等の諸説明が記述され、その中で汚水の入った状態では曝気ブロワを停止しないよう説明されていたが、同ブロワを運転しない状態で放置すると硫化水素、炭酸ガス等が発生するおそれがあることの記述がされていなかった。また、汚泥引抜きのとき排出終了の判断方法として、排出ポンプの吐出圧力計の指示の低下で見るように、また長期保管上の注意として上蓋を外して掃除用水を入れながら洗浄し、内部を空にして運転を停止するよう記述されていた。
(4) 運転の概要
初期の運転条件は、接触酸化槽に便所の流し水と同じ海水が張られ、同槽の空気吹出ノズルに曝気ブロワから圧縮空気が送られた状態で汚水装置入口弁を開き、便所からのし尿を受け入れるもので、排出ポンプが自動発停して消毒槽から処理水を船外に排出するようになっていた。また、連続運転中は、バクテリアの分解処理によって接触酸化槽に汚泥が増加するので、1箇月毎に接触酸化槽の逆洗用空気管から圧縮空気を約30分間吹き出させる逆洗と、その後、消毒槽排出弁を閉鎖し、中間弁と接触酸化槽排出弁を開いて排出ポンプを手動で運転し、汚泥を含む汚水を船外に排出する汚泥引抜きとが必要であった。
5 受審人及び指定海難関係人
(1) 受審人A
A受審人は、昭和63年7月以降、数回にわたって一等航海士として地洋丸に乗船し、平成5年1月から再び一等航海士として乗り組んで安全担当者を兼務し、汚水装置の取扱責任者となった。
(2) 指定海難関係人R株式会社
指定海難関係人R株式会社(以下「R社」という。)は、昭和46年以来、し尿を対象とした船舶用汚水処理装置を製造販売し、当初は嫌気性バクテリアで前処理をする方式のものもあったが、前処理槽の容積が大きくなることと処理時間が長いことから、専ら好気性バクテリアで処理する曝気式のものに変更し、更にその後、接触酸化槽に接触材を収めて全体をコンパクトにまとめたSBT型を開発、製造し、地洋丸建造に際して同型式の装置を納入した。
6 乗組員の当直と汚水装置関連の作業
乗組員は、船長ほか甲板部20名、工場事業員2名、研修生7名、機関部7名、司厨部2名及び通信部1名の合計40名で構成されていた。
船橋当直は、航海士と甲板部員1名が3直3交替制とし、漁場間の航海中は各直4時間を1日2回、操業中は各直6時間を2日間に3回行っていた。
汚水装置の取扱いは、甲板員B及び同Cが担当して運転準備や運転中の点検、汚泥引抜き等の定期作業を行い、A受審人が運転開始及び停止の指示をしていた。
7 本件発生に至る経緯
地洋丸は、平成5年1月タルカワノ港のアスマール造船所で船底掃除のために入渠した際それまでの汚水装置の取扱いで弁ハンドル車が割れるなど損傷していた接触酸化槽排出弁、消毒槽排出弁及び中間弁が造船所側の作業でボール弁に取り替えられ、同月27日同港を出港してフォークランド沖で、いか漁を行ったのち、3月初旬に南氷洋に移動しておきあみ漁を行うこととなり、汚水装置の運転を開始したところ、消毒槽排出弁の入口側ねじ込部に水漏れ生じ、またいつしか消毒筒の底板が外れて消毒槽に落下し、これが消毒槽排出管付近を塞ぎ、便所の流し水が出し放しになるなど処理量の多いときには排出ポンプが自動運転しても排出が追いつかず、消毒槽の高水位警報が頻発するようになった。
A受審人は、高水位警報発生時に排出ポンプの手動発停や海水を呼び水にして排出することでその都度対処させていたところ、排出ポンプに異音が生じたので、3月25日機関部に依頼して予備ポンプに取り替えたが、依然として消毒糟の高水位警報の発生が続き、また造船所で取り替えたボール弁のハンドルがフランジに当たって操作しにくいこともあり、汚水装置を停止する機会があれば消毒槽排出弁を取り替えるよう、加工工場の機器の保守整備を担当していた甲板手Dに指示した。
地洋丸は、4月4日南氷洋サウスオークニー諸島近くの海域で運搬船に接舷し、漁獲のおきあみを荷揚げしていた際に座礁し、船底を損傷したので操業を打ち切ってタルカワノ港に向かうこととなった。
A受審人は、同日汚水装置入口弁を閉鎖して便所からのし尿を船外への直接排出に切り替え、次のおきあみ漁開始までに消毒槽排出弁を取り替えることを考えて汚水装置を保管することとし、接触酸化槽を逆洗した後、汚泥引抜き作業をするつもりで、各排出弁と中間弁を全開にして排出ポンプを手動で運転し、同ポンプの吐出圧力計の振れを見たら停止し、海水供給弁を開いて接触酸化槽に張水して消毒槽の高水位警報が鳴ったら再び排水するという操作を翌5日と翌々6日に2回ずづ行わせたが、その後、座礁時に損傷した3番燃料タンクからC重油が漏れ、機関室の船底弁から取り入れていた海水に油の混入が見られるとの報告を受けたので、同海水を用いる汚水装置の洗浄を止め、同月8日から同12日までの間チリ共和国プンタアレナス港に寄港して水中作業による船底の仮修理を受け、本修理のためタルカワノ港に向かううち、同月16日、前示操作による5回目の洗浄を行ったが、上蓋を開いて洗浄水を入れながら排出を繰り返すことをしないまま、槽内部を確認することなく、満水の接触酸化槽の汚水を排出ポンプで排出するうち排出弁ねじ込部から空気を吸い込んで圧力計が振れたので、同ポンプを停止し、接触酸化槽に1トンを超える汚水と汚泥が残存しているのに気付かず、曝気ブロワを停止したまま汚水装置を保管した。
地洋丸は、4月17日同国タルカワノ港に入港して造船所に入渠し、損傷した船底とタンクの修理工事を行ったのち、操業の目的で、船首49メートル船尾6.2メートルの喫水をもって、5月3日03時00分(現地標準時、以下同じ。)同港を発し、再び南氷洋に向かった。
A受審人は、08時00分C甲板員とともに航海当直を終え、朝食後に船内を巡視中、同時50分ごろD甲板手から汚水装置の消毒槽排出弁を取り替える旨の報告を受けて了承したが、汚水処理室に移動式の送風機等による強制的な換気の措置をとることなく、念のた排出ポンプを運転してから作業をするよう、また何か異状があったら報告するよう指示して自室に戻り、休息した。
D甲板手は、単独で汚水処理室に降りて汚水の残存を確認すべく排出ポンプを運転したが、汚水装置の汚水がねじ込部から空気を吸い込んで圧力計が振れたため、接触酸化槽に汚水が残っていないと思い、同ポンプを停止し、消毒槽排出弁、接触酸化槽排出弁及び中間弁が仕組みとなった配管の4箇所のフランジのボルトを外したところ、槽内の汚水が噴出し、体にかかったので、弁と配管を外したまま、居住区に戻り、顔や手に付着した汚れを洗った。
汚水処理室では、汚水装置の各排出弁が取り外されて汚水が同室床に自然流出したのち、同装置内部に発生していた硫化水素などの有毒ガスが流出して室内底部から拡散し始めていたが、C甲板員は、担当機器である汚水装置の排出弁の取替えをかねてから気にしていたものか、あるいはD甲板手に作業の手伝いを依頼されたかして、同室に向かい、垂直梯子を降りながら床に水がたまっているのを見て中段を右舷側に回ったところ、高濃度の有毒ガスを吸って倒れ、まもなく、D甲板手は、同室入口から中段に降り立ったが、同様にガスを吸い込んで倒れ、11時45分南緯37度39分西経73度57.5分の地点で、食事を知らせるために探していた他の乗組員が両人を発見した。
当時、天候は晴で風力1の西風が吹いていた。
D甲板手(昭和26年2月16日生)及びC甲板員(昭和34年4月8日生)は、呼吸器具を装着した機関長らによって汚水処理室の外に救出され、救命処置を受けたが、蘇生反応を示さず、地洋丸が緊急入港したチリ共和国レブ港で急性呼吸困難、ガス中毒による死亡と検案された。
R社は、平成6年7月の製造物責任法の施行に伴い、改定した取扱説明書の冒頭に安全上の警告として、汚水装置内に汚水の残存したまま、曝気ブロワを運転しないで放置すると汚水が腐敗して有毒ガスが発生し、これを吸引すると死亡することがある旨の警告を記載した。

(主張に対する判断)
1 汚泥引抜きと洗浄後の排水
A受審人は、保管中の逆洗と汚泥引抜きを一組にした作業をいつものとおり繰り返し行い、装置を空にしてその後の保管をしたと主張する。
しかし、同人及び当時の乗組員の供述記載から明らかなように、本件後に汚水処理室の床には、自由流出した汚水がたまっていた。おきあみ漁の中断直後から汚水装置入口弁を閉鎖し、船外排出に切り替えていた状況から、便管を含む外部から水、汚水が新たに同装置に入ったとは考えられず、D甲板手が本件直前に排出ポンプを運転し排出した分を加えると、保管中に汚水装置に残存した汚水量は更に多かったことになる。平成5年4月16日の洗浄のあとは、満水ないしはそれに近い量の汚水が残ったと考えるのが相当であり、受審人の主張は認めることはできない。
2 酸欠主因の主張
R社側補佐人は、「通常使用している状態では有毒ガスは生じず、酸欠による死亡である。」と主張している。その論拠は、曝気ブロワを常時運転することで好気性バクテリアを利用して有毒ガスを発生させない装置であるとするものである。
しかし、本件のように積極的な空気の補給がなかった状況では、酸素が消耗された以後は嫌気性バクテリアの支配下に入り、酸欠状態と硫化水素、二酸化炭素の発生は同時進行する状態となり、それぞれのガス濃度は、汚泥の占める割合、温度など種々の条件で変わり得る。確かにどのガスが発生の中心になっても酸欠状態にあるが、「海水希釈生し尿の性状変化調査」の結果にもあるように、これらの有毒ガスの発生が突出しており、装置内のガス部と汚水処理室との容積比が25分の1であることを考慮すると、同室での部分的な酸欠状況よりも有毒ガスの毒性が激しく作用したと考えるのが妥当である。

(原因に対する考察)
本件は、弁の取替え作業に当たった乗組員が、汚水装置の内部に発生した嫌気牲バクテリアによって発生した有毒ガスを吸い込んだものである。以下次の点について考察する。
1 汚水の残留
構造上の問題として、大きな船尾トリム、空気の吸込み、異物の閉塞などの阻害条件が発生すると、排出ポンプの能力が低下するのは避けられない。また、接触酸化槽には消毒槽に設けられているような液面検出装置がない。そこで、確実な排出を期するときは、各槽の排出弁を適切に操作して排出ポンプの吸込みを確保し、上蓋を開いて目視点検に頼らざるを得ない。
取扱説明書では、内部を空にする際に、接触酸化槽排出弁、消毒槽排出弁及び中間弁を全て開いてポンプを運転するよう記載している。消毒糟の液面が著しく低いときに接触酸化槽に汚水が残ったままポンプの吐出圧力計が振れるおそれもあるが、同時に保管にあたって、そこに目視点検と水による洗浄を併記することで対応している。
一方、本件当時の地洋丸における操作上の問題として、運転の途中に定期的に行われる逆洗に続く汚泥引抜き操作と、保管にあたって内部を空にする操作とが必ずしも明確に仕分けがされていないことである。日常的に、作業の目的に合わせた適格な操作が行われていなかったもので、前示のような阻害条件が加わったとき、排出ポンプの能力が発揮されなかったと考えざるを得ない。
2 硫化火素などの有毒ガスの発生
(1) 汚水処理室で採取された1号水中の硫化水素濃度0.83ppm及び2号水中の同濃度0.74ppmという数値を、同室を換気する前の上部空気中の硫化水素ガスと平衡状態であった結果と考え、溶解度のあまり大きくない気体の液体溶解質量について成り立つヘンリーの法則を当てはめてみると、本件発生当時の室温を、航海日誌写中の海水温度摂氏15.6度から摂氏15度と仮定すると、同温度における硫化火素の水に対する溶解度1ミリリットル当たり2.913ミリリットルにより、上部空気中の硫化水素ガスの濃度は最低値として187.4ppmから167.1ppmが算出される。これは、換気前の汚水処理室空気中の硫化水素ガス濃度のあり得る最低値である。B甲板員の供述では前示1号水及び2号水の採取は本件発生当日ないし翌日かはっきり記憶がないとしているが、A受審人がチリ共和国当局の臨検を翌日受けて同室に入った経過を供述しており、採取は翌日すなわち本件発生から24時間は経過していたと考えるのが相当である、換気後は時間の経過に従って水中の硫化水素が蒸散していくから、上記最低値をはるかにしのぐ硫化水素ガスが存在していた可能性が高いと考えられる。
(2) 本件では、汚泥を含む汚水の残存と空気供給の停止という条件があり、嫌気性バクテリアの活動の素地があった。E証人提出の意見書中のものを含む諸証拠文献から、硫化水素の発生があったと考えるのが無理がない。また、同ガスの毒性は、人体に吸引の結果、700ppm濃度で速やかな意識喪失に至り、また800ppmで呼吸停止などの障害に至るという激しいもので、前示の汚水装置内のガス部と汚水処理室との容積比にかかわらずもたらされた結果とも相反しない。
3 異状の予測
先ず、曝気ブロワを停止した状態で、硫化水素など有毒ガスが発生することを予見できたかという点を考えてみる。取扱説明書には、曝気ブロワで積極的に空気を送ることで好気性バクテリアの活動を行わせる装置であること、したがって運用中に曝気ブロワを停止すると好気性バクテリアの活動が損なわれ、汚物が浄化されず悪臭を放つとの説明があるが、汚水が残存し、曝気ブロワの停止状態で長期保管されると嫌気性バクテリアの活動場となり、ひいては有毒ガスの発生となることを予見させるのに十分な説明がなされているとは言えない。船舶職員としてタンク内での鉄錆による酸欠予防など、災害防止の知識と技術が必要とされているところであるが、当時の本船において汚水装置で硫化水素などの有毒ガスの発生を十分に予測できたとは必ずしも言えない。
しかしながら、A受審人は、平成5年1月の入渠工事で汚水装置の本体蓋が取り外されて内部の掃除と点検をした際に、内部に残留していた汚水が運び出されたことを知っていた。また、汚水装置の停止後に操り返し洗浄作業を行ったのは、毎回の洗浄においてポンプによる排出後もある程度の量が残ることを認識していたからであり、弁の取替え前に甲板手にポンプの運転をするよう念を押していたのもその点からであると認められる。同装置の取り扱う対象が汚水であることを考えれば、内容物の残存を予測し、汚水装置を健全な状態で保管するためには、従来から行っていた手順の作業をするだけではなく、与えられた取扱説明書に則って残存のない状態を期すべきであったと言える。
4 作業の安全管理
安全管理の面では、汚水処理室の換気装置が空気抜管のみであった点と甲板手に行わせる作業の性質上から、作業準備として移動式の送風機等を用意することが要請される環境であったと言える。すなわち、取り替える接触酸化槽排出弁は、臭気抜管を除いて密閉されていた汚水装置と汚水処理室との境界の一つであり、その取外しは未知の状態の汚水装置との境界が取り外され、内部がさらされることである。
内容物の特定が出来なくてもその流出に備えて、養生をしたり、排水の準備、新気の供給や空気の排出ができる措置をとることなどが常に求められよう。「3 異状の予測」の項で示したとおり、汚水装置での嫌気性バクテリアによる有毒ガスの発生の予測は必ずしもできたとは言えな状況ながらも、船物の流出に備える一環として、あらかじめ強制的に換気する措置をとるべきであったと指摘されなければならない。

(原因)
本件乗組員死亡は、汚水処理装置を保管する際の汚泥の引抜き作業が不十分で、排出ポンプが空気を吸い込んで同装置の接触酸化槽内に汚泥を含む汚水が残り、曝気ブロワが停止されたまま保管され、汚水中で嫌気性バクテリアが活動して硫化水素などの有毒ガスが発生したことと、同装置の付属弁の取替え作業を行う際、強制的に換気をする措置がとられず、作業に当たった乗組員が装置外に流出した有毒ガスを吸引したことによって発生したものである。

(受審人等の所為)
A受審人は、汚水処理装置の排出弁の取替作業を行わせる場合、汚水処理室が閉所であり、同装置の内容物の予想ができなかったのであるから、その流出に対処できるよう、あらかじめ強制的な換気をする措置をとるべき注意義務があった。しかし、同人は、作業にかかる前に排出ポンプを運転するよう指示しておけば大丈夫と思い、あらかじめ強制的な換気をする措置をとらなかった職務上の過失により、同槽内にたまっていた汚泥を含む汚水から発生した有毒ガスが流出し、作業に当たった乗組員がそれを吸引し、死亡するに至った。
以上のA受審人の所為に対しては、海難審判法第4条第2項の規定により、同法第5条1項項第3号を適用して同人を戒告する。
R社の所為は本件発生の原因とならない。

よって主文のとおり裁決する。






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