ただし1275年以前の海図は一つも残っていない。14世紀頃からポルトラーノ(portolano:イタリア語で航海案内を示す)が作られるようになった。多くは東を上にして地中海その他で目印になる洋上の諸点から磁石が示す方位線を描いて、目的値が読み取れる仕組みであった。
15世紀の西欧による大航海時代はまずポルトガルのエンリケ航海皇子の英断から始まる。地中海の出口にあるヘラクレスの柱(ジブラルタル海峡)は古代から地中海世界の地の果てと、船乗りたちに恐れられていた。その出口の先、カナリア諸島に強い潮流があると聞き、調査隊を派遣するとともに、1419年にはポルトガル南端サグレスの宮廷に天文台・航海学校を設け、地図の研究、コンパスや船舶の改良に努めて、探検を科学に高め、インド航路の発見を意図し始めた。エンリケ皇子の決断力、航海術理論、羅針盤等の諸道具、詳細な海図、風上にも廻れる大三角帆とスリムな船体で快速を誇る大型カラベル船という、ヒト・コト・モノの出合があって、大航海時代が展開したのである。さらに大航海時代のパッションには、宗教・経済・軍事・政治の複合因が絡みあっていた。第一にイスラム教徒に抗するキリスト教布教という十字軍的情熱、第二にギニア金の獲得欲、第三にインドやアフリカ方面にいるとされた伝説のキリスト教王プレスター・ジョンの探索欲、第四に東洋の香辛料への希求、が挙げられる。
正角円筒図法のメルカトルの世界地図は1569年に登場する。今日でも圧倒的にメルカトル図法の地図が好まれるのは、その地図上のどの2地点をとって結んでも、その直線(航程線)はどの子午線とも同じ角度で交わっている、という利点があるからである。つまり航海者は、メルカトル地図によって得られる目的地の方位を保てば、目的地に無事到着できる。
幕末には伊能忠敬のきわめて精度の高い日本全国沿岸測量図が天文方の高橋景保によってシーボルト所蔵の書物等と交換され、いわゆるシーボルト事件が起こる。シーボルトは国外追放、景保は捕らえられて獄死した。シーボルトは写しをヨーロッパに持ち帰り、それをロシアの水路学の権威クルゼンシュテルンは高く評価した。
(3) 科学技術の渡来
西欧式航海術が江戸初期に入ってくるまでに、沖縄八重山諸島では、北斗七星と南十字星で夜南北を知った。8世紀初頭の和銅年間に近江から「慈石」(磁石)を献上したという記録があるから、磁針で方位を見るという技術は早かったかも知れないが、室町期末の千石船には使われたという。ポルトガル由来かどうかは不明である。