「敦盛(あつもり)最期」の頃はその哀れな美しさに涙しない者はいません。まさに“うらみぞ深し”一の谷の浜辺です。
関東の老武者熊谷次郎直実は「助け船に逃げて行く平家の中で、身分の高い立派な大将軍と組ち討ちしたい」と思って浜辺に敵を追います。と、
……武者一騎、沖なる船に目をかけて、海へざっとうち入れ、五、六段ばかり泳がせたるを、熊谷、「あれは大将軍とこそ見まゐらせ候へ。まさなうも、敵に後ろを見せさせたまふものかな。返させたまへ。」と、扇を上げて招きければ、招かれて取って返す。
取って返した武者は豪華な鎧甲(よろいかぶと)に身を包み、黄金づくりの太刀、滋藤の弓を小脇に連銭葦毛の馬にまたがる、まさに大将軍のいでたちの武者です。真実は、これこそ望んでいたよき敵なれと馬を並べて組み、どっと落ちたところを押さえて、甲を押しのけて首を斬ろうとしますと、なんと年のころ十六、七歳ばかりの若武者で、薄化粧をして、おほ黒までつけているではありませんか。直実の子の小次郎ほどの年齢で、容貌も実に美しい公達ですので直実はとても首を落そうとは出来ません。
助けようと思ったのですが、後ろをふり向くと味方の土肥、梶原の手勢が続いて来ています。
この若武者、直実が名前を聞いても応えません。直実は、わが子が軽い傷を負っても気がかりなのに、この子の父はわが子が討たれたと聞いたらどんなに嘆くだろう、ぜひ助けたいと思っても今はどうしようもありません。直実は涙を抑えて申します。
助けまゐらせんとは存じ候へども、味方の軍矢雲霞のごとく候ふ。よものがれさせたまはじ。人手にかけまゐらせんより、同じくは、直実が手にかけまゐらせて、後の御孝養をこそつかまつり候はめ。」と申しければ、「ただ疾く疾く首を取れ。」とぞのたまひける。
●世の無常を感じた直実
泣く泣く首を落とした直実は「弓矢をとる身ほど情けないものはない。武家の家に生まれなかったならば、こんなに悲しいめに会わなかったのに。」と嘆くのでした。
直垂を切り取って首を包もうとすると、錦の袋に入れた笛を腰に差していたのです。
あな、いとほし。この暁、城の内にて管弦したまひつるは、この人々にておはしけり。当時、味方に東国の勢何万騎があるらめども、いくさの陣へ笛持つ人はよもあらじ。上臈(じょうろう)はなほもやさしかりけり。
と感じ入って義経に見せたところ、これを見る人で涙を流さない者はいないと、『平家物語』は涙ながらに綴ります。
後に聞けば、修理大夫経盛(つねもり)の子息に大夫敦盛とて生年十七にぞなられける。それよりしてこそ、熊谷が発心の思ひは進みけれ。
この若武者こそ、清盛の弟経盛(壇の浦で戦死)の三男、つまり清盛の甥の五位の大夫敦盛だったのです。
直実は世の無常を感じ仏門に入ることを願い、源平合戦後仏門に入り蓮生(れんしょう)と号したのでした。
笛は小枝と申し後鳥羽院から賜ったものを相伝したものでした。
一の谷の渚に美しい悲話をとどめながら、『平家物語』は平家一門の滅亡の筆を早めていくのです。屋島そして壇の浦へと。
(第六話 終)