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日露の大艦隊による日本海海戦が行われた明治三十八年にLSTがタイムスリップした訳ではない。

過日、亡くなられた司馬遼太郎氏の著書「街道を行く」の「三浦半島」を読んでいたら、現在横須賀に記念艦として保存されている旗艦「三笠」について、ちよっとひねって言うと、標題のように言える記載があり、早速私が「三笠」を訪れ、艦内の資料をメモしてきたものを含め紹介する。

先ず、司馬氏の記載を紹介すると、「その後の「三笠」は不幸だった。日露戦争のあと、佐世保に停泊中、火薬庫が爆発して沈没した。のち引き揚げられたが、大正十二年(一九二三)には老朽のため艦籍よりのぞかれ、大正十五年、当時"楠ヶ浦"とよばれていた現在地に、記念艦としてコンクリート固定された。

第二次大戦後は、もっと悲惨だった。初期に、進駐してきた米軍によって、展示品のめぼしいものは持ち去られたという。(略)……その間、老朽化がはなはだしくなった。その惨状を、昭和三十年(一九五五)のジャパンタイムの紙上でなげいた英国人がいた。」と書いてある。

その人は、ジョン・S・ルービン(七五歳)という大の三笠ファンで、わざわざ三笠に会うために日本を訪れたとのことで、艦内に掲示されている投書の一部を紹介すると「数週間前に横須賀を訪ね、三笠公園に駆けつけました。懐旧の念とともに、私はかって世界最強であった軍艦が今やコンクリートに埋設され廃艦となっている姿をみました。ああ無残にも、艦長居室は取り払われ、提督居住区は数葉の東郷提督と士官達の写真がある他は、内装ははぎ取られ荒廃しておりました。光陰矢のごとし、栄光は消え去りぬ」と書いてある。

次いで、司馬氏の文から要約すると、この投書の反響は大きく、小泉信三、伊藤正徳らの他、山梨勝之進元海軍大将も保存に動き、また、この記事に心を動かされた在日米海軍司令長官であるカラハン中将も保存に尽力し、太平洋戦争時に米海軍の指揮をとったC・W・ニミッツ元帥も「文藝春秋」に保存を訴える文を寄稿したり、著作料を寄付したとのことである。

艦内の説明板にニミッツ元帥について記載があり、一部を紹介したい。

「第二次世界大戦終了直後、三笠はニミッツ元帥の配慮により、昔の姿そのままに大切に守られていましたが、これはコンクリートで固めた要塞で、戦争放棄を誓った日本に不要、と強固に解体を迫る某国代表の発言の前に、風前の灯の状況になりました。しかし、国民的記念艦として、国民に認められ、親しまれてきた由緒あるものの保存に理解を示す米英代表の主張によって、廃棄処分の危機から救われました。」

この後を司馬氏の文を引用すると「アメリカ海軍は、LST一隻を寄付した。スクラップにされての代金が「三笠」保存のために寄付されたのである。」

説明板の「強固に解体を迫る某国」とは皆様想像どおりの国です。

それに比べ、米国は、一時、大砲などを撤去し、船内を改造しダンスホールにし、水族館も併設していたと聞いているが、その一方、昨日の敵であったニミッツ元帥あたりが保存に動き、日本と戦場で戦ったかもしれないLSTが、「三笠」のために、言うなれば「体を売って」老齢・死の床に伏していた「三笠」を生き返らせたという事実を紹介したい。

〔追記〕

九月十九日、横須賀に寄港していたロシア太平洋艦隊ミサイル駆逐艦の士官候補生などが日露海戦以来九十五年振りに「三笠」を訪れたとのこと。

 

 

 

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