続いて竣工の改良型阿蘇山(アソサン)丸、青葉山(アオバサン)丸の二隻と、更に有馬山(アリマサン)丸型三隻計七隻の高速船で月二回の配船を実施、三井物産のA型高速定期船と呼ばれ、戦前の紐育急航船の花形として賞讃されていた。
その後三井物産は日中戦争勃発の翌十三年初めに至り、紐育航路で好評を博した有馬山丸級の更に改良拡大型二隻を新造、紐育航路の増強を決定し三井造船王工場に発注、第一船は同年三月二十九日に、第二船は六月十三日起工となり、夫々進水式の時に淡路山丸、綾戸山(アヤトサン)丸と命名されたのである。
第一船淡路山丸は翌十四年七月十五日に竣工し、直ちに紐育定期航路に就航したが第二船綾戸山丸は、完成が二年後の十六年二月に遅れ、その理由は丁度同所で建造中の海防艦占守(シュムシュ)、石垣(イシガキ)等軍事優先のためであったと伝えられる。
昭和十四年七月の日米通商航海条約破棄で、外交関係悪化のため紐育航路も中止となり、綾戸山丸は十六年二月二十四日に竣工したが、四月十二日から軍の要請で民間船のまま、重慶政府支援物資の搬入阻止を目的の淅東(セツトウ)作戦参加の第五師団部隊と、軍事資材を南鮮から中、南支の諸港に輸送した。
三井物産船舶部の戦前建造最終船となった綾戸山丸は、九、七八八総屯数の鋼製貨物船で主機は三井BW二DA型一機で、出力は一万馬力を突破一一、〇九二馬力となり一九・七節を記録、一番船淡路山丸の一九・九節に次ぐ戦前三井の最高速力船で日本郵船崎戸(サキト)丸型S級(クラス)七隻に匹敵する優秀船であった。
船体容姿は低船首楼(ローフォックスル)付平甲板船(フラッシュデッカー)で、六船艙に対し四組の門型揚貨柱(キングポスト)が装備され、その第二と第三に夫々前檣と後檣が立ち、船橋楼の後端には一組の揚貨柱(デリックポスト)があり電動荷役装置が前部に四組、後部に五組完備して荷役能率を高めていた。
遠望の外観は殆んど有馬山丸と大差はないが、中央部船橋楼甲板は一段増設して四層構造となり、船橋前面は丸みのある流線型を採用しスピード感溢れた船であった。
太平洋戦争開戦前の昭和十六年七月、姉妹船淡路山丸、僚船熱田山丸と共に陸軍徴傭船となり、緒戦時の山下奉文(トモユキ)中将麾下(キカ)の近衛、第五、第十八師団精鋭分乗の輸送船二十六隻で、馬来(マレイ)半島シンゴラ、コタバル、パタニなどの八拠点から敵前上陸強襲作戦に参加した。
綾戸山丸は広東(カントン)で十八師団将兵を搭載し海南島三亜(サンア)に集結、十二月四日出港し暹羅海湾(サイアムガルフ)東岸フコク島南部に進出、十二月八日の宣戦布告を期して淡路山丸、佐倉(サクラ)丸と三隻でコタバル沖から敵前上陸に成功したが、この作戦中に姉妹船淡路山丸が英空軍の爆撃と、和蘭(オランダ)海軍潜水艦の雷撃で沈没し、日本商船中最初の犠牲船となった。
続いて仏印カムラン湾から今村中将率いるジャワ島攻略戦に参加、第二師団部隊を搭載し二月十八日出撃、同二十八日総勢四十七隻の船団でジャワ島西部バンタム湾とメラク泊地に上陸、破竹の勢いで首都バタビアとバンドンを占領しジャワ島進攻の目的を達成した。
その後同十七年六月蘭印からの転進部隊を乗せ、ダバオ、パラオ、ラバウル経由でニューギニア攻略MO作戦に参加、同七月二十二日南東岸バサブアで揚陸作戦中、米濠空軍の熾烈な爆撃を受け火災が発生し座礁沈没、南溟(ナンメイ)に散華(サンゲ)した。
松井邦夫(関東マリンサービス(株) 相談役)