瀬戸内の船運と港……山内譲
人や物の動きの大動脈であった瀬戸内海では、どの時代においても、その時代の特色を反映した多様な海上交通の姿が見られた。とりわけ海上交通の果たす役割が大きかったのは、陸上交通の諸機関が発達する前の、近世から近代初頭にかけての時代であろう。この時代には、瀬戸内の各地で、様々なタイプの船舶が、様々な航路と港を活用して活動した。ここではそのうちのいくつかの船運を取り上げ、港との関連などを考えながら、その活動の跡をたどってみたいと思う。
◎西廻り航路と塩飽船◎
近世以降の瀬戸内海の歴史を考えるとき、一六七二年(寛文十二)という年は、すこぶる大きな意味を持っている。それは、ほかでもない、河村瑞賢によるいわゆる西廻り航路の開発がこの年に行われたからである。瑞賢は、前年にいわゆる東廻り航路の開設に成功していたが、その経験をかわれて、今度は、出羽国最上地方(山形県)の城米を江戸に運び込む航路の開設を命じられたのである。この航路は、東廻り航路よりもはるかに遼遠で難路であったので、瑞賢は、讃岐国塩飽(しわく)(香川県丸亀市)、備前国日比(ひび)(岡山県玉野市)、摂津国伝法(でんぼう)(大阪市)、同脇浜、河辺(ともに神戸市)などからすぐれた船舶と水夫を雇い入れ、沿岸の諸地域を詳細に調査し、十分な準備を整えたうえでこれに取り組んだ。そしてついに、出羽国酒田の袖浦(そでうら)(山形県酒田市)を出発した城米輸送船を、日本海、瀬戸内海、太平洋を経由して、江戸に送り込むことに成功したのである。この西廻り航路の開発によって、瀬戸内海は、東北・北陸地方の城米や各藩の蔵米が、大量に大坂に向かって流れ込む大動脈となったのである。
河村瑞賢による西廻り航路の開発から五〇年ほど経過して、船舶の往来が日本海や瀬戸内海で漸く活況を呈し始めた享保年間(一七一六〜一七三五)、但馬国今子(いまご)浦(兵庫県香住(かすみ)町)というところで一冊の帳簿が作成された。今子浦は近世日本海海運の寄航地で、その地の浦番所の役人が一七一九年(享保四)から一七二六年にかけて入港する船舶を書き記した「船番所諸国廻船入船記録」がそれである。その記録をもとにして入港した船舶の船籍地を国別に整理した柚木学の研究によると(「近世の日本海海運」森浩一編『日本海と出雲世界』)、船籍国のベスト三は、摂津一〇六艘、越前七四艘、讃岐六八艘となっている。摂津が西廻り航路の拠点大坂を擁していること、越前が日本海航路のいわば地元であることを考慮に入れるならば、讃岐の六八艘という数字がひときわ突出していることに気付くはずである。この、讃岐船籍の中心をなすのが塩飽船である。
塩飽の水運力は、すでに中世の時代から著名であり、一四四五年(文安二)に兵庫港に入港した船舶を記録した「兵庫北関入船納帳」によると、一年間に三七回の入関が記録されている。この三七回という数値は、個別港湾別の入関回数としては、同帳に記載されている一〇〇か所にあまる港湾のなかでも一五位に位置するものである。この水運力は、その後戦国時代末期には信長・秀吉の統一権力の利用に供され、やがて徳川幕府が成立すると幕府権力との結びつきを強めていくことになる。これまで内海を自由に航行していた塩飽船は、こうして統一権力の保護下にはいり、それへの奉仕の見返りとして認められたのが著名な人名(にんみょう)制である。これによって塩飽の船方衆六五〇人は、一二五〇石の領地での自治を認められた。