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沖浦…これはかなり後のことで織田・豊臣時代以降の統治システムですね。中世の一〇世紀、東の平将門の乱と呼応した形で、藤原純友の乱が起きます。瀬戸内で藤原純友をリーダーとする海賊の一党が起こした大反乱です。宇和海の日振島が中心で一五〇〇隻を集めて大決起したといわれています。しかし、純友の戦跡を辿ると、やはり芸予諸島や塩飽諸島が中心で、そこの海民たちを糾合したと思われます。純友を祭った純友神社が塩飽諸島の松島という小さな島にもあるのです

谷川…純友の子孫はたくさんいるのです。肥前の有馬氏や大村氏は純友の子孫であることを認じています。必ずしも逆賊だから自分たちの先祖とするのはもっての外というわけではないのです。将門の子孫と称するものもいます。日本史というのは逆賊だからといって排斥するのではなく、むしろ尊ぶ。エネルギーがあって面白いです。

沖浦…安倍宗任は前九年の役で厨川柵で降伏しましたが、一時は伊予に流されて、後に九州の太宰府に移されました。そういう因縁があるので、松浦水軍の祖といわれたんですね。四国の海民の間では、宗任崇拝が根強く残っていたようですね。

谷川…伊予に行ったというのは源頼義の荘園のような本拠地があったのでしょう。だから賊首の宗任を伊予に連れていったのですね。私は純友のこともあるので、伊予が不穏な所ではないかと最初思っていましたが、そうではなかったのです。筑前の大島には宗任のゆかりの寺があります。

沖浦…瀬戸内でも宗任を名乗っている方が、今でもいます。

 

◎瀬戸内の水軍系譜◎

谷川…塩飽水軍の場合、本島を中心としているのですが、村上水軍と比べますと体制にうまく徴用された印象が強い、関ヶ原の戦いの後、家康のもとにご機嫌伺いに行ったりするなど。

沖浦…そのとおりです。古代から中世にかけて、さらに戦国時代に入りますが、芸予諸島での水軍の系譜は越智、河野、村上水軍と続いていきます。当時の海民は、ヤマト王朝の支配下にある一部を除いて「化外の民」と見られていました。

越智水軍は大山祇(おおやまつみ)神を「海神」として祀っていました。しかし、この越智水軍は朝廷の正史には出てこないのです。安曇や宗像、住吉系の水軍は、朝廷の傘下の水軍として掌握されていましたから正史に出てきます。白村江の戦いの時には、九州から二万七千人の兵を送りこんでいます。もちろん安曇の水軍だけでは足りませんでした。だから斉明天皇が瀬戸内(熟田津(にきたつ))に三ヵ月も滞在して、当時の芸予諸島の海民で組織されていた越智水軍を徴用したのです。

谷川…斉明天皇が熟田津になぜ寄ったかということがよく分かりますね。越智水軍を朝鮮半島に連れて行くためだったのですね。

熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな

宮本常一さんはこの万葉集の歌に見事な解釈をしています。潮流が肇後水道の方へ流れていくのを見計らって出航したというのです。これは月と潮の関係ですが、熟田津は砂浜ですから、船を押し出して出航しなければいけないが、満ち潮の時には楽に出られる。

 

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因島村上水軍の大安宅船模型(因島水軍城)

 

 

 

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