ベトナムの水牛供犠と柱……杉野孝典
◎柱のようなもの◎
一九九八年、長野県諏訪大社の「御柱祭」にちなんで、諏訪博物館で「御柱とアジアの柱祭り」と題した企画展が行なわれた。まったくひょんなことから、この展示にベトナムの中部高原で行なわれている「水牛供犠」の柱を現物で展示しようということになり、そのお手伝いをすることになった。展示までのいきさつはそれなりに苦労もあったが、それよりも展示中、ベトナムの柱と諏訪の柱との関連、稲作儀礼との関わりなどを聞かれて困ってしまった。永い歴史的経緯を経てきた儀式を安易に結びつけることなど私などに到底思いもよらないことだからである。そんな折り、展示企画の一環として杉浦康平先生の講演会が行なわれ、そのタイトルに「柱のようなもの」とあり、その表現に妙に安堵感を感じたりした。
東南アジアでのフィルドワークを続けていると、「柱」を伴う信仰がさまざまな形で存在していることに驚かされる。それらは儀式として継承されているものもあれば、建築物に姿を変えていたり、あるいは織物の柄のモチーフであったり、さまざまな形をとりながらも、信仰の重要な位置を占めているのが見てとれる。
インドネシア・スマトラのイカット。霊舟の中央に柱が立つ図案。アジアには柱が建つ絵柄が多く見られる
「柱のようなもの」という視野に立てば、柱や樹木に対する信仰は世界中に広く分布し、また、人類共通の宇宙観と密接に関わっていると思えてくる。そのようななかでもベトナム中部高原の人々のあいだで現在も伝わる、「水牛供犠」儀式はその原型の一端を語っているものとして大変興味深い。
一九八七年ベトナムでの民族文化の取材を始めた私は、ベトナム全土を俯瞰的に掌握するため、中国との国境をかわきりに各省を訪ね歩くことにした。しかし、この計画には思わぬ壁が立ちはだかった。当時、中国国境は数年前の中国軍の侵攻の後遺症が残っており、またカンボジア・ラオス国境はベトナムのカンボジア侵攻で極度な緊張状態にあり、外国人の立ち入りは厳しく制限されていたのである。幸いこの取材をサポートしてくれていたベトナム通信社の強い後押しもあって、その年の秋、中部高原取材が実現した。