灯火(ともしび)としての存在
最後に、私と亡妻がボランティアの方から受けた大きな慰めの思いをお伝えしようと思います。
私の家内は、胃がんの再発のために8年前に、清瀬の救世軍のホスピスで亡くなりました。食道の狭窄が強くなってしまって、食事もほとんどとれなくなってしまっていました。胸に詰まってしまって下りていかないという状態でした。
そんなある日の午後3時に、ボランティアの方が「今日はこんなものを作ってみましたの」と言って、緑色と桃色と白の3色の小さなシャーベットをきれいなガラスの器に盛って病室に持ってきて下さいました。家内は、「おいしそうだわ。いただこうかしら」と言って、緑色のシャーベットを少しずつスプーンでとって、「ほんとにおいしいわ」と言って食べ始めました。そして「もういいわ。あとはパパどうぞ」と、私に勧めました。私は残りの2つを食べました。冷たく甘いシャーベットでした。そしてその次の日から、家内はもう何も口からはとれなくなりました。家内は1カ月ホスピスにいて亡くなりました。あのときの3色の小さなシャーベットは、私たち夫婦の最後の晩餐だったと私は今も思っております。あのときのボランティアの姿を私は今も思い出すのですから、帰天の家内には、それ以上の思いとして残ったことだと思います。
期せずして宮澤賢治が『永訣の朝』の中で、「これが天上のアイスクリームとなって」と詠ったそのことが、一人のボランティアによって私たち夫婦にももたらされたことを不思議な恩寵として思い出します。
星は夜空に輝く。しかし、太陽の照る中では星の存在はまったくわからないのです。それが夜の役目であり、星の役目なんだろうと。私は思います。太陽の照るときにはわからない存在でありつづける役目もあるのだろうと思います。
ホスピスボランティアにはそのような役目が、そしてそのことを知ることの恩寵も与えられているのではないかと私には思われるのです。
(本誌は1999年度LPCヘルスボランティア講座とピースハウスホスピス研究所ボランティア講座で話したものをまとめて加筆したものです。)