国税では、勧告の核心をなしていた包括的所得税がいち早く侵食された。地方税では、事業税に代わる筈だった付加価値税は、付加解税などと揶揄されて、結局実施されずじまいだったし、市町村に限定された住民税は、道府県税として復活した。配布税に代えて導入した平衡交付金制度がうまく機能せず、配布税と同様、国税の一定割合にリンクした地方交付税にとって代わられたことも、重大なトピックだといっていいであろう。だが、問題はそうした、勧告に基づく制度の修正に止まらなかった。それらの制度を運用すべく設置された地方財政委員会の変質のほうが、事柄は深刻だとみなすべきかもしれない。内閣から独立して地方財政の自律性を確保しつつ、地方税や地方債や平衡交付金など財政事項のみを所管するとされたこの組織も、自治庁から自治省の設置の流れのなかで、その位置付けは大きく変わっていった。シャウプ勧告とそれに基づく税制がかくも短命だったのは、ある意味で当然だった。占領軍の絶対的な権威によって遂行されたいわば外からの・上からの革命ともいうべきこの変革は、第1に、はじめから当時の日本の現実に適合的でなかった、第2に、間もなく始まった高度成長に適合的でなかった、第3に、福祉国家を目指す現代国家として適合的でなかった、からである。
では、勧告はなにも残さなかったのか。そんなことはない。逆である。上記の「適合的でなかった」ことこそ、この勧告が日本に残した贈り物であった。租税は納税者のものであり、公権力はその使途を納税者に明瞭に示さねばならず、その点では国税より地方税のほうが、また地方税のなかでは府県税より市町村税のほうがより相応しい。また納税者はサーヴィスを求めるならば税負担を高める必要がある。最近の用語でいえば、透明なアカウンタビリティが税には不可欠だという租税の普遍的な根本原理そのものが、勧告の精神であった。そしてそれこそは、明治以来現在に至るまで、与えられた歴史的条件に縛られた日本にとって、実現することがとりわけ困難な課題だったといわねばならない。日本の国税の、地方税の歪みを根源から照射する光源の位置に、シャウプ勧告は今も在る。
(注1)とりあえず大蔵省『昭和財政史・終戦から講和まで・16・地方財政』(林健久執筆)を参照せよ。
(注2)拙稿「シャウプ勧告と税制改革」(東京大学社会科学研究所編『戦後改革・7・経済改革』所収)