日本財団 図書館




1998年(平成10年)

平成8年神審第40号
    件名
引船翠丸沈没事件

    事件区分
沈没事件
    言渡年月日
平成10年3月6日

    審判庁区分
地方海難審判庁
神戸地方海難審判庁

織戸孝治、佐和明、山本哲也
    理事官
吉川進

    受審人
    指定海難関係人

    損害
全損

    原因
不正に居住室を増設、頭部過重気味の状態で航行、避難の措置をとらず

    主文
本件沈没は、乾舷が著しく減少し、かつ、頭部過重気味の状態で航行したことと、避難の措置がとられなかったこととによって発生したものである。
    理由
(事実)
1 事件発生の年月日時刻及び場所
平成7年4月14日06時40分
和歌山県田辺港北西沖合
2 船舶の要目
船種船名 引船翠丸
総トン数 19トン
全長 18メートル
機関の種類 ディーゼル機関
出力 735キロワット
3 事実の経過
(1) 来歴及び改装工事
翠丸は、B指定海難関係人が内航海運業に伴う曳(えい)船等業務に使用する目的をもって、A有限会社の所有船として平成3年12月に進水、翌4年4月に竣工した幅6.00メートル深さ1.65メートルの鋼製引船兼押船で、船体中央部に機関室を有し、一層全通甲板(以下「上甲板」という。)上に、船首から機関室前部囲壁までの間に上甲板からの高さ1.95メートルの作業甲板を、また、作業甲板の後部に櫓(やぐら)を組み、船首から4.5メートル上甲板高さ4.5メートルのところに操舵室をそれぞれ設備していた。
ところで、B指定海難関係人は、長年海運業に従事しており、過去何隻もの内航船の建造に携わって経験豊富なことから、翠丸についても、その船型、大きさ、艤(ぎ)装及び主機関など自ら選定して建造にあたらせ、船舶安全法の規定による検査を受けて運航していた。
運航開始後、B指定海難関係人は、当初、日帰り航海で運航するつもりで翠丸を竣工させていたため、乗組員搭載場所を機関室囲壁前面から船首方2メートルの間の上甲板上の空間とし、同所に便所等を設け、上甲板と作業甲板との間の側面に風浪よけのキャンバスの囲いを施していたところ、乗組員から居住設備について苦情が出たため、同年5月、正規の手続を経ないまま、作業甲板と上甲板との間の前示キャンバス部を鋼板にするとともに機関室囲壁両舷側に後部上甲板に通じる出入口鋼製扉を取り付け同扉から船首部までの上甲板を完全に囲い、内部にベッド、浴室、洗濯機、冷蔵庫、机、いす、炊事設備などを設置し、実際上の居住室として使用していた。また、同人は、大阪港での工事作業受注の便宜を図るために同人の長女が代表取締役社長となるB有限会社を設立して、同年6月翠丸の所有者名義を同会社に移したものの、引き続き同船の運航・管理を行い、主に大阪港付近にて押船として稼働させていたが、同6年3月からは工事作業の受注がなくなり、ほとんど係留させていた。
(2) 構造及び艤装
改装後の翠丸の構造及び艤装の概要は次のとおりであった。
上甲板下は、船首から順にボイドスペース、錨鎖庫、倉庫、燃料タンク及び同タンク両舷側に左右舷ボイドスペース、機関室、船尾タンク並びに舵箱に区画され、上甲板上は、船首から順に前示増設居住室、機関室囲壁及び曳航装置があり、操舵室は、同居住室の上方の前示位置に設置されていた。
居住室は、上甲板を床、作業甲板を天井とし、船首から機関室囲壁前面までの約7メートルの長さで、船尾側左右舷端からそれぞれ20センチメートル(以下「センチ」という。)の位置に高さ1.6メートル幅0.6メートルの後部上甲板に通じる左右出入口鋼製扉が、同中央に同寸法同質の機関室階段に通じる機関室出入口扉がそれぞれ床面から25センチのところに取り付けられていた。また、居住室内両舷側床に左右舷ボイドスペースの空気抜き管が、右舷床に錨鎖庫ハッチが、左舷床に倉庫ハッチがあり、船尾側左右端下部には、居住室排水口として直径約4センチの開口部を空け、台所などの生活排水を、高さ5センチの鋼板を舷側に沿って設置した室内排水溝によって同排水口に導き、後部上甲板へ排水していた。
なお、居住室には前示扉、排水口及びハッチのほかには開口部は設けられておらず、左右出入口鋼製扉はクリップが1箇所のもので、正規の風雨密鋼製扉ではなかった。
上甲板上には、居住室後端から船尾部の間に、70センチの高さで設けられたブルワークに片舷につき幅20センチ長さ80センチの放水口4個(内3個は浪除け板付)が、また、船尾端から前方3メートルの間は上甲板より15センチ嵩(かさ)上げされた船尾甲板が設けられ、同立上がり部両舷側に高さ15センチ幅20センチの放水口各1個が設置されていた。
(3) 発航時の船体状態
B指定海難関係人は、翠丸が平成7年4月から横浜港において工事作業に従事することになったので、回航準備として上甲板の水はけを良くするつもりで片舷につき高さ55センチで幅が80センチと60センチの放水口各々1個を新たにブルワークに増設するとともに、燃料約7キロリットル(以下「キロ」という。)、船尾タンクにほぼ満水の清水約6トン、船橋下の櫓に移動式発電機(重量約2トン)やプロパンガスボンベ、その他暴露甲板上にロープ類及び軽油・潤滑油の入ったドラム缶6本などを積載して回航準備を終えたところ、翠丸は、頭部過重気味となったうえ、乾舷が著しく減少し、船首1.55メートル船尾1.65メートルの喫水となり、放水口すれすれに水面が達する状態となった。また、居住室の排水口には、発航直前、同人の指示により、甲板員が居住室内側から手でパテを排水口に押し込んだだけの簡易な防水措置を施した。
(4) 翠丸乗組員
船長C(大正6年3月23日生、一級小型船舶操縦士免状受有、受審人に指定されていたところ死亡により平成9年8月6日同指定取消)、A指定海難関係人ほか甲板員1人の計3人は、大阪港内で稼働していたA有限会社所有の引船「舞」の乗組員であったが、たまたま「舞」が入渠したため、B指定海難関係人の指示によりこの3人が翠丸に乗り組んで横浜港へ回航することとなった。因(ちな)みに同3人は、翠丸にはこの時が初乗船であり、発航当日に神戸に到着して同船に回航要員として乗り組んだ。
(5) 沈没に至るまでの経緯
かくして翠丸は、平成7年4月13日11時30分神戸港を発し、途中大阪港に寄港したのち横浜港へ向かった。
C船長とA指定海難関係人は、船橋当直を交替で行いながら友ケ島水道に向かい、同日19時から当直に就いたA指定海難関係人は、21時30分ごろ友ケ島灯台から270度(真方位、以下同じ。)0.2海里の地点で、針路を172度に定めたとき、右舷前方からうねりを受けるようになったので、機関を回転数毎分230の半速力に減じて平均約4ノットの対地速力で進行した。
このころから、翠丸は、うねりの影響で右舷放水口から海水が打ち上げられる状態となり、その後いつしか居住室船尾側右端下部の排水口に施した防水用パテが外れ、海水が居住室内に浸入し始め、翌14日01時ごろからは右舷上甲板に海水が常時滞留するようになった。
A指定海難関係人から船橋当直を引き継いだC船長は、01時ごろ紀伊日ノ御埼灯台から353度8海里の地点で、針路を178度に転じて航行し、03時10分ごろ同灯台から270度0.8海里の紀伊水道で、針路を135度に転じたところ、増勢した南西からのうねりを右舷正横方向から受けるようになり、右舷ブルワークの放水口から多量の海水が打ち込んで船体中央部から船尾側上甲板右舷側が常時没水状態となって復原力が更に低下し、居住室右舷側の滞留水及び発航時からの重心の上昇とも相俟(あいま)って約6度右舷傾斜していたが、まさか沈没することはあるまいと思い、最寄りの和歌山県御坊港に避難するなどの措置をとることなく続航した。
04時ごろ居住室内で寝ていた甲板員は、燃料シフト作業のため起床したとき、右舷側に傾斜して多量の海水が室内に滞留しているのに気付き、バケツなどで排水作業を開始したが浸入量の方が多く、その後右舷傾斜が増大して右舷出入口扉周囲からも海水が吹き出すようになり、右舷ボイドスペースの空気抜き管が冠水して同スペースに海水が侵入し、ますます右舷傾斜が増大するとともに船体沈下量も増加していった。
04時40分ごろC船長は、右舷傾斜が約20度となったので、減速して反転するなどしたところ、同傾斜が一時的に減少したため、半速力に戻して続航したが右舷傾斜は再び徐々に増加していった。
05時ごろC船長は、A指定海難関係人と船橋当直を交替して、甲板員とともに船内見回りをしたところ、上甲板及び居住室内に滞留した海水を認め、ようやく避難の必要を感じて、船橋に戻って和歌山県田辺港に避難するため針路を124度に転じるとともに、A指定海難関係人と甲板員がバケツなどにより排水作業を続けたものの効なく、06時30分ごろには約40度の傾斜となったので、沈没の危険を感じて、他の2人と共に船外へ脱出し、翠丸は、06時40分番所鼻灯台から305度6海里の地点で、海水が居住室内の機関室出入口から機関室に浸入し、浮力を喪失して船尾から沈没した。
当時、天候は曇で風力3の北東風が吹き、南西からの波高約2メートルのうねりがあり、潮候は下げ潮の初期であった。
沈没の結果、翠丸は全損となり、乗組員は通りかかった漁船に救助された。

(原因に対する考察)
翠丸は、正規の手続きを経ることなく、居住室を増設したことと、上甲板上に重量物等を積載したこととにより、頭部過重気味となったうえ乾舷が著しく減少し、航行中にうねりや波浪に遭遇した際、海水が上甲板に滞留し、また、水密が不完全な状態の居住室内に海水が流入するおそれがある状態で発航したものである。
翠丸は、発航後友ケ島水道を南下して外洋に出るにしたがい右舷方からうねりを受けて、海水が、上甲板に滞留して右舷傾斜が始まるとともに居住室右舷排水口及び居住室右舷出入口から浸入し続けて、舷端が没水し、右舷ボイドスペースなどに浸水し、ますます右舷傾斜が大きくなって浸水量が増大し、やがて居住室内機関室出入口から機関室にも浸水するようになって浮力を喪失して、沈没に至ったものである。
また、翠丸は、居住室への浸水及び右舷傾斜開始から沈没までに長時間経過していることと、沿岸沿いに航行していたことから早期に最寄りの港に避難すれば、沈没を免れ得たと考えられ、また、そのような避難をすることができたと認められる。

(原因)
本件沈没は、竣工後、正規の手続きを経ることなく水密が不完全な状態で居住室を増設したばかりか、回航準備の積載物により船体が沈下して乾舷が著しく減少し、かつ、頭部過重気味の状態で航行したことと、紀伊水道を南下中、うねりを右舷方から受けて海水が打ち込み始めて上甲板の海水滞留及び居住室内への浸水により右舷傾斜を開始したとき、最寄りの和歌山県御坊港に避難するなどの措置がとられなかったこととにより、居住室内への浸水が連続し、次いで機関室に海水が流入しで浮力を喪失したことによって発生したものである。

(指定海難関係人の所為)
B指定海難関係人が、居住室を増設したのち船舶安全法の規程による検査を受けなかったばかりでなく、乾舷が著しく減少し、かつ、頭部過重気味の状態のまま発航せしめたことは、本件発生の原因となる。
B指定海難関係人に対しては、勧告しない。
A指定海難関係人の所為は、本件発生の原因とならない。

よって主文のとおり裁決する。






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION