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(事実) 1 事件発生の年月日時刻及び場所 平成7年8月27日16時00分 三重県鳥羽市菅島東部海岸沖合 2 船舶の要目 船種船名
漁船勝丸 総トン数 0.66トン 機関の種類 電気点火機関 出力
7キロワット 3 事実の経過 (1) 勝丸の来歴 勝丸は、昭和48年10月三重県伊勢市のA造船有限会社(以下「A造船」という。)で建造された、登録長6.74メートル型幅1.38メートル型深さ0.35メートルの無蓋小型のFRP製漁船で、かき養殖業を営むBが同56年5月中古で購入し、採介藻漁業を用途として動力漁船の登録を行い、漁業以外に使用することがなかったことから、船舶安全法第32条の規定により、同法の適用除外船として、日本小型船舶検査機構による検査を受けない漁船として使用されていた。 B所有者は、勝丸のほか二隻の漁船を所有し、勝丸の船外機を昭和63年に7キロワットのものに換装し、同所有者の妻に鳥羽港沖合の弁天島・麻倉島及び大村島周辺での採介藻漁業に使用させ、平素、安楽島(あらしま)港東防波堤灯台から150度(真方位、以下同じ。)2,450メートルの三重県鳥羽市浦村町の同人が所有するかき打ち工場前の係船場所(以下「係船所」という。)に係留していた。 (2) 勝丸の船体構造 勝丸の船体は、一体成型されたFRP製モノコック構造で、厚さ約4ミリメートル(以下「ミリ」という。)の外殻に、同様に一体成型されたガンネル部を有する同厚さの内殻を重ね合せ、ガンネル外周部の舷側で両殻を接合したもので、外殻と内殻との間が空所となり、船体総重量は船外機(38キログラム)を除いて328キログラムであった。また、勝丸の建造については、外殻を小池造船が建造したものの、その後、他の建造所で内殻が作られて接合されたもので、その建造経緯については不明である。 船体主要寸法は、全長が6.98メートル、最大幅1.40メートルで、ガンネル上面とキール下面との垂直の高さが、船首端ではシアーがあって0.80メートル、船体中央部及び船尾端ではそれぞれ0.54メートルとなっていた。 外殻は、船尾端から船首にかけて、船の長さの4分の3付近まで、ほぼ垂直な船側外板とわずかな勾配をもった船底外板とによってチャインが形成され、船底の船体中心線に幅25センチメートル(以下「センチ」という。)厚さ2.5センチのキールが、船尾端から船首方に船の長さの4分の3付近まで達したのち、徐々に幅が細くなって船首部材に接合されていた。 また、船体中央部における、ガンネル上面からチャインまでの船側外板の高さは44.8センチ、同部における船底勾配9度で、船体中央線からチャインまでの船底外板の幅は64.8センチであった。 内殻は凹字型の形状をなし、その底面は、長さが5.49メートル、幅が船首側で1.09メートル、船体中央部で1.24メートル、船尾側で1.16メートルの作業甲板となり、同甲板からガンネル上面までの高さは、船首側で39センチ船尾側で35センチとなっていた。 内殻の船首部及び船尾部には作業甲板より一段高くなった部分があり、船首部ではその長さが79センチの三角形の型状をした甲板、船尾部では長さ48センチの長方形の甲板となり、操縦者がこれに腰を掛けて船外機を操作する場所となっていた。 船底空所は、船体中心線上の作業甲板の床下からキール上面までの高さが、前端部で28センチ後端部で12.5センチあり、船首部及び船尾部の甲板下の空所も含め、その容積は1.287立方メートルで、発泡スチロール等の浮力材の充填はなされておらず、不沈性を保つための空所ではなく、甲板上の作業牲能をよくするため内殻を設置した結果生じたものであった。 排水設備については、内殻の作業甲板に溜ったビルジは、同甲板後部のわずかな深さのビルジ溜りから船底空所を貫通したプラスチック製パイプを通じて排水できるようになっており、同パイプには作業甲板に直径3センチのゴム製プラグが設けられていた。また、空所に溜ったビルジは、上架した際に船尾端に設けられた直径2.5センチの真鍮製ねじプラグから排出できるようになっていた。 内殻と外殻の接合は、ガンネル部を形成する内殻を外殻にかぶせてガンネル上面から約10センチ下方で、直径5ミリのアルミニウム製リベットにより接合され、作業甲板は船底空所の外殻に横置して接着された厚さ3センチのラワン製の船底肋材10枚に多数のビスで固定され、ビスの頂部はパテで埋められていた。 ところで、外殻の上端部は、製作された状態のままで削整加工がなされておらず、その先端が下に波打ち、徐々に薄くなって刃物呈していた。 一方、内殻は、その重量が船底肋材で支えられて接合部にはかからない構造となり、また、接合部の重ねしろは数センチから、場所によっては1センチ前後と不均一で、リベットは内殼のガンネル部下端から5ないし10ミリのところに打たれていた。 その結果、接合部は、船体の経年劣化に伴い、リベットの脱落やリベット部の内・外殻の部分欠損により、内殻と外殻の密着が不完全となって、外観上不測の間隔が生じていた。 (3) 受審人A A受審人は、私立大学に勤務しているものであるが、昭和53年に四級小型船舶操縦士の免許を取り、平成2年同大学附属高校の教諭をしていたとき、同瞭9人でモーターボートKAI-1(以下「カイ号」という。)を共同購入し、共有者の内で海技資格を有している者がA受審人のみであったことから、同号を同受審人名義で登録して勝丸と同じ係船所に係留し、月に1回程度共有者等とともに魚釣りなどのレジャーに使用していた。 (4) カイ号 カイ号は、登録長6.21メートルのヤンマーマリーンハンターFZ23Cと称するFRP製モーターボートで、出力116キロワット、航海全速力約30ノット船内外機を装備し、船体中央部に操舵室を設け、同室の前部下段がキャビンで、後部が暴露甲板となり、船尾端に海面から容易に乗船できるステップが設けられていた。また、同船の最大搭載人員が10人で、救命設備として、救命浮環1個、救命胴衣10個が備えられ、日本小型船舶機構の検査に合格している船舶であった。 (5) A受審人が勝丸を使用するに至った経緯 A受審人は、同じ学校の教諭であるC、D及びEと共に幹事となり、以前から計画していたカイ号共有者やその家族で、海水浴やバーベキューなどによる親睦会を行うこととした。 そこで、幹事が集まって数回の打合せを行い、その折、以前に菅島に行ったとき海岸に近づき過ぎてカイ号プロペラを損傷したことがあったので、今回は同号を沖合に錨泊させ、海岸との往復、小型船を交通船として使用することなどを取り決め、親睦会の案内状等の手配にD、E両幹事があたり、小型船の手配をA受審人が行うこととした。 A受審人は、勝丸がいつもカイ号の近くに係留されており、B所有者とも顔見知りであったので、平成7年8月中旬同所有者の妻に用途を説明し、同船を貸してくれるよう依頼した。 ところで、勝丸は日本小型船舶検査機構による検査を免除された漁船であるから、漁業以外の目的で使用する際には、同検査機構による船体強度や最大搭載人員の指定等の検査を受けなければならず、この検査の必要性については、もっぱら漁船の所有者を対象として、同検査機構により指導及び周知がなされていた。 A受審人は、勝丸を借り受けるに際し、B所有者から検査が必要である旨の格別の注意を受けなかったこともあって、漁船にこのような規定のあることを知らず、検査を受けないまま、親睦会の当日に無償で借り受けることとした。 (6) 本件事故に至る経緯 同年8月27日朝A受審人は、今回の親睦会に同人を含め大人9人、高校生1人及び小学生5人の計15人が係船所に集まったとき、菅島の東海岸に行くこととし、カイ号の発航準備にとりかかった。 一方、E幹事は、四級小型船舶操縦士の資格試験に合格し、海技免状は未入手であったものの、海技に関する知識を有していたことから、同日10時55分ごろD幹事とその息子の高校生1人を勝丸に乗船させ自らが操船にあたり、係船所を発し、少し沖合に出たところでカイ号の出航を待った。 A受審人は、カイ号の最大塔載人員が10人であったところから、残りの人員を二度に分けて菅島に運ぶこととし、同受審人の妻等4人を係船所に待たせて残りをカイ号に乗船させ、11時00分自らが操船にあたって同所を発し、途中、勝丸が侍機していたが、いずれ後続するものと思い、そのまま菅島東岸に向かい、同船を追い越したあと機関を15ノットの半速力前進にかけ、弁天島、大村島を左舷側に見て通過し、11時15分菅島灯台から150度330メートルの菅島東岸沖の地点に至って錨泊した。 A受審人は、続いて到着した勝丸をカイ号に接舷させ、E幹事をカイ号に待機させ、同号に乗船していた者と手荷物を勝丸に乗せ、初めて同船の操船にあたり、菅島灯台から165度100メートルの菅島の海岸に上陸させたのち、カイ号のところに戻って勝丸を錨泊させて同号に乗り替え、中川幹事と2人で係船所に引き返し、残りの4人を勝丸の錨泊地点に運び、再びカイ号を錨泊させ、勝丸で前示海岸に上陸し、同船を波打ち際に坑を立てて係船した。 こうして、全員で海水浴やバーベキューなどを行い、途中、E幹事ら数人が勝丸で海岸から少し沖に出て魚釣りなどを楽しんだ。 15時30分ごろA受審人は、午前中に比較して風が強くなり、波も出て来たので、親睦会を終えて帰ることとし、海岸線とほぼ平行に波打ち際に引き揚げていた勝丸を数人で海に押し出し、船首を海岸に向けて手荷物等を積み込み、海岸からカイ号まで何度か折り返して人員を運ぶつもりで、最初に女性と子供に乗船するよう指示し、自らは船長として船外機の操作にあたるため船尾に座っていたところ、次々と男性も乗船し、最後に腰まで海中に入って勝丸を支えていたE、D両幹事が船体を沖に向かって押し出すと共に乗り込み、15人すべてが乗船した。 しかるに、A受審人は、当時、沖合に錨泊しているカイ号まで200メートル余りなので、このままでも何とか航行できるものと思い直し、同号に搭載してある救命胴衣を着用させたうえ、予定どおり何回か往復してカイ号まで運ぶ措置をとらなかった。 こうして、A受審人は、全員が乗り込んだとき船内が人と荷物とで一杯となっていたが、船首トリムとなっていたので、船体中央から船尾にかけてのガンネルが水面とほぼ平行になるよう数人を船尾方に何とか移動させ、船首尾とも0.23メートルの等喫水で、内殻と外殻との接合部と海面までの高さが、船首端で0.47メートル、船体中央で0.21メートルの状態で、15時57分船外機を始動させ、前示上陸地点を発した。 発航後、A受審人は、海岸から少し離れたところで左回頭をして針路をカイ号に向く143度としたうえ、船外機のスロットルを少し回して約2.4ノットの極低速力とし、折からの風力3の南風を右舷前方から、波高約40センチの波浪を左舷前方から受けて進行した。 その直後から船首で巻き返される波の一部や船体が波で上下動するたび、波浪の一部が前述の内殻と外殻の間隙部から空所に浸水し、喫水がわずかずつ増え始めたが、A受審人は、このことに気付く由もなく、15時59分半カイ号まで30メートルに近づいたとき、船首端に座っていたE幹事から、船首方至近の水面下に岩が見える旨の報告を受け、少し左舵をとり、再び原針路に戻したころ、左舷船首から少量の海水が船内に打ち込み、その後、船体の上下動のたび、船首からガンネルを越えて海水が船内に打ち込み始め、多量の海水が作業甲板に滞留し乾舷が極端に減少するとともに速力も落ち、またたく間に作業甲板内に一杯の海水が入って水船状態となった。 A受審人は、危険を感じ、泳げるものは海に飛び込むよう皆に声をかけ、数人が飛び込んだがその効なく、勝丸は、16時00分菅島灯台から150度330メートルの地点において、その船首がカイ号の船尾まであと1メートルばかりに接近したとき、空所の浮力が船体重量より小さくなって、浮力を喪失し、勝丸は水平の状態を保ったまま沈没した。 当時、天候は晴で風力3の南風が吹き、潮候は上げ潮の中央期で、北方に流れる潮流があり、南東方から波高約40センチの波浪があった。 5 救助模様 沈没直前海に飛び込んだ者のほか、乗船者全員が海中に投げ出され、E、D両幹事並びに高校生及び小学生の計4人はカイ号に泳ぎ着いたが、他の者は泳ぎ着くことができず、折からの潮流によって北方に流され、E、D両幹事らが漂流中の溺者に向かって同号からロープを投げたものの届かず、E幹事がカイ号の機関を始動したところ、そのロープがプロペラに絡まって機関が止まり、E幹事が機関の再起動ができないまま、救命胴衣を着用して海に飛び込み、溺者の救助に向かった。 カイ号に残ったD幹事は、同号の錨を揚げ、漂流させて溺者を救助しようとしたが溺者は陸岸寄りを北方に流され、同号はその少し沖合を北方に流される状況となって目的を果たせず、そのとき溺者1人が近くを流されているのを認め、救命胴衣を着用して飛び込み、その救助に向かった。 そのころ、菅島東方沖合を北上していた漁船三一丸は、同島白埼東方沖合を漂流しているカイ号から手を振って助けを求めている子供2人を認め、同号に接近して子供達から勝丸が沈没したことを聞き、自船にその子供達を移乗させて救助活動に従事し、海上を漂流していたD幹事ほか溺者2人を救助した。 また、三一丸から無線連絡を受けた菅島漁業協同組合からも数隻の所属漁船が救助に出動し、岩場や海岸に泳ぎ着いていたA受審人、E幹事ほか6人及び海上の溺者1人を救助した。 そして、これらの救助活動にもかかわらず、小学生1人が行方不明となった。 6 死傷者の状況及損傷模様 その結果、海上を漂流中に漁船に救助された溺者4人のうち、C(昭和31年10月28日生)及びF(昭和15年9月14日生)は収容された病院で死亡し、岩場や海岸に泳ぎ着いた大人5人及び子供3人のうち、Gとその妻及び2人の子供はいずれも溺水による入院加療を要し、行方不明となったH(昭和62年9月11日生)は翌28日遺体となって発見され、勝丸は、のち引き揚げられへ船体に損傷はなかったものの船外機にぬれ損を生じ、その後、廃船とされた。
(原因に対する考察) 本件は、三重県菅島東岸において、総勢15人が海水浴を兼ねた親睦会を終え、同岸から沖合至近距離に錨泊させていたカイ号まで勝丸を使用して人員を輸送する際、一度に全員が勝丸に乗船し、航行中に海水が船内に打ち込み、同船が沈没して死傷者が生じたものである。 以下、その原因等について考察する。 1 沈没の原因に対する考察 (1) 沈没時の船底空所の浸水量について 当時の勝丸の諸要素は、以下のとおりである。 ・船体重量 328キログラム ・船外機
38キログラム ・錨、バッテリー 20キログラム ・空所容積 1.287立方メートル 勝丸は、船体の外殻と内殻との間に空所があり、作業甲板一杯に海水が打ち込み水船になったとしても、空所に浸水しないかぎり沈没しない構造となっている。 しかるに、水船になると同時にそのまま水平に沈没した事実からすると、船体重量等と空所容積から計算して、空所には約900キログラム以上の海水が入っていたこととなる。 (2) 発航時から残存していたビルジ量について 鑑定書によると、船底肋材の腐蝕状況から推定して0.253立方メートルのビルジが存在した痕跡があるとし、また、作業甲板を超えるビルジ量は考えられないので最大0.642立方メートルであるとする。しかし、当時のビルジ量がどれ位であったかを確定する明確な証拠はない。 一方、当時、多量のビルジカが空所に存在しなかった理由として (ア) E証人の原審審判調書中、「係留地から菅島までの航行中、全速力の15ノットで航行すると船首が浮上し、船外機操作位置からは船首方が見えない状態であった。」旨の供述記載 (イ) 「菅島から帰航するとき、数人で砂浜の上で勝丸を押して方向を変えることができた」旨の各関係者の供述記載 (ウ) A受審人の原審審判調書中、「全員が乗り込んだとき、喫水は船底塗料と船側塗料の塗り分け線付近であった。」旨の供述記載 等があり、ビルジ量は0.642立方メートルのような多量にはなかったと考えられる。 よって、船底肋材腐蝕状況から算定した0.253立方メートルのビルジがあったものと認めるが、多少の増減は当然考慮しなければならない。 (3) 浸水の経路 それでは、沈没時に空所に存在したとする約900キログラムの海水重量からビルジ量を差し引いた約650キログラムの海水がどこからどのようにして入ったかを検討する。船体検査の各証拠によると、勝丸の船体外板、作業甲板の排水パイプ及び船底プラグには損傷又は異常は認められない。 鑑定書によると、 (ア) 外殻と内殻の接合部に間隙があり、その面積は単一円孔に置き換えると89.4ミリの円に相当し、急速に大きな浸水をもたらすものである。 (イ) 外殻と内殻のリベットに欠落があり、その面積は単一円孔に置き換えると38.4ミリの円に相当する。なお、このリベット欠落は事故当時からあったものか、船体引揚時に発生したかは不明である。 (ウ) 作業甲板のネジ穴からの浸水はわずかで、急速に大きな浸水をもたらすものではない。 (エ) 浮力が損失するまでの経過時間については、
〔ビルジが無い場合〕
〔ビルジが0.253立方メートル滞留していた場合〕 としている。 当時、海岸を発航して3分後に沈没している事実からすると、上記、開口率が大きく、かつ、接合部の冠水深度が深ければビルジが残存していなくても沈没の可能性がある。 この開口率について検討すると、内殻は船底肋材の上に設置され、作業甲板上の重量はこの肋材によって支えられている。一方、接合部の外殻は、内殻の内側に入り、外殻上端部に横方向の補強材はなく、かつ、その重ねしろも不均一で数センチ以下のところもある。鑑定書の接合部間隙寸法は、勝丸を陸上に置いて計測したものであり、海上に浮いている状態で多数の人員が乗った場合、喫水が増加し、水圧で外殻は内側に圧縮され、その間隙は更に大きくなると推定される。 次に、接合部の冠水深度について検討する。 一般論として、15ノット程度の速力のとき、著しく船首が浮上する小型船舶は、極低速力のときには逆に船首が沈下する傾向にある。勝丸は菅島発航時に船首尾とも等喫水であっても、当時2.4ノットで航行していたのであるから、船首トリムとなり、一方、空所に少量でもビルジが存在すると、そのビルジは、船底肋材の中央の小さなリンバーホールから船首方に移動し、更に船首トリムとなる。従って、船首付近の乾舷は発航時より減少し、冠水深度が噌加することとなる。 当時、勝丸は、右舷前方から風力3の風を受け、波浪の方向は左舷前方から波高約40センチの波を受けていたものであり、航行中の船首沈下を考慮すると、海面から船体接合部までの高さが20ないし30センチで、波浪ば絶えず間隙部に達していたものと認められる。 よって、船体空所への浸水は、船体接合部の間隙から生じたものと認めるのが相当である。 なお、勝丸が建造後20年余り経過し、それまではB所有者の妻が、鳥羽港沖の弁天島、麻倉島及び大村島周辺で採介藻漁業に使用していたものであるが、付近は湾内で波も穏やかであり、操業も単独で行い、航行中は全速力なので船首が浮上し、同間隙から浸水があったとしても、ごく少量で、これに気付かなかったものと推定される。 また、漁船の検査については、後述するとおり、その業態が特殊であることにかんがみ、技術基準に特則が設けられ、船舶安全法の適用除外となっているものであり、この間隙は法的な違反によって発生したものでなく、船体の経年劣化に伴うものであると認めざるを得ない。 (4) 沈没の原因 以上のとおり、沈没の原因は、船体の経年劣化に伴い、船体接合部に浸水をもたらす間隙が生じており、それに加え、多数の人員が乗り込んだため、喫水が増加して水面と接合部との高さが減少するとともに、水圧により外殻が内側に圧縮されて更に間隙が増大していたこと、及び等喫水で発航したのち低速力で航行していたので、船首トリムとなり、残存していたビルジが船底肋材のリンバーホールから徐々に船首方に移動して更に船首トリムとなったこととにより、船首方から波を受けるたびに接合部の間隙から空所に浸水が始まり、船体が沈下し、作業甲板に波浪が打ち込んで水船となり、急速に浮力を喪失したものと認められる。 よって、沈没の原因は、船体接合部に不測の間隙が生じていたこと、及び多数の人員が乗船したこととにより発生したものと認めるのが相当である。 2 勝丸に適用される法令と原因との関係について (1) 勝丸に適用される法令 船舶安全法第2条第1項に「船舶の所要施設は命令に定めるところによる。」とされ、その命令とは小型船舶安全規則、小型漁船安全規則、漁船特殊規則である。また、同法第32条に「法第2条第1項の規定は政令で定める総トン数20トン未満の漁船には適用しない。」となっており、勝丸には適用される法令がないこととなる。 しかし、小型漁船安全規則第2条第2項ににの省令に使用する用語は、船舶安全法及び同法に基づく命令において使用する用語の例による。」とし、船舶安全法施行規則第1条第2項に「漁船とは、もっぱら漁ろうに従事する船舶、漁場から漁獲物等を運搬する船舶、漁業に関する試験、調査、指導、取締に従事する船をいう。」旨定められ、同規則に関する細則として「漁船は、その業態が特殊であることにかんがみ技術基準に特則が設けられ、その適用を受けるべきものであるから『もっぱら』とは『主として』と厳に区別して解釈すべきものであり、臨時的とはいえ旅客等の運送に従事する限り、漁船でないと解する。」とされている。 そのため、事件当時の勝丸は、人の運送に従事していたものであり、船舶安全法第32条の施設強制規定の不適用船である漁船には該当せず、小型船舶安全規則が適用されることとなる。 したがって、当時、勝丸を漁業以外の用に供しているのであるから、検査機関の船体検査を受け、小型船舶安全規則第103条による最大搭載人員の指定、救命胴衣の備え付け等の規定によらなければならないこととなる。 なお、勝丸の最大搭載人員を小型船舶安全規則第103条に規定する算式により計算すると5人となる。 (2) 検査を受けた場合の本件事故との関係について 受検していれば、外殻と内殻との間隙が発見されて対処し、本件事故か発生しなかった可能性もあったと考えられるので、同種海難防止の観点から、検査を受けなかったことを本件発生の原因と認めるのが相当である。 しかし、外殻と内殻の接合部の構造は外観上不明で、対処し得ないことも考えられる。 仮に同間隙が発見し得なかった場合で、最大搭載人員5人を遵守していた際の事故発生の可能性について以下に検討する。 勝丸の排水量等曲線を保安部の実況見分調書により推定すると、中央部喫水19センチ付近において、喫水1センチの変化量は約110キログラムの重量となる。当時最大積載人員の5人が乗船していたとすると、15人の総重量793キログラムが概略529キログラム減って、264キログラムの重量となり、喫水にして約5センチ浮上していたこととなる。前述のとおり、海面から船体接合部までの高さが20ないし30センチで、当時の波高が約40センチであることを総合すると、喫水が約5センチ減少したからといって、空所への浸水がなかったとは云い得ず、沈没した可能性もある。 (3) 救命胴衣不着用と本件事故との関係について 乗船者の救命胴衣不着用と沈没とには因果関係はない。しかし、海難審判法には第1条に「海難原因を明らかにする」旨定められ、海難とは、第2条1号「船舶に損傷を生じたとき…」、同条2号「船舶の構造、設備又は運用に関連して人に死傷を生じたとき」と定められている。勝丸を漁業以外の目的で人の輸送に使用する場合、前述のとおり救命胴衣の備え付けの義務がある。 事前に備え付けていなかったとしても、当時は、婦女子を含む乗船者であるから、カイ号の救命胴衣を着用させるなどの安全に対する十分な配慮をなすべきであり、救命胴衣を着用させずに乗船させたことは、本件に関連した死亡の原因となる。 (4) A受審人の所為と本件事故との関係について A受審人は、三重県菅島東岸において、海水浴等の仲間内での親睦会を開催するにあたり、沖合に錨泊させているカイ号との交通船として、漁船として使用されている勝丸を借り受ける場合、人の輸送に供するのであるから、日本小型船舶検査機構による船体強度や最大搭載人員の指定などの検査を受けなければならなかったが、同受審人はこのことに気付かなかったものである。 しかし、漁船を人の輸送に供するに際しての検査の必要性について、小型船舶検査機構においては、主として漁業者を対象として、指導及び周知がなされているものであって、当時、勝丸所有者から勝丸の使用目的を説明して借り受けるに際し、同所有者から検査が必要である旨の格別の注意を受けておらず、A受審人が最も短期間で取得できる四級小型船舶裸縦土の資格しか持たず、かつ、漁業者でなかった点を考慮する必要がある。また、事故発生後各機関における勝丸の船体検査でも、外殻と内殻の接合部の間隙を認めているものの、その間隙から空所に多量の浸水があるとは予想できなかったもので、船体を解体してその構造が明らかとなって判明した経緯も考慮する必要がある。 次に、多数の人員が勝丸に乗船した点については、A受審人は菅島を発航する際、勝丸には、まず女性と子供を乗船させてカイ号まで運び、その後、何度か折り返して残りの人員を同船に運ぶこととし、女性と子供に乗船するよう指示したところ、勝丸を沖に向かって押し出すとき、次々と有資格者を含めた大人の男性が乗り込んだもので、その際、強く指示して下船させなかったことは、船長としてまことに遺憾である。 よって、検査を受けなかったこと、及び多数の人員を乗船させたことはいずれも本件発生の原因となるが、そもそも本件の主たる原因は外殻と内殻との接合部に不測の間隔が生じていたことに起因するものであって、このことをA受審人が予見することは極めて困難であり、検査を受けなかった経緯、及び受検したとしても、その間隙について確実に対処し得たと云い切れない点、多数の人員の乗船に至る経緯その他、沖合のカイ号まで至近距離であった点等を勘案すると、A受審人に職務上の過失があったと認めるまでもない。
(原因) 本件沈没は、三重県菅島東部の外洋に面した海岸において、沖合に錨泊させていたモーターボートに無蓋小型漁船である勝丸で海水浴等の親睦会を終えた人員を輸送する際、船体の経年劣化に伴い、外殻と内殻の舷側接合部に不測の間隙が生じていたこと、漁船を人の輸送に供するに際して事前に船体強度、最大搭載人員の指定等の検査を受けなかったこと、及び多数の人員が乗船したことにより、同間隙から外殻と内殻との間の空所に浸水し、乾舷が著しく減少して作業甲板内に海水が打ち込み、浮力を喪失したことによって発生したものである。 なお、乗船者に死傷者が生じたことは、救命胴衣を着用していなかったことによるものである。
(受審人の所為) A受審人が、船体検査を受けなかったこと、多数の人員が乗船した際に強く指示して下船させなかったこと等は遺憾であるが、原因の考察で詳述したとおり、本件の主要な原因が、外殻と内殻との接合部に不測の間隙が生じていたことに起因するものであって、同受審人に職務上の過失があったと認めるまでもない。
よって主文のとおり裁決する。
(参考)原審裁決主文平成9年3月12日横審言渡(原文縦書き) 本件沈没は、外洋に面した海岸において、人員を輸送する際の乾舷の確保が不十分で、船首ガンネルを越えて波浪が打ち込み、船内に多量の海水が滞留して浮力を喪失したことに因って発生したものである。 なお、乗船者に多数の死傷者が生じたのは、救命胴衣を着用していなかったことによるものである。 受審人Aの四級小型船舶操縦士の業務を1箇月停止する。
参考図1
参考図2
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