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(事実) 1 事件発生の年月日時刻及び場所 平成9年11月15日01時50分 岩手県弁天埼南東方沖合 2 船舶の要目 船種船名 貨物船第二十青雲丸
漁船第七十五住宝丸 総トン数 499トン 349トン 全長 72.72メートル 68.80メートル 機関の種類 ディーゼル機関 ディーゼル機関 出力
1,029キロワット 956キロワット 3 衝突に至る経緯 第二十青雲丸(以下「青雲丸」という。)は、主に鋼材の輸送に従事する船尾船橋型の貨物船で、船長D及びA指定海難関係人ほか3人が乗り組み、鋼材1,550トンを積載し、船首3.6メートル船尾4.7メートルの喫水をもって、平成9年11月14日07時30分北海道室蘭港を発し、兵庫県姫路港に向かった。 青雲丸の船橋当直は、0時から4時までをD船長、4時から8時までを甲板長E及び8時から12時までを一等航海士Fによる単独制がとられ、また、機関当直は、出港後の正時からA指定海難関係人と一等機関士Gとによる単独の6時間2直制で、6時間のうち前後の各1時間が機関室外での待機、その間の4時間が機関室内での当直となっていた。 翌15日00時00分D船長は、久慈牛島灯台から106度(真方位、以下同じ。)4.6海里の地点に至り、F一等航海士と交替して船橋当直に就き、航行中の動力船の灯火が表示されていることを確認したうえ、引き継いだまま針路を166度に定めて自動操舵とし、機関を全速力前進にかけて10.0ノットの対地速力で進行した。 そのころA指定海難関係人は、機関室内での当直を終え、01時まで自室で待機したのち休息した。 D船長は、当時、岩手県沿岸でのさけはえなわ漁業が盛期にあたり、前路に多数の小型漁船が出漁し、特に右方の陸地側にその数が多いことから、00時50分漁船の少ない沖側に向けて針路を160度に転じ、折からの北東のうねりの影響を受けて船首を左右に振りながら続航した。 01時46分D船長は、陸中弁天埼灯台から118度4.3海里の地点に達したとき、船首わずか右1.5海里のところに第七十五住宝丸(以下「住宝丸」という。)の白、白、紅、緑4灯を視認でき、その後ほとんど真向かいに行き会い衝突するおそれがある態勢で接近する状況であったが、近くを動き回る漁船に注意を払い見張りを十分に行っていなかったので、その左舷側を通過することができるように針路を右に転じないまま進行中、01時50分陸中弁天埼灯台から123度4.8海里の地点において、青雲丸は、原針路、原速力で、その左舷船首が住宝丸の左舷船首にほとんど真向かいに衝突した。 当時、天候は雨で風はほとんどなく、視程は3海里で、波高1メートル北東のうねりがあった。 また、住宝丸は、いか釣り漁業に従事する鋼製漁船で、B、C両受審人が20人の乗組員と共に大西洋及び太平洋の南米大陸沖合漁場における8箇月間の操業を終え、平成9年10月11日コスタリカ共和国プンタアレナス港に寄港したのち帰途に就き、青森県八戸港でいか382トンの水揚げを予定していたところ、同港の冷凍倉庫が満杯であったので、越えて11月8日08時00分宮城県石巻港に入港して待機した。 その後、八戸港の水揚げ準備が整い、本船は、両受審人ほか10人が乗り組み、回航の目的で、船首2.0メートル船尾5.8メートルの喫水をもって、同月14日15時00分石巻港を発し、八戸港に向かった。 C受審人は、昭和59年に他のいか釣り漁船で漁労長の職にあったとき、B受審人を新卒の甲板員として採用して以来、航海及び操業に関して指導にあたってきたことから、平成4年に同人が船長に昇任し、翌年1月共に住宝丸に転船してからも、漁労の指揮だけでなく出入港の操船の指揮をも執り、船長の職務を兼ねていなかったものの常に事実上船長に代わって運航の指揮を執っていた。そして、石巻港出港後の船橋当直について、18時までをB受審人、18時から21時まで及び21時から24時までをそれぞれ複数の甲板部員、その後八戸港入港までを自らが行うことにした。
00時55分C受審人は、岩手県宮古湾の沖合を航過したころから次第に小型漁船が増え、特に左方の陸地側にその数が多く、針路が比較的漁船の少ない水域に向いていたものの、接近する漁船を避航しつつ、目視に加えて時折船橋内ほぼ中央部のレーダーによる見張りを行って続航した。 01時44分C受審人は、相対方位指示方式で12海里レンジとしたレーダーの船首輝線のわずか右2.2海里に青雲丸の映像を初めて認めたのち、船橋内左舷側端に移って椅子に腰掛け、開放した左舷側の窓から著しく接近する気配を見せて近くを動き回る漁船を見守って進行した。 01時46分C受審人は、陸中弁天埼灯台から128度5.5海里の地点に至り、船首わずか右1.5海里に晴雲丸の白、白2灯をほぼ垂直線上に、及びそのわずか左下方に緑灯をそれぞれ認めたが、左舷側から接近する漁船に気を取られ、一見しただけで紅灯を認めなかったことから、互いに右舷を対して航過できるものと思い、青雲丸に対する動静監視を十分に行わなかったので、その後同船がほとんど真向かいに行き会い衝突するおそれがある態勢で接近していることに気付かず、同船の左舷側を通過することができるように針路を右に転じないで続航した。 01時50分わずか前C受審人は、椅子に腰掛けたままの姿勢で再び前方を見たとき、船首至近に迫った青雲丸の灯火を認め、驚いて機関を中立とした直後、住宝丸は、原針路、原速力で、前示のとおり衝突した。 4 青雲丸の沈没に至るまでの経緯 A指定海難関係人は、自室で休息中、突然衝撃を感じて目覚め、急ぎ昇橋したとき、住宝丸と自船とがほとんど真向かいの態勢で衝突しているのを認め、D船長から「正面衝突した、損傷を見てきてほしい。」旨の指示を受けて船首甲板に急行し、住宝丸の船首が自船の左舷船首部に食い込んで同部に大破口を生じているのを認めた。 このとき、A指定海難関係人は、頭上に覆いかぶさっている住宝丸の船首から自船の船首甲板上に縄ばしごが下ろされ、同船の乗組員が大声で叫んでいたが、両船の接触部がきしんで発する騒音により、その内容を聞き取ることができず、また、自船が沈没するとは思えなかったので船橋に引き返し、D船長に損傷状況を説明したのち、機関を停止するよう命ぜられ、同船長の意図が理解できなかったものの、命じられたまま機関室に赴いた。 A指定海難関係人は、機関室内に入り、同室隔壁の貨物倉出入口から中を覗いたところ、貨物倉前部に浸水していることが積荷の上端越しに認められたので、G一等機関士を機関室外へ退去させ、中立運転となっていた機関を停止し、浸水状況を報告しようと再び船橋に戻ったとき、D船長が国際VHF無線電話で海上保安庁に「退船する。」旨の通報を行っているのを聞いた。 その直後、A指定海難関係人は、通話を終えたD船長から退船命令が下されたときには、船首がかなり沈下していて、降橋する途中で出会ったF一等航海士とE甲板長に同命令を伝えるのが精一杯で、救命胴衣を着用する暇もなく、短艇甲板左舷側後部出入口から同甲板に出て海中に飛び込んだあと、青雲丸は、船首部の沈下が増大するにつれて、後方に移動しながら住宝丸から離れ、02時00分ほぼ前示衝突地点において沈没した。 一方、B受審人は、自室で休息中、突然衝撃を感じて目覚め、急ぎ昇橋して青雲丸と衝突したことを知って船首部に赴き、青雲丸が浸水していることを認めて、海上保安庁に通報するため船橋に戻ったとき、D船長が同保安庁に「漁船と衝突し、本船は浸水が激しく沈没のおそれがある。」旨を国際VHF無線電話で通報しているのを聞き、通話に加わった。 その後間もなく、B受審人は、青雲丸が沈没し、これを海上保安庁に報告したのち、直ちに甲板に赴き、C受審人及び他の乗組員と共に救助活動を行い、A指定海難関係人とE甲板長を船上に引き揚げ、意識を失っていた同甲板長に自ら人工呼吸と心臓マッサージを施し、やがて到着した巡視船に両人を引き渡して岩手県宮古港に向かった。 また、C受審人は、B受審人に続いて船首部に赴き、青雲丸の浸水が激しいことを認め、部下を指揮して自船船首部から青雲丸船首部に縄ばしごを下ろさせ、衝突状況を確認していたA指定海難関係人に住宝丸に移乗するよう声をかけた。 しかし、C受審人は、A指定海難関係人に引き返し、同人と入れ違いに様子を見にきたF一等航海士とE甲板長にも同様に住宝丸に移乗するよう勧めたが、両人ともこれを聞き取れなかったものか、船尾方向へ引き返し、青雲丸乗組員を収容することができないでいるうち、同船が自船から離れて沈没したので、部下を督励して救助作業にあたった。 その結果、住宝丸は球状船首及び船首部外板に破口を伴う凹損を生じたが、のち修理され、また、E甲板長(昭和23年7月10日生)が収容先の病院で死亡し、D船長(昭和20年4月3日生)、F一等航海士(昭和22年9月13日生)及びG一等機関士(昭和25年6月16日生)がいずれも行方不明となった。
(青雲丸の針路模様についての考察) 本件は、南下中の青雲丸と340度の針路で北上中の住宝丸とが衝突したものであるが、衝突後間もなく青雲丸が沈没し、単独で同船の船橋当直にあたっていたD船長か行方不明となり、同人から衝突に至るまでの運航模様に関して直接の証言を得ることができないので、以下同船の針路模様について検討する。 まず、C受審人の当廷における、「真向かいに衝突した。」旨の供述及びA指定海難関係人に対する質問調書中、「衝突直後に昇橋したとき、自船の船首に住宝丸の船首が真向かいに接触していた。」旨の供述記載から、衝突時に両船が真向かいに行き会う態勢にあったものと認められる。 さらに、C受審人の当廷における、「衝突したはずみで青雲丸の船首方向がずれ、両船はわずかな交角で接触したまま態勢が崩れなかった。」旨の供述及びA指定海難関係人に対する質問調書中、「船首部に行って見たときの接触状態は船橋から見たときと同じであった。」旨の供述記載から、衝突時に青雲丸が回頭していたものではなく、両船が互いに直進していたものと認めるのが相当である。 一方、衝突以前の状態については、C受審人に対する質問調書中、「衝突4分前に操舵室の左舷側端にいたとき青雲丸の白、白、緑3灯を視認した。短時間見ただけで紅灯は見ていない。」旨の供述記載及び同人の当廷における、「白、白、緑3灯を船首の少し右に視認した。自船は船首を左右に3ないし5度振りながら進行していた。衝突後、青雲丸の紅灯は点灯していた。」旨の供述から、青雲丸が住宝丸の針路線上から、若しくはそれとわずかな交角を持った針路で接近する態勢にあったものと認められる。 船舶は進行中、常に船首の振れは避けられず、C受審人の前示供述から、当時、青雲丸においても片舷各3度程度の振れがあったと考えられる。したがって、同船が船首を左方に振り、両舷灯のうち紅灯の射光範囲から住宝丸が外れたならば、住宝丸から青雲丸の紅灯を視認することができないことになる。ところで、舷灯の射光範囲は、海上衝突予防法施行規則第5条第4項により、正船首方において外側に1度から3度までを有することが規定されているが、経験上3度かそれを超えた範囲でも視認されることが認められるところであり、青雲丸においてもこの程度の射光範囲を有していたことについて否定することはできない。 仮に、青雲丸が住宝丸の右方に位置したとすれば、青雲丸が船首を左方に振って紅、緑両灯を見せたのち、なおも3度以上船首を左方に振らなければ、住宝丸から見て青雲丸の紅灯は隠れないことになる。すなわち、青雲丸が船首を3度左方に振ったことにより、その紅灯を住宝丸から視認できなくなるのは、青雲丸が住宝丸の針路線上に位置してこれと反方位の針路を採っていた場合だけである。 また、C受審人に対する質問調書中、「漁船は針路線上の陸地寄りに多く、自船が漁船の空いているところに向かっていて、青雲丸も同じところに向かって南下してきた。」旨の供述記載及びA海運有限会社所属船の常用航路図中の針路線の記載により、青雲丸は、同針路線に従う166度の針路で南下中に漁船を避けて、住宝丸の針路と反方位となる160度に転針したものと推定することができる。 以上のことから、少なくともC受審人が青雲丸の白、白、緑3灯を視認してから衝突するまでの間、同船の針路は住宝丸とほとんど真向かいに行き会う160度であったと認定するのが相当である。
(原因) 本件衝突は、夜間、弁天埼南東方沖合において、両船がほとんど真向かいに行き会い衝突のおそれがあるとき、南下中の青雲丸が、見張り不十分で、住宝丸の左舷側を通過することができるように針路を右に転じなかったことと、北上中の住宝丸が、動静監視不十分で、青雲丸の左舷側を通過することができるように針路を右に転じなかったこととによって発生したものである。
(受審人等の所為) C受審人は、夜間、弁天埼南東か沖合を北上中、船首方に青雲丸の白、白2灯をほぼ垂直線上に、及びそのわずか左下方に緑灯をそれぞれ認めた場合、衝突するおそれがあるかどうかを判断できるよう、同船に対する動静監視を十分に行うべき注意義務があった。しかし、同人は、一見しただけで互いに右舷を対して航過できるものと思い、動静監視を十分に行わなかった職務上の過失により、その後青雲丸がほとんど真向かいに行き会い衝突するおそれがある態勢で接近していることに気付かず、同船の左舷側を通過することができるように針路を右に転じないまま進行して同船との衝突を招き、青雲丸を沈没させ、住宝丸の船首部外板及び球状船首に破口を生じさせたほか、青雲丸の甲板長を死亡に、また、同船長、同一等航海士及び同一等機関士を行方不明に至らしめた。 以上のC受審人の所為に対しては、海難審判法第4条第2項の規定により、同法第5条第1項第2号を適用して同人の三級海技士(航海)の業務を1箇月停止する。 B受審人の所為は、本件発生の原因とならない。 A指定海難関係人の所為は、本件発生の原因とならない。
よって主文のとおり裁決する。
参考図
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