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(事実) 1 事件発生の年月日時刻及び場所 平成8年9月1日06時00分 瀬戸内海音戸瀬戸 2 船舶の要目 船種船名 旅客船太田川
貨物船りつりん丸 総トン数 698トン
198.81トン 全長 55.90メートル
54.10メートル 船幅 13.09メートル
9.10メートル 機関の種類 ディーゼル機関
ディーゼル機関 出力 1,912キロワット
735キロワット 3 事実の経過 太田川は、2基2軸を有する船首船橋型の旅客及び自動車運搬フェリーで、A受審人ほか7人が乗り組み、旅客21人、車両8台及び単車5台を載せ、船首1.6メートル船尾2.8メートルの喫水をもって、平成8年9月1日05時10分広島港を発し、松山港第1区通称松山観光港に向かった。 ところで、音戸瀬戸南航時の通航針路については、A株式会社の運航マニュアルに細かく定められていないものの、長年のフェリー運航の経験から、A受審人を含む多くの同社船長が、北口灯浮標を左舷に航過したあと左転して警固屋(けごや)側の高さ80メートルの送電線用鉄塔に向け、北口の三軒屋ノ鼻から南口の石灯篭を見通せる地点で、右転して警固屋側の渡し船桟橋に、その後5メートル維持水深水路(以下「水路」という。)に入って音戸灯台にほぼ並航し、倉橋島の道路が一直線に見える地点で、右転して清盛塚に、そのあと水路の右側端から西方に少しはみ出して警固屋の渡し船桟橋を左舷に並んだころ左転して音戸大橋の中央橋梁灯にそれぞれ向首し、同橋の手前で少し右転して水路中央より右側寄りで同橋下を航過するようにしており、その間機関は特に行き会い船等がないかぎり極微速力前進のままとしていた。 A受審人は、音戸瀬戸通峡に備えて呉港沖で昇橋し、当直の甲板長を見張りに、操舵手を手動操舵に当たらせて操船指揮に当たり、音戸瀬戸北口灯浮標(以下、灯浮標については音戸瀬戸の冠称を省略する。)を左舷120メートルに並航した05時54分機関を全速力前進から8.0ノットの極微速力前進に減速するとともに、左転して同瀬戸北口に向かった。 A受審人は、05時55分右転して警固屋側の渡し船桟橋に向け、水路に入って間もなく、同時56分少し過ぎ、音戸灯台から092度(真方位、以下同じ。)170メートルの地点(船橋中央位置、以下、両船の船位は船橋中央位置である。)で、針路を清盛塚に向首する197度に定め、当時の北流に抗して7.0ノットの対地速力で進行中、同時57分同灯台から140度190メートルの地点に達したとき、左舷船首8度610メートルに北上するりつりん丸を初認した。 A受審人は、りつりん丸が停止しないままかなり速い速力で北上しているように見えたので、北口の方に引き返して同船の航過を待つことはできないものの、減速すれば音戸大橋より約130メートル北側の瀬戸が少し広くなっている辺りで左舷を対して無難に行き会えるものと思い、直ちに両舷機を停止するとともに右転信号を行って針路を199度に転じ、機関回転が落ちた05時57分半少し前、両舷機を数秒間だけ半速力後進にかけて約5ノットの対水速力に減速したが、行きあしを止めてしまうと瀬戸に対して横向きになってしまうことがあることを聞いていたことから、大きく船首が振れることをおそれて、確実にりつりん丸と最狭部より北側の広くなっている辺りで行き会えるように、更に機関を後進にかけてできるかぎり行きあしを減ずる措置をとることなく、機関を停止したまま3.5ノットの対地速力となった前進惰力で、徐々に強まる北流に抗して続航した。 A受審人は、05時58分半少し前、音戸灯台から164度290メートルの地点に至り、自船が水路の西方にはみ出しており、すでにいつもの転針地点をやや過ぎていて、浅瀬まで約60メートルに接近したので、針路を音戸大橋の中央橋梁灯に向首する183度に転じた。その後も、A受審人は、りつりん丸の動静を見守りながら惰力で進行し、05時59分ほぼ正船首に同船を認め、このままの針路でも左舷を対して航過できるものと思って続航中、音戸側渡し船桟橋を右舷に通過したあと、06時00分少し前、付近のわい潮の影響を受けて船首が急に左に振れ始めたので、あわてて右舷機を後進とするとともに右舵を命じたが及ばず、太田川は、ほぼ振れが止まり178度に向首した06時00分音戸灯台から166度400メートルの地点において、1.0ノットの対地速力でその左舷船首端がりつりん丸の左舷後部に前方から10度の角度で衝突した。 当時、天候は曇で風はほとんどなく、潮候はほぼ低潮時で、音戸瀬戸最狭部には3ノットの北流があった。 また、りつりん丸は、専ら鋼材輸送に従事する船尾船橋型貨物船で、B受審人ほか2人が乗り組み、鋼材約661トンを載せ、船首2.6メートル船尾3.7メートルの喫水をもって、同年8月31日14時45分岡山県水島港を発して広島県呉港に向け航行の途中、21時40分ごろ揚荷時間待ちのため荷主の了解のうえで同受審人の自宅がある倉橋島東岸の奥ノ内先奥沖に投錨仮泊し、翌9月1日05時25分同地を発し、呉港淀川製鋼所岸壁に向かった。 B受審人は、発航から操舵操船に当たり、双見ノ鼻を左舷に航過したあと徐々に機関回転を落として極微速力前進で手動操舵により音戸瀬戸南口に接近し、05時55分ごろ南口灯浮標が左舷船首100メートルばかりなったとき、水路南口に向けて右転を開始し、同灯浮標を左舷に40メートル離して回頭を続け、ほぼ回頭を終わった同時56分少し過ぎ、音戸灯台から179度790メートルの地点で針路を水路の右側に沿う012度に定めた。B受審人は、定針したとき一旦機関を中立としてゆっくりとした惰力で水路に入り、南下する他船を認めなかったので、05時57分わずか前、再び機関を極微速力前進とした直後の同時57分音戸灯台から178度750メートルの地点で、左舷船首3度610メートルに水路内を南下する太田川を初認した。 B受審人は、初認後間もなく太田川の右転信号を聞き、同船がすでに三軒屋ノ鼻を替わっていて北口に引き返すことはできず、このままでは水路の最狭部で行き会うおそれがあることを認めたが、直ちに右舵一杯、機関後進として行きあしを止め、太田川の通過を待つことなく、自船も水路に入っており、当時北流であったことから、水路を出て同船の通過を待つのは困難と思い、原針路のまま3.0ノットの対地速力で進行した。 B受審人は、太田川が減速してくれれば音戸大橋の北側の最狭部を過ぎてから行き会えるものと思いながら針路を保持し、05時59分急速に強まった潮流に乗って6.0ノットの対地速力となったとき、左転した太田川が自船に向首したのを認めたものの、互いに針路を保持すれば左舷を対して替わるものと思って続航中、音戸大橋下を航過して間もなく、06時00分少し前、左舷船首至近に迫った太田川の船首が急速に左に振れて自船の左舷後部に向首したので、とっさに左舵一杯、全速前進としたが及ばず、りつりん丸は、船首がわずかに振れて8度に向首したとき、6.0ノットの対地速力で前示のとおり衝突した。 衝突の結果、太田川は左舷船首防舷帯外板にわずかな凹損を生じたのみであったが、りつりん丸は左舷後部外板とブルワークに長さ約3メートルにわたって深さ約5センチメートルの凹損を生じ、のちいずれも修理された。
(太田川の衝突前の転針について) 事実に述べたように、太田川は衝突の直前に船首がわい潮によって振れる前に転針したことを認定したが、A受審人は、その質問調書や航跡図、また当廷においても転針を認めていない。しかしながら、次のようなことから同船が転針したと認めるのが合理的である。 1 A受審人は、その質問調書中で、りつりん丸との距離が140から150メートルになったときほぼ正船首に見たと述べており、転針しないかぎり太田川からりつりん丸を正船首に見ることはありえないこと 2 もし転針していなければ、太田川の船首が衝突地点まで約40メートルも左偏したことになり、A、B両受審人が当廷で述べた「太田川の船首が振れなければ15ないし20メートル離れて替わった。」との供述と矛盾する。 3 転針しなかったとすれば、太田川は間もなく音戸側渡し付近の浅瀬に乗り揚げるおそれがあったこと 4 B受審人の当廷における、「太田川はあのままでは前に進めない状況であったから左に舵を切ったと思う、衝突前の船首が振れる前に水路内にいたと思う。」旨の供述
(主張に対する判断) 太田川側補佐人は、りつりん丸が音戸瀬戸に接近する際に、呉海上保安部の行政指導に従わず、南口灯浮標に接近せず、鼻埼寄りに航行したために南下する太田川の視認が遅れ、南口で太田川の航過を待つことができなかったと主張するが、次の理由により採用できない。 1 B受審人は、その質問調書中と当廷において、今まで数限りなく通航しているがそのようなことは1回もしてない、これまでにも何回も他船の通過を待ったことがある旨を主張していること 2 通航経験の豊富なB受審人が、当時の潮流が北流の最強時であることを承知のうえで、しかも満船状態で南下船を視認きないような進入針路をとることは考えにくいこと 3 A受審人が主張する初認時のりつりん丸の位置は衝突地点まで約300メートルしかなく、その間を3分間で航行したとすれば平均速力は約3ノットとなり、当時の潮流を考えればりつりん丸はほとんど機関をかけていないこととなるうえ、水路に入るにあたって大角度の変針を要することとなる。このような操船はほとんど不可能に近いと考えられること また、りつりん丸側補佐人は、太田川が北口から瀬戸に進入するにあたり、転針の際に新針路距離を考えずに転舵したため、瀬戸の東側に進出したので、りつりん丸からの太田川初認が遅れ、南口で待機することができなかった、太田川が水路の左側に膨らんだことは本件発生の原因となると主張するが、次の理由により、これも採用できない。 1 連日定期で何回も音戸瀬戸を通航しているフェリーの船長が新針路距離を考慮しない操船をするとは考えられないこと 2 A受審人は、その質問調書中と当廷において、水路の左側に出るようなことは断じてないと主張していること 3 A受審人の当廷における、「水路に入ってから三軒屋ノ鼻を35メートル以上離すことはない、いつもレーダーで確認している。」旨の供述 4 A受審人は、衝突3分前にりつりん丸を初認したと述べており、りつりん丸からもその頃初認が可能であり、B受審人が初認したと述べている地点でも後述するように太田川の航過を待つことができたと考えられること 5 仮に同補佐人が主張するように、太田川が水路の左側に寄っていたとしても、水路を大きくはみ出していないかぎり、水路の南口から視認可能であること
(原因に対する考察) 音戸瀬戸は、広島県呉市南部と同県倉橋島とに挟まれ、同島北端の三軒屋ノ鼻を北口、同市南端の鼻埼を南口とする長さ約700メートルの狭い水道で、北口付近の幅は約200メートルあるが、南に向かって狭くなり、瀬戸南部にある音戸大橋付近が最も狭く、幅が約90メートルあるものの、両岸近くは浅く水深5メートル以上の可航幅は60メートルしかなく、音戸大橋の北方約130メートル、南方約120メートルの間(以下「最狭部」という。)がこの60メートルの可航幅となっており、同瀬戸の潮流が強く、かつ複雑であること、浅水影響、側壁影響及び船舶間の相互作用を勘案すると、最狭部における2船の行き会いは非常に危険であり、前示「音戸の瀬戸における航行安全対策」によれば、最狭部においては総トン数130トン以上の船舶の離合は危険であると指摘しており、また、東京高等裁判所の判決{「引船第七十七善栄丸被引台船薫二五〇〇水中翼船こんどる三号衝突事件」平成9年12月25日言渡、平成6年(行ケ)第9号}においても同様に判示しているところである。 よって、総トン数698トンの太田川と同198トンのりつりん丸が最狭部において行き会うこと自体が非常に危険であり、両船は最狭部における行き会いを避ける措置をとるべきであったといえ、互いに途切な措置をとらないまま結果として最狭部で行き会うことになったことが本件発生の原因となるものである。よって、本件には海上衝突予防法第9条を適用する余地はなく、船員の常務により律すべきである。以下、考えられる具体的な要因について検討する。 1 両船の初認状況について 両船が互いに相手船を初認したのは衝突の3分前であり、両船の各運航模様から見れば、もう少し早く初認可能であったと考えられ、初認がやや遅れたといえるが、後に述べるように初認後に両船とも最狭部での行き会いを回避することが可能であったと考えられることから、本件発生の原因とは認めない。 2 湾曲部信号及び警告信号について 両船とも湾曲部信号を行っているが、太田川は北口灯浮標に並航する前であり、りつりん丸は双見ノ鼻に並航して間もなくであったので、両船間の距離があり、両船ともそれを聞いていない。両船とももっと北口、南口に接近してから行ったほうが良かったといえる。また、太田川はりつりん丸を初認したとき、りつりん丸に南口での待機を促すために警告信号を行うべきであったとの意見もあるが、りつりん丸が待機できる状態であるかどうか直ちに判断できるとはいえず、また、吹鳴したとしてもりつりん丸が停止するかどうか分からない。 両船とも初認後回避措置が可能であったと考えられることからいずれも本件発生の原因とするまでもない。 3 太田川の減速措置について 太田川がりつりん丸を初認したときにはすでに三軒屋ノ鼻から瀬戸内に約180メートル入っており、この時点で北口に引き返すのは同船の旋回性能から見て不可能に近い。したがって、同船としてはできるかぎり減速することによって瀬戸の最狭部での行き会いを避けるべきであったといえる。A受審人は、その質問調書中、「行きあしを停止すると船体が横向きなるので、これ以上の減速はできなかった。」旨を述べているが、一方で、当廷において、「舵効のある最低速力は2ないし3ノットである。」旨供述している。太田川は2軸船であり、また、バウスラスターを装備しており(A受審人は当廷において、40秒でスタンバイできる旨供述している。)、多少の船首の振れには対応できると思われ、対水速力で2ないし3ノットに減速することは十分に可能であったと考えられる。しかるに、事実に述べたように、初認後両舷機を停止し、その後数秒間後進としただけで5ノットの対水速力として衝突直前まで惰力進行し、約4ノットの対水速力で衝突している。後進としたときもう少し行きあしを落とし、約3ノットの対水速力としておれば、衝突時刻には衝突地点より約150メートル北におり、りつりん丸が速力を保持すれば衝突地点より北側100メートル以上の同船が右転も可能な可航幅の広いところで行き会うことができたと判断される。よって、太田川の減速が十分でなかったことは本件発生の原因となる。 4 りつりん丸の停止措置について B受審人は、当廷において、「太田川を初認したときできれば待ちたかったが、瀬戸に近く、当時北流であったから待てないと判断し、止むを得ず進行した。」旨を供述しているが、行きあし停止の可能性について検討する。 太田川を初認したときのりつりん丸の位置は、石灯篭に並ぶまで約180メートル、石灯篭の南約50メートルの5メートル等深線まで約130メートル、すなわち、船首から5メートル等深線まで約100メートルである。 南口付近の潮流は、前示「音戸瀬戸の潮流」によれば、南口灯浮標から石灯篭南の5メートル等深線付近までは、北流の最強時といえども、0.1から0.3ノット程度しかなく、石灯篭の少し手前から急速に速くなっている。したがって5メートル等深線の手前までは潮流の影響はほとんどないといえる。 つまり、この5メートル等深線までの100メートル以内で停止が可能であれば、太田川の通過を待つことができるということになる。 りつりん丸の船舶件名表に記載の海上試運転成績の後進試験結果によれば、軽荷時(排水量395トン)の速力12ノットの場合、後進発令から機関後進まで10秒、後進から行きあし停止まで52秒となっている。初認時の速力は3ノットであるから、発令から後進までを同じ10秒とし、単純に停止までの時間を4分の1とすれば13秒、合わせて23秒で停止することになる。この間の進出距離は、3ノットで10秒、平均1.5ノットで13秒進んだとすれば約35メートルとなる。 ところで、当時はほぼ満船時であり、最短停止距離は排水量の3分の1乗に比例する(本田啓之輔著「操船通論」60頁)ものとして、積荷661トンを加えて排水量1,056トンで概算すると約1.4倍で、当時の最短停止距離は約49メートルとなり、りつりん丸は太田川を初認したとき全速後進としたら、潮流が強く狭い水域に至る前に余裕を持って停止可能であったといえる。さらに、右舵一杯とすれば後進にともなう右転も加わって、水路右側外で太田川を待つことができたと判断できる。 よって、りつりん丸が行きあしを停止して太田川を待たなかったことは本件発生の原因となる。
(原因) 本件衝突は、狭い水道である音戸瀬戸において、南口付近を北航するりつりん丸が、同瀬戸を南下する太田川を認めた際、行きあしを停止して同船の通過を待たなかったことによって発生したが、太田川が、北上するりつりん丸を認めた際、行きあしを減ずる措置が不十分であったことも一因をなすものである。
(受審人の所為) B受審人は、音戸瀬戸南口付近において、同瀬戸を南下する太田川を認めた場合、そのまま進行すれば最狭部で行き会うおそれがあったから、直ちに行きあしを停止して同船の通過を待つべき注意義務があった。しかしながら、同人は、当時の潮流から待つのは困難と思い、行きあしを停止して同船の通過を待たなかった職務上の過失により、行きあしを停止しないまま進行して同船との衝突を招き、太田川の左舷船首角に擦過傷を、りつりん丸の左舷後部外板とブルワークに凹損を生じさせるに至った。 以上のB受審人の所為に対しては、海難審判法第4条第2項の規定により、同法第5条第1項第3号を適用して同人を戒告する。 A受審人は、音戸瀬戸北口付近の同瀬戸内において、同瀬戸南口付近を北上するりつりん丸が停止しないまま進行するのを認めた場合、引き返して同船を待つことができなかったから、最狭部での行き会いを避けられるよう、できるかぎり行きあしを減ずる措置をとるべき注意意義があった。しかしながら、同人は、自船が同瀬戸内で横向きになることをおそれて、できるかぎり行きあしを減ずる措置をとらなかった職務上の過失により、機関を停止し、わずかに後進としたのみで惰力進行してりつりん丸との衝突を招き、両船に前示の損傷を生じさせるに至った。 以上のA受審人の所為に対しては、海難審判法第4条第2項の規定により、同法第5条第1項第3号を適用して同人を戒告する。
よって主文のとおり裁決する。
参考図
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