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(事実) 1 事件発生の年月日時刻及び場所 平成9年9月4日11時30分 熊本県牛深港沖合長島海峡 2 船舶の要目 船種船名 交通船第八全功丸
貨物船アナンゲル・エキスプレス 総トン数 7.93トン
34,407トン 登録長 10.60メートル
214.02メートル 幅 2.52メートル
32.20メートル 深さ 1.08メートル
17.90メートル 機関の種類 ディーゼル機関
ディーゼル機関 出力 169キロワット
9,635キロワット 3 事実の経過 (1) 第八全功丸 第八全功丸(以下「全功丸」という。)は、昭和55年2月進水し、船体ほぼ中央部に操舵室を設けたFRP製の遊漁船兼交通船で、船首甲板の周囲にはハンドレールを、船首甲板から1段下がった上甲板の周囲にはブルワークをそれぞれ巡らせ、操舵室天井には天窓を備えていたものの閉鎖されて使用されず、操舵室後部には客室が接続していたため、操舵室前部中央の操舵位置からは、上方及び後方に対しての見通しがあまり良くなかった。また、船首部、船体中央部及び船尾部の各両舷側には、直径12ミリメートルの合成繊維製ロープによりつるされた古タイヤ製防舷材(以下「防舷材」という。)が取り付けてあり、このうち船尾部の防舷材は、2個重ねて装備されていた。 (2) アナンゲル・エキスプレス アナンゲル・エキスプレス(以下、「ア号」という。)は、船尾船橋型鋼製撒積専用船で、船体中央からやや後方の両舷側に、上甲板から垂直につり下げる水先人用はしごと、上甲板から舷側沿いに後方に向けて斜めにつり下げる舷側はしごを組み合わせたコンビネーションラダー(以下「コンビラダー」という。)を装備していた。 (3) 島原海湾水先区及び同水先人会 島原海湾水先区(以下、「水先区」という。)は、長崎県国埼から熊本県天草下島四季咲岬まで引いた線、同県天草上島江浦須森南端から271度(真方位、以下同じ。)に引いた線、同島下大戸ノ鼻から千束蔵々島上大戸ノ鼻まで引いた線、戸馳島灯台から210度に引いた線、黒埼から180度に引いた線及び陸岸により囲まれた海面で、八代港や水俣港を含む八代海及び長島海峡などを含んでいなかった。 同水先人会(以下、「水先人会」という。)は、B受審人ほか3人の水先人が所属し、水先区の水先業務に当たっていたが水先区に含まれない港に出入航する船舶から要請があれば同船を嚮導(きょうどう)するという、いわゆる水先類似行為も行っていた。また、水先人会は、水先艇1隻を所有していたものの、水先などの業務を行うすべての場所に水先艇を配置することが経済的理由からできないので、福岡県三池港以外の場所においてはタグボートや交通船などを使用し、長島海峡戸島南東方1,000メートル付近の海域(以下「戸島乗下船地」という。)については、全功丸を用船していた。 (4) 受審人A A受審人は、昭和38年ごろから釣客の瀬渡し業務を行うかたわら、水先人会の依頼を受け、戸島乗下船地における水先人送迎業務を行うようになり、昭和55年に全功丸を新造した以降も両業務に従事し、過去に船尾につるした錨に水先人用はしごを絡ませて水先人が海中に転落するという事故を起こしたことがあったが、事故後錨を船内に収容する措置をとったのみで、特別な対策をとっていなかった。 (5) 受審人B B受審人は、昭和38年4月民間海運会社に航海士として入社し、平成元年7月船長に昇進したのち、同7年2月に退社して水先人会に所属し、水先人として勤務していたところ、水先人会が行う水先修業生Cに対する実習を、ほか3人の水先人とともに担当し、同9年8月7日から同月13日までの期間及び同月26、27の両日並びに本件発生当日同水先修業生を伴って水先業務に当たっていた。 (6) C水先修業生 C水先修業生は、民間海運会社所属の船長のまま、水先免許を取得するために必要な3箇月間の実習中で、専ら出入航船が多い三池港こおいて、水先人の指導のもと約1箇月間100回以上の出入航の実習を既に行っていた。しかし、嚮導船からの乗下船地については、ほとんどが三池港外と同港内のふ頭であって、沖合でうねりや潮流などがある戸島乗下船地においては、2回全功丸を利用してB受審人とともに嚮導船に乗船した経験があったものの、行きあしをもった大型の嚮導船からの下船は経験していなかった。 (7) 本件発生に至る経緯 A受審人は、船首0.70メートル船尾1.50メートルの喫水となった全功丸に1人で乗り組み、同年9月4日早朝から熊本県牛深港と戸島乗下船地の間を往復し、入航する2隻の大型船に水先人をそれぞれ送ったのち、ア号の水先人を戸島乗下船地で迎える時刻の連絡を受けたが下船者の氏名、人数などを確認、しないまま、戸島乗下船地に近い鹿児島県蔵之元漁港で待機することとした。 ア号は、船長Dほか19人が乗り組み、B受審人及びC水先修業生を乗せ、同受審人の嚮導もと、空倉のまま、船首4.15メートル船尾7.00メートルの喫水をもって、同日08時13分八代港を発し、オーストラリアのダンピア港に向かい、機関を全速力前進にかけ、13ノットばかりの対水速力で南下する間に、乗組員が右舷側のコンビラダーの準備を行い、乾舷約12メートルの状態で、水先人用はしご下端を水面上約1メートル、舷側はしご下端を水面上約5メートルの高さにそれぞれ設置した。 ところで、水先人用はしご揚収索の取付方法については、同索が水先艇に絡み事故が多発していることに鑑み、国際パイロット協会などが同索を取り付けないよう勧告する一方、乗組員の労力軽減のため、やむを得ず同索を取り付ける場合は、よじれ防止用の横当て木の端に取り付けることを容認していたが、ア号は、同索を横当て木の端に取り付けず、直径15ミリメートルの同索を水先人用はしごの下端から3段目のステップの船尾側端に固縛し、少したるませてその上端をハンドレールに結んだ状態として続航した。 B受審人は、長島海峡に接近するにしたがって機関を減速し、11時13分戸島灯台から047度2,750メートルの地点に達して長島の鳴頼鼻とほぼ並航し、針路を210度に定めて約7ノットの対地速力となったとき、機関を停止し、折からの南南西流に乗じて前進惰力で進行中、長島の高串鼻の陰から現われた全功丸を認めてC水先修業生とともに下船することとしたが、C水先修業生が同伴して自らとともに下船することをA受審人に連絡しないまま、2人とも救命胴衣を着用せず、コンビラダーのところに赴いた。 これより前A受審人は、11時00分蔵之元漁港を発し、同時10分高串鼻を右舷側に替わしたころ、鳴瀬鼻北方にア号を認め、同船の前路を横切り、いったん停止して同船を待ったのち、同船の右舷側を約20メートル隔てて並航し、同時29分ごろア号の甲板上に数人の人影を認めたので、自船の左舷船首防舷材をア号の水先人用はしごの下端付近の舷側に圧着させ、水先人の下船を待った。 B受審人は、11時29分ごろ全功丸に移乗することとし、C水先修業生の戸島乗下船地での下船が初めてのことだったので、手本を示すため先に下船することとしたが、なにごとも起こるまいと思い、同人に対して自らが同船に乗り移ったのちに舷側はしごから水先人用はしごに降りることを指示するなど、同人に対する安全指導を十分に行うことなく、11時30分少し前惰力で約5ノットの対地速力をもったア号から全功丸に移乗した。 A受審人は、ややうねりが高かったので水先人が移乗したらすぐにア号から離舷するつもりで待機していたところ、船首甲板に降り立ったB受審人が、しきりに上方を指さしたり、両腕を交差させたりするのを操舵室前面の窓越しに認めたが、何か忘れ物でもしたのだろうからそのときはア号に再接舷すればよいものと思い、B受審人が行う合図が同を意味するのか、水先人用はしごの付近に人がいないか、同はしご及びそれらの付属物などを無難に替わせるかどうかを、舷側や天窓から確かめるなど、周囲の安全確認を十分に行うことなく、C水先修業生が同はしごを降りる途中であることに気付かないまま、11時30分わずか前機関を増速して右舵をとり、ア号の右舷船首方に向けて発進した。 こうして全功丸は、ア号から離舷する際、折からのうねりによる船体の上下動により、左舷船尾の防舷材にア号の水先人用はしご揚収索を絡ませ、ア号の右舷船首方に同はしごを引っ張って防舷材をつるしていたロープが切断し、同はしごが反動でア号の舷側に激しく当たり、11時30分戸島灯台から150度950メートルの地点において、ア号の舷側はしごから水先人用はしごに身の丈ほど降り同はしごにつかまっていたC水先修業生が、ア号の舷側に打ちつけられるかして同はしごから転落した。 当時、天候は晴で風力2の東風が吹き、潮高は下げ潮の初期で付近には約1.5ノットの南南西流があり、海上は高さ約1.5メートルの南からのうねりがあった。 A、B両受審人及びア号の乗組員は、それぞれ救命浮環を投じるなどしてC水先修業生の救助に当たった。 C水先修業生(昭和20年1月17日生)は、しばらく泳いでいたものの、救命浮環などに届かず、救命胴衣を着用していなかったので、力尽きて海中に没して行方不明となり、同月23日野間岬沖合を航行中の漁船によって発見され、溺死と検案された。
(主張に対する判断) 1 全功丸側補佐人の、「B受審人を戸島乗下船地から牛深港まで運んでくれと言われて同人のみを運べばよいと考えそのとおりにしたまでであって責任を追及されるべき落ち度は存在しない。」旨の主張について ア号を嚮導するB受審人が、全功丸に2人が移乗するということを連絡しなかったことは、A受審人が、B受審人に続いてC水先修業生が水先人用はしごから下りることを知らなかったこととなり、本件発生の要因となる。 しかしながら、A受審人は、仮にC水先修業生と面識もなく、B受審人がC水先修業生を伴って最近も全功丸を利用したことがないとしても、交通船としての全功丸を運航する船長として下船者の人数を確かめるべきであり、B受審人とともに双方の相互連絡が欠けていたものとして原因を指摘すべきことである。 また、A受審人は、ア号から離舷する際、たとえC水先修業生が下船することを知らずとも、ア号の乗組員が水先人用はしこ揚収などの舷外作業に当たったりしているはずであるから、周囲に対する安全を十分に確認しなければならず、しかも、B受審人が行う合図を、単に忘れ物でもしたのだろうと憶断し、ア号から安全な状態で離舷できるかどうか、周囲の確認をしなかったことは、基本的な注意を怠ったといわざるを得ず、本件発生の主要な原因をなしたものとするのが相当である。 2 水先人側補佐人の、「全功丸が古タイヤを舷側につるしていたことは水先人送迎船として不適切である、B受審人は水先修業生の船長経歴や修業実績からして同人に合図するまで舷側はしごで待機するよう指示するなどの注意義務はない、指示がなくとも自分の命は自分で守るべきものである。」旨の主張について 全功丸の構造上の問題については、水先人会としては、水先艇を多数の水先人乗下船地に配置することが経済的理由から困難で、全功丸の構造が水先艇と異なること、1人で運航されていることなどを承知で同船を用船していることに鑑み、改善を要する事項であっても、本件発生の原因とするまでもない。 B受審人は、たとえ船長経験を有する者でも、うねりがある沖合で、行きあしのある大型の嚮導船からの下船が初めてであれば、危険を伴うという認識があったのであるから、水先人用はしごを降りる動作を見本として示すのではなく、ア号から全功丸に安全に移乗するための具体的手順を指導すべきであり、先に同はしごを降りただけではC水先修業生に対する安全指導を十分に行わなかったと言わざるを得ず、本件発生の原因とすべきである。
(原因) 本件水先修業生死亡は、熊本県牛窓港沖合の長島海峡において、全功丸とア号間の相互連絡が十分でなかったばかりか、全功丸が、ア号から離舷する際の周囲に対する安全確認が不十分で、全功丸の防舷材にア号の水先人用はしご揚収索を絡ませたまま発進したことによって発生したが、ア号が、同索の取付方法が不適切で、同索が全功丸の防舷材に絡んだことも一因をなすものである。 水先人のア号から全功丸に移乗する際の水先修業生に対する安全指導が不十分であったことと、水先修業生が救命胴衣を着用していなかったこととは、いずれも本件発生の原因となる。
(受審人の所為) A受審人は、南からのうねりがあった熊本県牛窓港沖合の長島海峡において、舷側に突き出た防舷材を装備した全功丸を1人で操船し、行きあしのあるア号に接舷したのち、水先人を移乗させて離舷する場合、水先人用はしごや付属索などが防舷材に絡んで不測の事態が生じるおそれがあったから、B受審人が行った合図の、意味を確かめたり、同はしごの付近に人がいないか、自船が水先人用はしごや付属物などを無難に替わせるかどうかを舷側や天窓から確かめたりするなどの周囲に対する安全を十分に確認すべき注意義務があった。しかし、同人は、B受審人が忘れ物でもしたのだろうからそのときは再接舷すればよいと思い、周囲に対する安全を十分に確認しなかった職務上の過失により、全功丸の左舷船尾部の防舷材にア号の水先人用はしご揚収索が絡んだまま発進し、同防舷材をつるしたロープが切断した反動で同はしごがア号の船体に当たり、同はしごにつかまっていたC水先修業生が海中に転落して死亡するに至った。 以上のA受審人の所為に対しては、海難審判法第4条第2項の規定により、同法第5条第1項第2号を適用して同人の一級小型船舶操縦士の業務を1箇月停止する。 B受審人は、うねりがあった戸島乗下船地において、行きあしのあるア号から全功丸に初めて移乗することとなるC水先修業生を伴い、自ら先に全功丸に移乗する場合、同水先修業生に対して安全を確認したのちに舷側はしごから水先人用はしごに降りることを指示するなどの安全指導を十分に行うべき注意義務があった。しかし、B受審人は、なにごとも起こるまいと思い、C水先修業生に対する安全指導を十分に行わなかった職務上の過失により、前示結果を生じるに至った。 以上のB受審人の所為に対しては、海難審判法第4条第2項の規定により、同法第5条第1項第3号を適用して同人を戒告する。
よって主文のとおり裁決する。 |