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和漢比較文学会代表理事田中隆昭の司会で、専門家のみならず一般市民の人たちに多く参加してもらえるよう公開講演会の形で開催した。

はじめに、浙江大学教授日本文化研究所所長(杭州大学が本年九月から他大学と合併して浙江大学となった)王勇氏が「中日間のブックロード─平安時代の書籍交流─」の題で講演をおこなった。絹に代表される物質文明の交流であるシルクロードに対して書物の交流を通しての精神文明の交流を、王勇氏が名付けて「ブックロード」といわれる。古代から現代に至る日中の文化交流を表す語として「ブックロード」がだんだん定着してくるのではないかと期待される。そのブックロードをとおしての書物の交流の実態を平安時代を中心に明らかにされた。

中国から日本への書物の流入は推古朝の遣隋使派遣以前は百済を主とした朝鮮半島経由であった。遣隋使遣唐使か派遣されるようになってから、中国から直接日本へ輸入されるようになる。遣唐使・留学生・留学僧・渡来人・商人の手を経て大量の書物が入ってきた。文化は一方通行で流れるものではない。書物も日中間で環流している。古代においても日本から聖徳太子の『三経義疏』、淡海三船『大乗起信論』、最澄『顕戒論』等が中国に伝えられている。平安中期以後は日本から意欲的に日本人著作の書物が中国へ輸出されている。小野道風の書跡、源信の『往生要集』などが中国にわたり、然は渡唐するに当たり、菅原道真・紀長谷雄・都良香・橘広相等の著作を携帯したと記録されている。

その他重要なことは、中国の書物で日本に渡り、後まで伝えられたもので、中国本国で失われたのち逆流して中国に帰ったものが多くあるということである。書物という形あるものの具体的な動きを通して文化交流の実態が明かにされた。

九州大学教授中野三敏氏は「日本近世に於ける李卓吾受用」の題で講演をおこなった。

李卓吾(李贄)は中国明時代末の陽明学の左派の思想家であり、幕末の吉田松陰に思想的影響を与えたとして知られている。しかし、一般にはよく知られていたとはいえない李卓吾が、松陰以前に日本でどのように受け入れられていたかを明らかにされた。

李卓吾は中国の倫理道徳の基本に置かれていた四書五経を軽んじ道学礼教の偽善を暴いて、最後には投獄され自殺した。歿年は一六〇二年で日本の慶長七年である。寛永七年(一六三〇)には那波活所の『活所備忘録』巻一にその名が見られ、巻十には家蔵文集として『李氏焚書』をあげている。寛永未年には林羅山『野槌』に卓吾の『浄土訣』を引く。承応三年(一六五四)になった『天海蔵目録』に、『李氏叢書』十六巻、『焚書』四巻、『蔵書』二十巻など多くの著書をあげている。寛文元年刊の『五雑俎』では卓吾を「人妖」と記している。

宝暦五年には李卓吾編・巣居主人閲『開巻一笑』二冊が刊行されている。これは原書『山中一夕話』一四巻中より笑言嘲咏の多きを選び、鹿鳴散人訳を付している。同九年刊の『唐詩笑』は卓吾の「四書笑』にならい、江戸における漢戯文の嚆矢となった。

李卓吾が日本の近世にその他さまざまに多面的に受用されたことがあきらかにされた。

 

 

 

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