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京都大学では日本と中国の考古学を勉強されていた樋口先生は、一担当教授の進めもあって、シルクロード考古学の道へも足を踏み入れられたという。

1957年には戦後初の考古学訪華視察団に参加でき、図らずも中国奥地の敦煙に行くという貴重な経験をすることになった。敦煙では強い印象を受けたとおっしゃる。その後もインドの仏跡調査、イラン・パキスタン・アフガニスタンの学術調査へと調査・研究を進められた。パキスタンやアフガニスタンではガンダーラを中心に仏教遺跡の研究を行なわれた。

このように、京都大学時代は仏教を中心にしてアフガニスタンやインド、パキスタン、中国を中心に研究されてきた。

京都大学を離れてからは、調査研究の中心が西の方面へ変わった言われる。

1988年、なら・シルクロード博をきっかけに、誘われるままにシリアのパルミラでの発掘を手掛けられ、今日まで約10年に渡りパルミラ調査を続けてこられた。

先生はこのように、ユーラシア大陸の東側と西側を研究する機会に恵まれ、その御経験からシルクロードの西と東はお互いに関係を持ち合い、影響し有っていることがよくわかるとおっしゃっているとパルミラでは中国産の絹や、フェニキアのガラス、ローマのグラスが出土している。パルミラの遺跡にある彫刻の衣紋はガンダーラ仏像の衣紋と共通している。パルミラの石棺の彫刻には人物が横たわり、回りを家族が取り囲むバンケットシーンと呼ばれるレリーフがあるが、これはイタリアのエトルリアの基で見るものとそっくりだという。

マケドニアのアレクサンダー大王が西からインダス川流域まで東征を行い、東からは漢の武帝が西方へ進出して、西と東がつながることで東西文明がシルクロードを通じて交流することになった。そして、それぞれの文化が交流し、長い歳月をかけて、お互いが育まれて行ったということこそが、今なおシルクロードが我々を魅了してやまない由縁である。アレクサンダー大王が将兵とともに休息し、暫し、望郷の念にひたったであろう場所に立ち、あるいは玄装三蔵が法典を求め、苦難の旅をし、大唐聖域記に記した道を歩いてみると、幾世紀も経た今日でも眼前には古と変わらぬ眺めがあり、風が吹いている。シルクロードを訪れる旅行者は今でもこんな素晴らしいロマンを体験できるのであると先生はおっしゃっている。

 

●新井 佼一、国際観光開発研究センター専務理事の講演

新井専務理事の講演については次項8、これまでの現地調査の概要の中で紹介したい。

 

●西藤 清秀、橿原考古学研究所総括研究員・パルミラ発掘調査隊長

西藤パルミラ発掘調査隊長の講演については、第3章4頂(3)パルミラ6]Bパルミラ遺跡東南墓地地下墓発掘調査の概要の中に詳しくのべられているのでそこで紹介したい。

 

 

 

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