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こうした建築学の面からも人類学的関心からも興味深い対象として、平遥の伝統的な住まいの秩序や理念を、儀礼や装置を媒介として探ることをひとつの目的に私は調査研究をすすめている。無論、平遥が伝統的なものだけで構成されているのではなく、新技術の導入によって、プレキャストコンクリートの使用などの建築材料や構法のような変化が起こっている[(8)]。また、社会背景の変化によって、日常的生活行為や儀礼のおこないかたなどを含む住まいかたも変容をつづけている。もうひとつの研究の目的は、住まいがこうした変化変容にであったときに、いかにして秩序や理念の維持をするのか、あるいは、外的要因にあわせて変化させるのかを解明することである。

この二つの目的をもって、平遥の伝統的な住まいの秩序と理念およびその維持・変容のシステムについて、一九九五年〜一九九八年におこなった八回(約六カ月間)の調査で得たデータをもちいながら、五回にわけて考えてみたい。

 

◎都市のなりたち◎

 

まず今回は、やや鳥瞰的に平遥の歴史的なりたちと現状を紹介したい。平遥の都市形成を示す史料として、康熙四五年(一七〇六)と光緒八年(一八八二)に編纂された『平遥県誌』がある。その記載によれば、北魏(四二〇〜四五八)のはじめに平陶県が現在の場所に置かれた。のちに、魏の大武帝の名前の一字と陶が同音だったので平遥と改称した。その後、中国全土で城壁の拡張、補強のおこなわれる明代初期の洪武三年(一三七〇)に平遥でも城壁の拡張がおこなわれ、その後幾度かの補修をへているが、この時期に現在の都市域が形づくられた[(9)]。

平遥が歴史的にもっとも脚光をあびたのは、明末(一七世紀)から今世紀初頭にかけてのことである。平遥を含む山西省は、多くの有力な商人を輩出し、政府との結びつきもつよかった。とくに、清中期、中国的金融業の始祖といわれる票号が成立し、それが近代銀行にとってかわられる今世紀初頭まで、平遥は繁栄をきわめた。住宅や店舗は、ほとんどこの時期に建設されたものである。

平遥を鳥瞰的に展望するのに便利なのが観光セスナ機だ。

 

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県城図「平遥県誌」(光緒八年・1882)より

 

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上空から南大街を見る

 

 

 

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