帳面を置いているという具合です。旗野の家は、古い家ですから安田に関する古文書、絵図などもいっぱい残っていて、東伍はこれを片っ瑞から読み漁るわけです。そして十七歳の時、今でいう郷土史を自分で書きだすのです。これを二十六歳の時に県庁知事宛に差し出した。提出した清書本は行方不明ですが、新潟市の旗野裕之氏のお宅に美濃紙の原稿用紙を袋綴じにした草稿本が残っていたのです。七百字詰め六十枚の分量です。私はこつこつと読み始めましたが、冒頭にびっくりする内容が書かれていました。明治政府の行政区画は、自然の地理や人々の心の有り様を無視して編成したものであるという趣旨のことが書かれているのです。
これは後の『大日本地名辞書』の凡論の中で繰り返されるのですが、このような視点を青年時代に既に持っていたのは驚きです。しかも自分の生まれた「安田」という地名をいろんな角度から分析して、彼なりの推論を展開したうえで、だから「安田」なのだということをいっているのです。この時に書いた説は残念ながら『大日本地名辞書』には掲載されなかったのですが、面白い説です。古代の田作りということに注目していて、安田に小字「佃」という所がありますが、東伍はこれにこだわり、「北越の偏地に王室の官田、営田はあるはずはないが、強盛なる高貴族がこの安田の佃を有して、その地に槻田の社を建てたにちがいない」と言う。重要な田だという書き方をしている。現在式内社の概田神社は新潟県三条市内に比定されているのですが、これを東伍は安田の字佃に建っていたと言っているのです。その考え方はかなり大胆です。