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なお、川西町が成立する以前、敗戦の年、1945年の仙田村の人口は5,880人、4町村は17,081人、信濃川発電第三期工事(1948年8月認可、1951年終了)で人口が増加した1950年の仙田村は5,608人、4町村は17,979人であり、このころが町の人口は最も多い。

上記にみる通り、川西町の現在の人口はもっとも多かった時期の50パーセントを切るまでに減っている。川西町成立以来減りつづいていた人口は、現在では小康状態にある。

過疎そして少子化は、小学校中学校の児童生徒数に顕著にあらわれている。川西町成立時と1996年をくらべると、小学校児童は23.4パーセント、中学校生徒は29.5パーセント、両方を合わせて25.0パーセントの減である。町の人口の減少よりもずっと激しく減っているのである。この数値は老齢人口が相対的に増加していることを示している。

町の総人口に占める60歳以上の比率は、1970年15.7パーセント、1975年18.3パーセント、1980年20.1パーセント、1985年26.8パーセント、1990年27.7パーセント、1995年31.5パーセント(総人口8,524人うち60歳以上2,688人)と年をおうごとに急速に大きくなっている。

 

川西町合併直前(1956)の町村別学校規模と1998年の比較

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集落の閉村・離村の理由

過疎にかんして、一家をあげて転出(挙家離村)しなければならなかった関係者は次のような理由をあげている。

1)豪雪地から逃れたい。2)農業ではくえないし、他産業へ就労の場が少ない。3)農業が嫌い、後継者がいない。4)医療施設が乏しい。5)子弟の教育のため。6)若者がいない。嫁不足。7)不便さ娯楽性の乏しさ、などなど。

挙家離村の実状は、上にあげた幾つかの理由、その他が絡まっていると考えられる。上にあげた理由のうち「豪雪地から逃れたい」という気持ちはよくわかる。清水トンネルを抜けて関東平野にでると、そこにまったく違った晴天の世界がある。そこまで現在の交通手段では1時間も要せずに到着する。このような経験した人は少なくないだろう。2)以下のこと、農業ではくえない、他産業へ就労の場が少ない。後継者がいない、医療施設が乏しい、子弟の教育のため、若者がいない、嫁不足、不便さ、娯楽性の乏しさなどは、川西町や仙田地区にかぎられた事項でなくほかの多くの過疎地に共通する悩みである。このうち、医療施設、子弟の教育などは道路事情がよくなり交通機関の整備、自家用車の普及などによって相当程度の解決をみている。農業についてみると、この地で米作を主として農業をやっている人は何人もいる。また、嫁不足は過疎でない都市でも同じ問題をかかえているところが少なくない。

一人一人また家々についてみれば上記のようなことも、実は一地域、一市町村の問題ではなく、日本さらに世界に共通する過疎と過密の問題でもある。農業社会・工業社会を経て情報社会に入った今の日本社会は、世界のなかでそのような状況に置かれているのである。情報社会のなかにあって過疎にどう打ち勝つかが現代の課題であると考える。

昭和36年に出された農業基本法は、大規模農業の育成し、小規模農家の切捨て政策であり、結果として多量の離農を促し、1.5ha以下の小規模農家の他産業への就労を促進した。農村から都市へ多くの若者が移動した。仙田から一家をあげて出た世帯は、昭和31年から35年の5年間で24世帯であったが、以後36年9世帯、37年20世帯、38年19世帯、39年13世帯、40年15世帯と急増している。40年代に入っての農業者年金制度の発足、減反政策の実施などが離村に加速をかけた。

過疎対策  川西町は過疎地域対策緊急措置法(1970)にもとづいて、1971年に過疎地域に指定された。それまでも過疎に悩んでいた川西町は、国、県の援助を受けながら行政全般にわたる過疎対策事業を強力に進めた。

 

 

 

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