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絹織物 生糸の需要が伸びるにしたがって明治中期よりおや麻に変わる絹織物がじょじょに増加し、明治21年に岩瀬に小規模ながら座繰りの製糸工場が生まれた。

ござ 昭和初期まで仙田藺と称する藺草を水田に栽培し「ござ」を生産していた。粗製品ではあるが柔軟性に富むことから寝敷用(寝ござ、敷布の前身)とされた。のち「餅取ござ」としてわずかに生産をつづけていたが現在ではその面影もない。

竹細工 原料である「山竹」が山野に自生した。明治後期から大正にかけて中仙田小学校長に在職した佐野博夫は、当時の高等科・補修科の生徒や村の若者を対象として箕・ざる・ざま(桑や繭を入れるかご)など種種の竹細工を夜遅くまで指導した。また、仙田小学校でも昭和7、8年ごろ訓導(教師)市川久太郎によって竹細工の指導がおこなわれた。こして地元有志から指導を受けた多数の人によって仙田の竹細工は盛んになった。

和紙 楮は渋海川が運んだ肥沃な堆積上によく育つといわれ、仙田の人たちは楮を原料として和紙作りに励んだ。縮布(反物)の包装紙も作った。明治23年の第3回内国勧業博覧会に出品された越後小千谷縮の包装紙は岩瀬の中条伝十郎の作品である。明治44年の仙田村の産業統計では物産中に和紙500束、価格500円の数字がみられる。ただ量産ができず仙田紙として独自の名声をあげるにはいたらなかった。仙田地区で紙漉きが見られなくなったのは昭和30年代になってからである。

 

職人たち

木挽・大工・板割り(木羽へぎ)・屋根ふき・左官・桶屋・下駄屋・鍛冶職・穴堀り・石工など多くの職人がいた。

大工  室島・中仙田・藤沢・越ケ沢・赤谷・岩瀬に親方がいた。

木羽職人

桶屋  岩瀬・赤谷・田戸にいた。洗い桶・水汲み杓子・風呂桶など

唐箕大工  越ケ沢の大工太右衛門は代々唐箕作りの職人として名をはせた。江戸時代末期、太右衛門の家に物貰い(元唐箕造り職人)が一夜の宿を乞うた機会に唐箕作りで最も重要な羽根の仕組みについて技法を会得した。以来、改良を重ねて越ケ浜唐箕を完成した。近郷近在はもちろん東頸城郡や信州まで進出し、弟子たちによって普及した。

藍染  紺屋と呼ばれる染物屋で赤谷・岩瀬に今も「こやどん」の屋号の家がある。

鍬柄作り  藤沢に屋号「久松」という父子二代わたって鍬柄を作る大工があった。その製品は丈夫で柄と台の取り合いが評判がよかった。この取り合い部分に特殊な技法を考案したのが久松大工であった。

搾乳業  室島の高橋省三は明治29年搾乳業を始めた。川西地方の嚆夫である。当時ホルスタイン、ジャージー種など乳牛を飼育した。飼育法や搾乳技術など未熟な面があって搾乳量は少なかった。

仙田特産  炭焼き、仙田ごぼう、仙田和紙、岩瀬しょうが、室島百合、小白倉柿などが特産物であった。

 

第3節 過疎

 

農業を主体に比較的穏便な暮らしが続いていた川西町が、過疎化の渦のなかで激しく揺れ動きはじめたのは、昭和30年代後半(1960年)からである。おりからの日本経済の高度成長によって地域構造は大きく変化し、都市や既成の工業地帯への人口集中の波は、農村部の人口減少を引き起こす原因となり、川西町はこの影響をまともに受けることとなった。

仙田地区は町内西半の山間部に立地し豪雪地であることもあって、川西町のなかでも早く昭和30年代(1955年頃)から過疎が著しく、少子化高齢化がすすんでいた。川西町成立時の昭和31年(1956)9月1日現在の町の総人口は14,997人であった。そのときの仙田村分の人口は5,202人であって、合併4町村(仙田村・千手町4,853人・橘村2,816人・上野村2,126人)のなかでは最も多い。30年後の昭和60年(1985)の国勢調査の人口は、川西町9,423人、世帯数2,246であり、このうち仙田地区は1,741人であって、旧町村のなかで最も少なくなっている。1995年では川西町8,524人、世帯数2,213、仙田地区1,250人である。

 

 

 

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