沿岸地方に住んでいる人が「地震を感じたらすぐ津波の来襲に備えて、高所に移動せよ。津波警報が間に合わないこともあるから」というのが津波防災が心得とされる。しかし現実には、日本列島上であったら年に数回は有感地震を経験するのが常である。そのたびに津波の警報前来襲を想定して高所避難をせよ、というのは現実的ではない。この教訓にいう「地震を感じたら」の「地震」とは、震度5以上の強い揺れ、と理解すべきであろう。すなわち、「家の中で家具が倒れ、壁にひびが入り、テーブルやタンスの上のものが落ちるほどの強い揺れの地震(震度5以上)を感じたならば津波の早い来襲を予想してただちに高所に移動せよ」というのが現実的な教訓ということになろう。
3.津波エネルギーは海岸線隅角部で集中する
明治29年(1896)や昭和8年(1933)の三陸津波の教訓に「津波はV字型のリヤス式湾の一番奥で高くなる」というのがある。漁港区域の水面を囲むため、防波堤が自然の海岸線に直角に突き出ている場合が多い。そのような防波堤の付け根の部分は、自然海岸の海岸線と90度に近い角度で交わって、そこに海の隅角部を形成しているのが普通である。このような海の隅角部は、いわば小さなV字湾の奥になっている。
奥尻島青苗の場合、町の中央部には、町北方の海の隅角部の背後のわずかな砂丘の切れ目から侵入してきた大量の海水によって強い流れができ、この海水の流れによってそこにあった木造家屋のほとんどすべてが洗い流された。北海道本土海岸でも大成町太田の集落ではやはり同様の海の隅角部の背後で家屋被害が特に大きかったことが知られている。
全国の沿岸漁港を控えた集落で、このような海の隅角部の点検をすべきであろう。
4.津波は岬の先端付近でも高くなる
前節で述べたように津波のエネルギーはV字湾の最奥部で集中する。それとは逆に、津波のエネルギーはまた岬の先端付近ででも集中する傾向を持つ。ことに、岬の先端を回り込んだ背後の1点に、津波のエネルギーの集中する場所が現れることがある。古くは熊野海岸沖から駿河湾内までの海域を震源域とした安政東海地震(1854)のときに、伊豆半島の先端を回り込んだ下田で大きな津波被害を出した。北海道南西沖地震では、奥尻島の南端青苗岬の「影」にあたる松江地区の初松前集落付近で全戸流失の大きな被害を出したのが「岬背後の津波のエネルギーの集中」の例となった。
5.基礎と鉄で一体となっていた建物は流れなかった
青苗の被害直後の写真をよく観察すると、最南端の青苗五区をはじめ、市街地中部・北部ではほとんどの家屋が流失したなかに、わずかではあるが流失を免れた家屋があった。鉄骨構造の農協ビル、鉄筋コンクリート構造の漁協ビルとその背後の冷蔵倉庫、それに堅牢な石作りの醤油蔵、それに青苗岬先端付近でただひとつポツンと残った鉄筋コンクリート作りの公衆トイレであった。これに対して地上浸水厚さが2mを越えた場所にあった一般の木造民家のほとんどは、コンクリート基礎だけが残ってその上にボルトで留められた木造部分がそっくり持って行かれる形で流失した。