4 歴史
現在の練馬周辺に人が住み始めたのは、約1万5,000年前の先土器時代からとされ、遺跡も発見されている。続く縄文時代の遺跡のひとつに池淵遺跡があり、一部が公園として保存されている。また、栗原遺跡には7〜8世紀頃の竪穴住居が復元されている。大化改新(645年)後の律令国家における行政区域では、武蔵国豊島郡に属した。豊島郡は、現在の千代田・中央・台東・文京・荒川・北・板橋・新宿・豊島・練馬の10区にまたがる広い地域を占めており、大半は草原と雑木林の続く広大な原野だったと推測されている。
平安時代末頃には荘園を基盤として武士団が生まれ、武蔵国豊島郡では豊島氏が勢力を広げた。豊島氏は、最初の拠点として平塚城(現在の北区上中里)を築き、鎌倉時代には現在の練馬地域に進出したと伝えられる。鎌倉・室町期には城をめぐる攻防が頻繁に起き、石神井城主・豊島泰経と大田道灌との戦いにより、約200年にわたって練馬地域を支配した豊島氏は滅んだ。その後、大田氏、北条氏の支配へと代わっていく。
江戸幕府が開かれて、練馬の村々は大部分が天領(幕府直轄地)に、一部は旗本の知行地となる。当時は水に恵まれない土地柄のため、農地のほとんどが畑で、その面積も限られていた。幕府は上水を開発し、玉川上水から分水して造られた千川上水は、宝永4年(1707年)に農業用水としての利用が許され、貴重な水資源となる。練馬地域は江戸の発展に伴い、江戸市中に大根・ゴボウ・ナス・イモなどを供給する一大近郊農村となる。とくに大根は、関東ロームといわれるきめ細かい土壌に適していた。
明治維新により、練馬地域は明治元年(1868年)武蔵県に、翌明治2年には品川県に編入されるなどの経緯の後、明治11年(1878年)に東京府北豊島郡の一部となった。練馬地域の人口は、明治7年(1874年)に約1万2,000人、50年後の大正14年(1925年)に約3万人で、ゆるやかに増加していた。
昭和7年(1932年)、東京市が35区制になり、練馬地域を含む板橋区が成立した。昭和22年(1947年)3月に22区制となり、8月1日に板橋区から独立して練馬区が誕生、23番目の特別区となった。
「ねりま」という地名の出来については定説はないが、(A)関東ローム層の赤土を練った所を「黏場(ねりば)」といった、(B)石神井川流域の奥まった所に沼=「根沼(ねぬま)」が多かった、(C)奈良時代の武蔵国に「乗潴(のりぬま)」という宿駅があった、(D)中世、豊島氏の家臣に馬術の名人がおり、馬を馴らすことを「ねる」と言った、などの諸説がある(資料:練馬区「練馬区勢概要 平成9年版」P10-11)。