山村美山町に帰郷して
京都府・弓削医院
弓削マスノ
要旨
故郷の自然が幼時より大好きであった私は終戦と同時に意を決し,昭和20年9月に帰郷しました。その後思いがけなく開業する事になり,今日まで内科を標榜して休日以外は殆ど休む事なく務めて来ました。
戦後間もない帰省当時の衛生状態は悲しい有様でした。健康教育は全くされて居らず,清潔な用水もなく,道路もなく,全く山奥の獣さながらの状態でした。それはこの故郷だけでなく,どこの地域もこれに近い状態であったかも知れません。戦後10年程たった頃から,次第に道は良くなり,衛生教育にも力を入れられ,行政は我々国民のために働いていて下さるという事を,実感する様になりました。何もかも戦争のせいだったのです。
一つしかないこの素晴しい地球を大切に守って,全人類が平等に楽しく元気に生きるのが我々の何よりの務めだと思います。
I 故郷の終戦当時の衛生状態と現状
昭和13年4月,大阪女子高等医学専門学校(現関西医大)を卒業した私は母校の平川内科に入局し,副手として勤務しました。それは丁度戦争中で,病院勤務の男子医師は次々応召され,病院では医師が大変不足して居りました。そこで大阪市立桃山病院から応援を要請され,私と共に同僚五人が出向する事になりました。法定伝染病院で,大きな建物は患者さんがあふれていました。そこで私は六年間いろいろ勉強させて頂きました。そして終戦となった日,故郷へ帰る決心をしました。幼時からあこがれていた美しい野や山で暮らす事の出来る日がやっと訪れたと思いました。そこで開業する等とは夢にも思っていませんでした。長年留守にして放置していた建物は荒れ果てて居り,翌日から大工さん等に大修理をして頂く事になりました。帰郷の翌日朝起きてみると,近所の人が診察をしてほしいと入口に立って居られました。私は法医学で習った「応招の義務」と云う言葉を思い出し,直ぐに診察をしました。軽い胃腸障害の程度でしたので所有の薬の投薬もしました。それから毎日患者さんが1人,2人とふえて診察する破目となりました。近くに住む遠縁の老医師が,開業届を出した方がよいと数えて下さいましたので,家の修理も出来た翌21年2月1日に開業届を出しました。その後間もなく,私宅から西と東に各4km程離れた処に居られた先生が二人共復員して来られましたので,この山村も大変心強くなりました。
蛔虫症 先づ腹痛の多い処に驚きました。その為に往診を度々要請され,殆どそれは蛔虫症でした。検便すると100%蛔虫卵(+++),駆虫薬を投与すると,丼鉢に山盛り程の蛔虫が出て来ました。何故こんなに寄生虫に侵されるのか。農家では畑や田に