この欄で、一遍の出自や発心の原由を正すのは紙数の都合で出来ませんが、遊行四代の呑海上人が正中2年(1325)北条氏や地頭の俣野五郎景平の援助を受けて建てたのが、藤沢市にある時宗総本山の清浄光寺です。
一般に遊行寺と呼ばれるこの寺の総門は日本三黒門の一つで、権現造りの中雀門の菊花の紋章は、12代尊親法親王が南朝皇室の出であったことによるものといわれています。
寺内には、歌舞伎で馴染みの小栗判官と照手姫の墓、上杉氏憲と関東管領足利持氏が戦った、いわゆる禅秀ノ乱で、戦死した両軍の将兵を弔った敵味方供養塔と呼ばれる、全国で最も古い国指定の史蹟「怨親平等の碑」があります。
そしてもう一つ、総門の近くに「当院42世洞雲院弥阿列成和尚」という碑名の墓があります。
年配でないとご存知ないかもしれませんが、赤城山に立籠っていた國定忠治に疑われて、目明しの叔父を斬殺せざるを得なくなった子分の「板割りの浅太郎」その人の墓です。
忠治は、非常に猜疑心の強い男でしたが、子分には人物が多かったといいます。
それは、忠治の人間的魅力ではなくて、農民に対する酷政への反発が人を集めたというのが真実のようです。
浅太郎は、叔父を斬って身の潔白を明らかにしたのち忠治と別れ、信州野沢の時宗金台寺で出家し列成となります。
明治13年遊行寺が焼けたとき、本山復興の資金募集に奔走し、莫大な寄進をうけて本山の再建に大きく貢献しました。
その後も遊行寺に留まって、明治26年他界しています。
一遍にも、世俗の男女愛憎に絡む刃傷沙汰があり、人間の愚かさや、弱さ哀しさ、そのような体験が一遍の思想形成に大きな作用が有ったといわれています。
やくざという前半生を持ち、やくざ社会の中で叔父を殺さなければならなかった浅太郎が、大きな罪業を生涯負い続けなければならなかった点では、一遍と共通したものを持っており、この両者に何世紀もの時の流れはあっても、糸のような因縁がそこに関わっているように思います。
この寺は、鎌倉と離れているせいもあって、観光客に毒されることもなく、静寂の中に宗祖を初め、皇室出の上人もやくざあがりの和尚共々、日本人の歴史を背負って眠っています。
横浜新道を抜け、戸塚駅方面からの東海道が合流する辺りは、旧東海道の松並木が残存し、路傍にお軽勘平戸塚山中道行きの碑や、一里塚の旧跡、そして原宿、鉄砲宿など、街道名残りの地名が続く町筋を抜け、江ノ島方面への道をとるとやがて遊行寺坂を下りますが、坂を下りきらない右手、東行の場合は藤沢橋を目指し、藤沢橋を渡って直ぐの遊行寺坂登リロの左手がその寺です。
(柳)
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