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山田 耕筰
(1886.6.9〜1965.12.29)

 東京本郷に生まれる。実姉恒(後年日本キリスト教婦人矯風会会頭となる)の夫、エドワード・ガントレットを通じて西洋音楽に親しむ。関西学院を経て1904年東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)予科に入学。翌年本科に進級するが、作曲科がないため声楽部に進む。1909年、多久寅らとともに多クワルテットを結成し、第1回演奏会を開く。雑誌「音楽界」10月号に合唱曲「古城の秋」を発表。12月には自作のオラトリオ「誓いの星」を上演(小山内薫監督、清水金太郎ほか出演)した。1910年1月東京音楽学校教授Heinrich Werkmeisterの紹介により、岩崎小弥太と会見、その後援を得てドイツに留学。Staatliche akademische Hochschulefur Musik Berlin(現Hochschule der Kunste Berlin)に入学し作曲を学ぶ。1912年、「交響曲<かちどきと平和>」を卒業制作。日本人最初の交響曲となった。この年の作品には、ほかに管弦楽曲「序曲」、「秋の宴」、オペラ「堕ちたる天女(坪内迫遥原作)」などがある。1913年12月帰国。ピアノ五重奏曲「婚姻の響き」、交響詩「暗い扉」、「曼陀羅の華」を作曲。1914年1月三木露風主宰の「未来社」同人に加わる。東京フィルハーモニー会管弦楽部を創設し、自作を自らの指揮で発表を始める。1917年12月に渡米。1918年10月16日と1919年1月24日の2回、ニューヨーク・カーネギー・ホールで自作およびワグナーの作品を指揮、大成功をおさめアメリカ音楽協会、マクドウエルクラブ、近代音楽協会の名誉会員に推薦された。滞米中の作品に、伊藤道郎のために書かれた「鷹の井戸」、「幽韻」、日本古謡に基づいた「沖の鴎」などの一連の歌曲、ピアノ曲「クランフォード日記」などがある。ストコフスキー、ジンバリスト、ラフマニノフ、エルマン、ハイフェッツ、カルーソー、R.シュトラウスらと親交を持ったが、1919年5月1年半の滞在を終えて帰国。歌曲集の出版や、著書の上梓が活発になる。1920年12月「タンホイザー」の公演をきっかけに本格的なオペラ運動を展開すべく、日本楽劇協会を設立。1921年「明治頌歌」を発表。9月2度目の渡欧。1922年9月、北原白秋とともに雑誌「詩と音楽」を創刊し、毎号に新作歌曲を発表する。1925年日本交響楽協会(日響)第1回演奏会を開催し、翌年より予約定期演奏会を開始したが、9月、近衛秀麿のほか40余名の楽団員が脱会したため、新交響楽団を結成した。1929年日本楽劇協会第2回公演として「堕ちたる天女」を歌舞伎座で上演。翌1930年にはオペラ「お蝶夫人」を上演、この年耕筰と改名する。1931年2月、Theatre Pigalleの招きにより渡仏。オペラ「あやめ」を完成したが、上演は中止となり帰国。しかし、帰路立ち寄ったソヴィエト各地でのコンサートは、センセーショナルな成功をおさめ、山田の音楽家としての存在はソ連の音楽界で次第に大きなものとなった。1933年ソヴィエト政府の招請を受け再訪ソしている。1936年フランス政府よりLegion d'honneur勲章を授与され、さらにドビュッシー協会とサン=サーンス協会からそれぞれ名誉会員章を贈られる。1937年ドイツに招かれ、自作をベノレリン・フィルで指揮し、好評のうちに10回の演奏会を行った。1940年オペラ「夜明け」(「黒船」原題PercyNoel原作)を東京宝塚劇場で初演し、「朝日文化賞」が贈られる。1945年東京大空襲により楽譜を焼失したが終戦と同時にオペラ「香妃」(長与善郎原作)に着手。1948年脳溢血で倒れ半身不随となったが、その後も作曲活動を続け、天理教教会委嘱による「天理教讃頌譜」、大阪毎日新聞社委嘱「寿式三番叟の印象による組曲風祝典曲」などの大曲を作曲し、指揮をした。1950年第1回放送文化賞受賞。1956年文化勲章受賞。


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