●司会
日野原重明 聖路加看護大学学長、聖路加国際病院院長
紀伊國献三 東京女子医科大学教授
●パネリスト
石神重信 防衛医科大学校助教授
金子郁容 慶応義塾大学大学院政策・メディア研究科教授
島田妙子 特別養護老人ホーム「シオンの園」園長
清水嘉与子 参議院議員
三浦文夫 日本社会事業大学学長
若月俊一 佐久総合病院総長
【司会(日野原)】さて、この合同討議では、パネリストの方々を中心に発言していただきますが、できる限り多くフロアからの発言もいただきたいと思います。また、これまでの「発表」「各世代からの提言」を通して、濃縮された討議の時間がもてるものと期待しています。
それでは、よろしくお願いいたします。
【司会(紀伊國)】まず最初のスピーカーの清水嘉与子先生のご紹介をさせていただきます。清水先生は、東京大学の衛生看護学科をご卒業後、関東逓信病院で実際に看護業務に従事され、その後、厚生省の看護課長を経て、参議院議員をされています。いま国会では年金法の改革が行われており、先生は参議院の厚生委員会理事をされている関係上、本日のご出席は無理かと思っていましたところ、皆さま方と直接お話しがしたいと、お忙しいご公務のなかこの合同討議にご参加いただきました。
それでは清水先生、お願いいたします。
【清水】いま衆議院では年金法の改正審議が行われており、たいへん勝手なのですが最初に発言させていたださます。
日本が、世界の最長寿国になったにもかかわらず、長寿の喜びよりも、老後の生活の問題や介護の問題に不安をもつ方が多いのはたいへん残念なことです。国民が安心できる高齢者ケアの実現に向けて、その計画の提示や費用負担のあり方を国民に問う役割は、当然政治家が負っていると思います。
近年、高齢者対策はかなり積極的に進められており、現在進行中のゴールドプランも、市町村保健福祉計画を基に新ゴールドプランとして修正される運びになっていますが、財源の確保が最大の問題なのです。国会では、福祉対策を視野に入れた消費税アップが審議されていますが、私たち政治家は、この新ゴールドプランの内容を国民に明らかにしなければならないと考えています。
現在の高齢者ケアのなかで、改善されなければならない問題の1つとして施設の問題があります。老人病院や老人保健施設は、患者、家族という利用者側の選択ができるのに対して、特別養護老人ホームの場合は、行政の措置で入所が決まるなど利用の方法も違い、また費用面でも差があります。そして、社会的入院といわれるような、医療の必要がない高齢者の介護を病院が受け持ち、医療費で賄うのは改善しなければならない問題です。
また、老人保健施設の現状、特別養護老人ホームの硬直化したサービス制度など、高齢者の施設に関しては、解決しなければならない問題が山積しています。今後は、たとえば公的病院が病床の一部を高齢者用に用意し、一定地域のなかで、老人病院や老人保健施設、特別養護老人ホームなどの紹介を行える、本当に必要なときには必ず施設に入れるようなシステムづくりが重要なのではないかと思います。
次に、在宅ケアの問題があります。社会的入院を減らし、高齢者の自立を尊重し、生活を支えていくためには、在宅ケアの充実を図る必要があります。
新ゴールドプランでは、市町村がさまざまな保健医療福祉政策を推進し、そのサービスの量やメニューも非常に増えると思いますが、より充実を求められているのは医療サービスの支援です。医師の往診、あるいは0T,PTの訪問がたいせつなのはもちろんですが、やはり看護婦の立場から考えると、訪問看護の仕組みを充実させる必要があると思います。24時間対応できる体制、ターミナルケアがなくては在宅ケアの充実は図れません。この問題の解決を進めるには、医師の指示と看護婦が行える医療行為の範囲の関係を前向きに検討する必要があります。また、ショートステイやデイケア、ナイトケアといった在宅支援サービスが利用しやすくなることも非常に重要なことです。
そして、このようなサービスの利用についての相談窓口の開設や介護休暇制度の確立、あるいは家族の経済的負担の軽減についても対応しなければならないのです。そのような意味で、公的介護保険の導入を前向きに検討する必要があると考えています。
改善されるべき問題の3つ目には、寝たきり、寝かせきり老人の問題があります。日本の高齢者は必要以上に寝たきりになっているのではないかとの指摘がありますが、私も同感です。適正な医療、継続したリハビリ、さらに看護・介護の人手を増やすことによって、寝たきりの人を起こし、おむつを外すという可能性が非常に高くなると思います。病院では、新看護体系の下に、看護、介護者数が強化されることになりましたが、欧米の施設に比へれば十分とはいえません。いかに人生が長くなったとしても、最後はベッドの上というので寂しいのではないかと思います。1993年の要介護老人200万人が、30年後には520万人になると予想されています。
清水嘉与子
まずこの数字を少なくすることが先決です。これには、寝たきり老人をつくらない、寝たきり老人を起こす努力が早急に行われるべきだと思います。また、市町村で行われている福祉対策のなかには、寝たきりになってしまったあとの対策に重きをおいているようなものもありますが、むしろ寝たきりにならない、自立を支援する形のものに重点が向けられるべきだと思います。
最後に、ボランティアの問題があります。将来の高齢化社会に向けて、元気なうちに、ボランティアとしていろいろなサービスの実践に参加し、やがて自分が受けるサービスの中身や施設について知っておくことが重要なのではないかと思います。さらに、たとえば大学を卒業して就職する前に、1〜2年でもボランティアとして医療や福祉に携わるというゆとりが、日本にもあってよいのではないかと感じています。
【日野原】ありがとうございました。先生が述べられた高齢者ケアにおける4つの問題を中心に、このあとの討議を進めていきたいと思います。
では次に、三浦文夫先生をご紹介いたします。先生は、社会保障研究所研究部長、日本福祉大学助教授などを歴任され、現在、日本社会事業大学の学長を務められる、日本における社会福祉学の第一人者です。
【三浦】高齢化の進展のなかで、特に私が気にしているのは、75歳以上、あるいは80歳以上の後期高齢者が激増するのではないかということです。80歳を過ぎると、多くは身体的、精神的に老化現象が目立ち、やがて寝たきりや痴呆などの状況が起こる場合がありますが、21世紀には、その80歳代以上の高齢者が非常に増え、長命革命の1つの明暗がそこに現れてくるのではないかと思うのです。そして、後期高齢者の激増のなかでの最大の問題は、やはりケアの問題であることはいうまでもありません。このケアの問題は、福祉にとっても、現在は言うに及ばず21世紀に向けての最大の課題であるといっても過言ではありません。
つまり、政府ばかりでなく社会全体が、現在の高齢者ケアの立ち後れを克服するために真剣に取り組んでいることは当然のことです。ゴールドプラン、新ゴールドプランなども、そのような状況を反映していると思います。しかし、ゴールドプランにより高齢者ケアの公的な政策が大きく変わってくるとは思いますが、学者の立場からいいたいことは、社会サービスの一環としてのケアシステムをあらためて組み直してみるべきではないかということです。
社会サービスとは、国民の大多数にとって欠かすことのできないサービスであるとともに、これは民間単独でも政府単独でもできないサービスのことです。このために、これらのサービスに対する新しい供給システムを構築する必要があり、そのなかで改めて公的な役割が確認されなければならないのです。今後、多くの人が80歳代まで生きることはほぼ間違いのないことですが、同時に、障害や寝たきり、アルツハイマーに陥る危険性も多分にもっています。そのような意味で、介護問題はすべての人にかかわる問題であるということをまず確認する必要があります。
日野原重明
個人的な話ですが、母親が亡くなって、明日が四十九日です。1年4か月ほど母親の介護にあたった経験から痛感したことは、介護問題は自分自身の老後だけではなく、自分や連れ合いの両親など、すべての人がかかわり、経験するもので、21世紀においては日常的な問題になってくると思います。
ここで問題となるのは、必要に応じたサービスのシステムをどのように築き上げるかということです。そして、在宅ケアを中心として、地域を軸とする福祉体制をどのように構築するかが、いま、大きな課題になっているのです。そのような意味でも、この5回にわたる高齢者のシンポジウムで在宅ケアの問題を中心に取り上げてきたことは、きわめて適切なことだと思います。
わが国の公的なサービスでは、夜中に起こる問題に対処しきれないのが現状です。土曜、休日のサービスについても、フォーマルなサービスは対応できないわけです。つまり、いまのシステムは住民自身のほんとうのケアニーズにこたえていないということです。365日、24時間対応の体制を、地域や在宅で構築するためには、従来のような仕組みでは到底不可能です。さらに、利用者1人ひとりの多様なニーズに対応できるサービスが用意されなければなりません。このような観点からみていくと、現状に対する厳しい反省、批判を踏まえて、社会サービスとしてのケアシステムを構築し直す必要があるのではないでしょうか。
次に、ケアの仕組みに関する問題があります。在宅と施設のケアがばらばらではなく、連続したものでなければならないことです。365日対応できるケアを行うには、フォーマルなサービスをできる限り地域に整備すると同時に、それを支える地域のケアシステムが必要になってきます。つまり、インフオーマルなサポート・ネットワーク、ケアについての住民の参加や協力の必要性が生じてくるのです。実は、この公的なケアサービスの問題については、新ゴールドプランなどでも計画されていますが、量的にはまだ非常に薄いのが現状です。
われわれは、インフォーマルなサポート・ネットワークにもっと注視する必要があります。これまでは、家族、なかでも女性の犠牲のうえにケアが行われてきたのですが、今後は期待できるわけではありません。そのなかで、家族の果たせる役割をもう一度検討しなければならないのです。同時に、家族のケアをサポートする形で、地域がどのようにかかわりをもつのかを改めて問い直さなければならないのです。つまり、ケアを中心とするコミュニティを全員で検討すべき時期に入ったのではないかと思います。
以上、問題提起として、フォーマルな形としての社会サービスの構築、またそれを支えるインフォーマルな新しいコミュニティの形成を提案したいと思います。
【日野原】どうもありがとうございました。短い時間内に非常に多くの内容をご発言いただきました。
三浦文夫
では、次に若月俊一先生をご紹介します。先生は、1936年に東京帝国大学医学部をご卒業後、長野県の佐久病院外科医長として赴任されました。そして、農村医学のメッカとしての佐久総合病院をつくり上げられました。長い間、地域のなかで医療システムを実験的につくられ、いま高い評価を受けられています。
先生、どうぞよろしくお願いいたします。
【若月】私は、もう50年近く長野県の山の中の病院に勤めていることから、私の視野は狭いかもしれません。しかし、いま、三浦先生のお話を同感に思いながら聞いていました。結局、都市、農村の地域を問わず、どのようにコミュニティをつくっていくかがこの問題解決の大きな課題になるのではないでしょうか。これには、政治的、経済的な関係もありましょうが、その原動力となるのはやはり地域の住民の自主性なのです。
私の病院は信州の山の中にあり、ベッド数1,000の地域の中核病院といえます。そこで接してきた農村のお年寄りの気持ちを率直に話してみたいと思います。
高齢化という現実は、都市よりも農村のほうが厳しいことはご存じのとおりです。農村は若い人がすべて都会へ行き、総人口が減り年寄りだけが増えています。私の地域でも老齢化指数が25%を超している村がいくつかあります。4人に1人が高齢者という現実からみても、高齢社会の問題は「農村の問題」といってもよいほどです。
医者の立場からいえば、高齢者にもノーマルな生活をさせることが基本であることから、主流はどうしても在宅ケアということになりましょう。ただ、都市と農村では高齢者を取り巻く生活環境が大きく違います。近年、農村でも「核家族化」が進み、これまでのファミリーケアではない、都会的なマイホームのケアもみられますが、農村では、やはり主としてお嫁さんを中心とした3世代家族が面倒をみている場合が多いのです。北欧のようなマイホームケア形態の場合には、当然ホームヘルパーの質や量の問題がありますが、日本の農村のお嫁さん中心の場合にも、経済面などから共働きのケースが多く、種々問題があります。
そのような意味で、三浦先生が話されたように、在宅ケアの充実を図るにはコミュニティケアを考えなければならないのです。コミュニティケアとはどのようなもので、日本のコミュニティケアはどうあるべきか。これはなかなか難しい問題です。たとえば農家の場合、生活自体がとてもたいへんで、子どもの面倒さえ十分にみられないのが実状です。いじめの問題、あるいは子どもの登校拒否の問題などは、いまは都会より農村のほうがひどいくらいです。このような状況では、お年寄りをたいせつにするにしても、お年寄り自身が積極的に生きていこうという考えをもってくれなければ困ります。
そこで、自分の病院だけというような小さな視野などではない、コミュニティケアのネットワークづくりが重要になってきます。
若月俊一
いまの日本のルーラルコミュニティでは、民間、行政とも必ずしもうまくいっていません。最近、コミュニティメディスンやコミュニティケアという言葉がよく医者の間で使われていますが、まず、コミュニティとは本来何であるのかをよく理解しなければいけないのです。コミュニティとミュニシパリティとの区別さえはっきりしていない。したがって「住民参加」の精神がまだ十分ではないのです。日本では、まだ住民のなかにその認識が十分ではないのですが、それを理解してもらうために、いろいろと啓蒙し、実行することが、私どもの大きな任務だと思っています。
【日野原】どうもありがとうございました。次に、島田妙子さんをご紹介いたします。
島田さんは、兵庫県西宮市の小学校の養護教論を経て、東村山市にある東京白十字病院の看護部長として昨年まで勤務され、施設の看護と地域の訪問看護のパイオニアとしての実績をもたれています。その実績を踏まえて、昨年の4月から、仙台の特別養護老人ホーム「シオンの園」の園長として、新しい老人ホームの経営管理、看護、介護の指導を実践されています。今日は、その実践活動を通してのいろいろな発言をいただけると思います。よろしくお願いします。
【島田】私は、昨年3月まで、老人保健法による訪問看護指導事業に23年間従事してきました。東村山市では、昭和46年、全国で初めての事業として、自治体による寝たきり老人の訪問看護事業を始めました。その後、この実績が認められ、束村山市に準じた政策を実施する市町村が出てきたこともあって、東京都では寝たきり老人の訪問看護事業に対して補助金が出ることになりました。そして昭和58年には、皆さんご存じのように、国が老人保健法を制定して、老人の訪問看護指導事業が全国に定着したのです。
この事業が、わずか11年ほどの間に市町村から国の制度になっていった背景には、非常に早い高齢化があり、同時に、それに伴う問題が表面化してきたことがあるのではないかと思います。そして、平成になってからは、訪問看護制度はさらに発展し、老人訪問看護ステーションという、看護職がリーダーになり老人の訪問看護を実施することにつながっていきました。さらに、社会保険診療報酬、いわゆる健康保険で訪問看護が受けられる時代に発展してきました。
これまで、看護婦は、専門職だといいながら、実際には患者さんのところへ出かけていくのではなく、診療所や病院を訪れる患者さんのケアが仕事の領域となっていました。私は、これをたいへん不思議なことと感じており、これが訪問看護を始めるきっかけにもなったのです。看護とは、単に疾病治療に関与するだけではなく、地域住民の生活のなかで、健康維持、よりよい生活の援助に関与することではないかと思います。また、訪問看護が発展してきたことは、高齢者問題が、単に医療、治療だけではなく、もっと奥深い問題としてかかわっていると思います。
島田妙子
私は、23年間の訪問看護で、1,000人近い人たちの在宅ケアにかかわってきました。そして、施設中心から在宅中心の時代に、私は施設ケアに職場を変えました。私自身は、在宅ケアの延長線上に特別養護老人ホームなどの施設ケアがあるべきではないかと思っています。そして、在宅・施設の両方のケアを通して切実に感じることは、われわれが歳をとったとき、どこで自分らしく生活すればよいのだろうかということです。
老人ホームで痴呆のお年寄りとかかわりながら思うことは、ぼけたくない、ぼける前に死にたいということよりも、ぼけても安心して生活ができるケアシステムと人材の育成が必要ではないかということです。ぼけることを外からみていると、ああはなりたくはないと思うのですが、ぼけている人たちにとっては、この人とならば毎日が心安らかに楽しく過ごせると思えることがたいせつです。そして、そのようなケアシステムづくりが必要だと思っています。
【紀伊國】ありがとうございました。この国際シンポジウムの第1回のテーマは、「不安なき高齢化社会をめざして」でした。まさにお話しのとおりだと思います。
次に、金子郁容先生をご紹介します。先生は現在、慶応義塾大学大学院の政策・メディア研究科の教授で、もともとは数学のご専門だったのですが・いまはネットワークの組織論を展開されています。また、「末廣ハウス」という非営利組織の運営やご執筆活動など、たいへんユニークで幅広い活動をされています。では金子先生、お願いします。
【金子】専門家の先生方がたくさんおられるなかで、私は、「高齢者ケアの将来」という観点とは少し違うかもしれませんが、分野以外の視点として、最初に小さな経験談をお話ししたいと思います。
専門外の私からみると、福祉や高齢者問題は、強さ対弱さという文脈で語られることが多いように思います。行政指導にしても、強い者が弱い者を保護する図式で、その保護の度合いやあり方ばかりが問題視される傾向にあるようです。もちろん、保護することも重要ではありますが、それだけでは物事は解決しません。福祉にはなにか暗いイメージがあるのは、この保護の図式があるからではないかと思われます。一方、福祉も自由競争で、おのおのが工夫して勝手に解決しろという考えもあります。しかし、これだけでもまた状況は改善されません。
たとえば、保育問題にしても、その経費は国が負担するのか、民営が担うのかという2つの軸しかないとすれば、結局は保護をするか、しないか、あるいは保護はいらないから勝手にどうぞというような、どちらかの選択しかできないわけで、これでは問題はなかなか解決しないと思います。
さて、それでは、第3の選択肢としてなにか考えられるか。一言でいえば、ある種の弱さのなかから成果を導くこと、つまり新しい価値を発見することにあるのではないかと思います。
数年前まで私は、1週間に1度、日本にいる外国人の電話相談のボランティア活動をしていました。そこにはいろいろな電話がかかってきます。たとえば、成田に着いたが東京都内にこられないとか、電車のなかに濡れたジョギングパンツを忘れた、六本木のゲイバーの電話番号を教えてくれ、などです。そのなかで最も多いのが、アパートを追い出されたが次のアパートがなかなか見つからないという相談でした。
たとえば、日本人でも地方から東京に出てきてアパート探しをする場合、まず知り合いに聞きます。そして新聞のチラシや情報雑誌で探します。自分の条件にあったところがなければ、より大きなデータベースで探すことになるわけです。すべての物件が登録されているようなネットワークで探し、それでもなければあきらめるというように、だんだんと大きく強いもので問題を解決しようとするわけです。しかし、外国人の電話相談を聞いていると、それでは問題が解決されないことが常にあります。
まず、日本には保証人制度があるわけです。これは日本人は当たり前だと思っていますが、世界的にみると非常にユニークな制度で、敷金を払っているのに、何で保証人が必要なのかと外国人は思うのです。そして礼金制度も日本にしかありません。しかも法律にも書いていない。敷金も家賃ももちろん払い、しかも身分証明書を提示して、それでまだ礼金と保証人が必要という制度は、普段われわれは気がつかないが、非常におかしなことなのです。
外国人にとっては、保証人が必要だということは理解できないことで、そうすると、いくら大きなデータベースを用いてもだめなわけです。日本の社会では、40歳になっても親の実印が必要な状況があります。実印というのもなかなか英語に訳しにくいのですが、いつまでも親に頼らざるをえない状況があるのも事実です。そうすると、たとえば、礼金を払いたくない外国人は、部屋を借りるなと考えるのかという問題が起こってきます。ここに新しい発見があり、直面した問題を面倒とみるか、それとも、そういえばそうだと考えるのか。これによって対応が違ってくると思います。
3年前に実際にあった非常におもしろい例ですが、バブルがはじけて、広尾のあるアパートの広告に、「外国人、礼金なし」というのがでました。日本人は礼金が必要、外国人は不要ということです。そこは非常に高いアパートなので、われわれが電話相談を受けているような学生やお金のない人ではなく、エグゼクティブ・クラスの人が入居するのですが、いつも「礼金、どうして?こんなもの払わないよ」といわれて面倒なので「外国人、礼金なし」となったのでしょう。しかしこれは完全な逆差別です。しかも日本語で書かれているのですから、いったいどうなっているのかと思った記憶があります。
要するに、外国人は日本の風習に従うべきだと考えていると、逆に自分も困ったことになるということです。外国人の相談を受けていると、こういった物事の発見、つまり、強いもので問題を解決するのではなく、日本人とは違った見方もあることがわかるのです。そして、世の中の仕組みが変わるかもしれないという可能性をそこに感じるのです。事情も知らない、保証人もいない、礼金も払いたくないという外国人のある種の弱い状況に、日本人のボランティアとしてかかわることによって、新しいことが起こるかもしれない可能性です。
先日、ある県庁の人と話をしたとき、県の不動産協会等と共同して、県内に住む外国人のために保証人のいらない制度をつくっていこうという話になりました。もし、このように行政を動かすきっかけになるとすれば、外国人の情報のなさや事情を知らないという弱さが、実は世の中に役立つことになり、「外国人は面倒くさいから部屋は貸さない」ではなく、もう少し積極的にかかわりをもとうということになるかもしれないのです。
しかし、これはなかなか難しいことで、だれがそのきっかけをつくって継続させていくかと考えると、これまでお話があったコミュニティの力が必要なのではないかと思います。もちろん最終的には制度化したほうがよいのですが、個人や会社が行うのではなく、行政が規則で縛りつけるのでもなく、コミュニティがそれを支えていける状況がたいせつなのです。逆にいえば、コミュニティとは、そういった力をもり立て継続させることにあるのではないかと思います。そして、このコミュニティの力は、福祉だけではなく、情報社会をつくることや、ほかのあらゆる力を生み出していくものと思っています。私の非常に小さな個人的経験から、高齢者問題にも、弱さと強さを超えたものがあるのではないかということをお話ししました。
【紀伊國】ありがとうございました。それでは最後に、防衛医科大学校リハビリテーション部助教授、石神重信先生をご紹介します。石神先生は、執筆活動や大学で教えておられるだけではなく、脳卒中のリハビリテーションでは最も有名な鹿教場温泉病院のリハビリテーション部長もなさっており、理論と実践の両方の活動をされています。それではよろしくお願いします。
金子郁容
【石神】これまでずっと次元の高いお話で、私のような職人がお話しするのは少してらいがあります。リハビリテーション医療の現場からのお話をということですが、実は、リハビリテーションの医者として私は非常に腕がいいのです。しかし、口が悪いことが非常に問題で、医者も最近はピストルで撃たれるような時代ですから、あまり大きなことはいえないのですが。
リハビリテーション医学は非常に誤解されているところがあり、日本ではまだ定着していません。私は、7年半ほどアメリカに行き、そして習ったことを実践しているのですが、リハビリテーションが普及していない現状で、誤解されている点も多い。この点について少し触れておきたいと思います。
まず、午前中の話にもありましたが、リハビリテーションが充実すれば寝たきりは救われるなどと思ってもらっては困るのです。医療のなかで寝たきり老人がたくさんいるのは現実ですが、結局、医療が寝たきりをつくっているところもあります。たとえば、アメリカでは、脳卒中などの発症後、1日か2日目から治療を始め、3〜4週間の入院期間です。私もアメリカ流なのですが、日本では「3〜4週間はゆっくりでいい。じいちゃん、だから、ゆっくり養生しょうよ」ということで、ゆっくリ寝かせてさらに動かないような状態にしている。つまり、リハビリテーションが医療のなかで確立していないのは、このような状況が背景にあるからなのです。
また、リハビリテーションは、理学療法士や作業療法士などのセラピストが訓練を行うものだと思っている人が多いのです。日本の看護者やヘルパーにはこのような誤解があり、「だから私たちは関係ない、またやる必要がない」という責任逃れや他人任せのケアになってしまっています。結局、ケアのなかにリハビリテーションの技術が入っていないのが現実なのです。
外国の医療や施設に比べて、機械や建物などのハード面は日本のほうがよくなってきました。しかし、肝心のケアといったソフト面にいちばんの欠落があるのではないかと私は考えています。私はあえてここでいいたい。高齢者ケアを実践している人たちのなかに、どれだけほんとうに老人のケアのことを知っている人がいるのだろうかと。
私は54歳になるのですが、30歳のとき、50,60というと年寄りのイメージがありました。その人たちに「うるさい年寄りだ」などといっていましたが、いま54歳の私は、歳をとったと思っていないのです。「なんだ、この若いやつら、ふざけたことをいうな。腕でこいと」と思っているのです。きっと60,70になっても同じように考えているでしょう。日野原先生や若月先生も、決して自分は歳をとっていると思っていないと思います。つまり、高齢になっても、1人で生活できる実力や覇気をもつぐらいの老人層を育てていかなければいけないのではないでしょうか。
先ほどもいいましたが、脳卒中を起こしたときに「ばあちゃん、今度脳卒中になったら寝たきりになりたいかね」と聞くと、みんな「ぽっくり死にたい」といいます。そこで「ぽっくり死ぬには、しっかり運動をしないといけない」といって、リハビリを行うのです。「ここまで苦労してきたのだから、ゆっくり寝ていてよい」などというのではなく、言葉は悪いですが、病気になったら壊れた中古車と同じように、休ませないでどんどん運動させて、最後まで自立を目標に努力させ続けなければいけないのです。
現在は、私の大学では、90歳以上で肺の手術を行ったりします。そのときには、手術前から患者を鍛えて、手術後、集中訓練室でリハビリを行っています。このように、皆さんが考えるほど、リハビリはのんびりしたものではなく、本来は非常に激しいものなのです。しかし、リハビリテーションは医療のなかでほかの分野から独立した分野であるにもかかわらず、大学や大病院でもリハビリが確立していないのが現実です。そこをもう少し世論がわれわれをバックアップしてください。
私は、老人のケアに携わる人たちがリハビリの実践者として、お年寄りをたいせつに、お年寄りに愛をなどとかけ声だけはいわないでほしいと思います。プロとして根底の論理だけをいうのではなく、そこに伴う技術があって初めてプロといえるのだと考えています。どうか、ケアのプロとしての自覚をもち、実践を行ってください。
なにができないかを考えるのではなく、なにができるか、どのような機能を引き出すのかを考えることがリハビリのいちばんの根本なのです。そして、技術と知識が伴って初めて、リハビリテーションのケアが可能となるのです。私はいまこそ、ビジョンとしてもっと本質的に技能を磨いてほしいといいたい。それが、私の意見です。
【紀伊國】高齢者ケアのビジョン、ケアの中心は、リハビリにあるということですね。そのとおりだと思います。
さて、それでは、1人1分以内という制限で質問を受け付けたいと思います。
【質問】高齢者ケアの問題には、終局的にはコミュニティに関する問題が出てくると思います。日本では、地域という目でみた場合、私どもの世代ではどうも向こう三軒両隣りをイメージして否定的になってしまいます。民族などという言葉が出ると、「なんだ、あいつは軍国主義じゃないか」となってしまい、いまの高齢化社会の基盤となるものは、いったい何なのだろうかと考えてしまいます。私自身は、まず自立がべースにあって、それができない人には、地域、市町村、国の支援がある制度が必要だと思いますが、これは縦の支援系列で、横の系列としては、やはり地域内で自分たちが行動を起こさなけれぱいけないのです。しかし、お葬式のときは大丈夫だが、ケアの問題については、プライバシーがあるから気が進まないといった地域内の二律背反は果たして成り立つのでしょうか。
【紀伊國】それでは、いまの地域とケアの問題について、若月先生のお考えをお聞かせてください。
【若月】これはたいへん難しい問題で、私にとっても一生の仕事になると思うのですが、地域社会にケアを根づかせるにあたって、ケアとはなにか、特にお年寄りにとって、その面倒をみるとはどういうことかを真剣に考えなければなりません。社会学でいえば、地域社会とは、行政の基本としての自治体が主ですが、しかし現在は、俗に「三割自治」という言葉もあるように、ほんとうの自治ではないというところに大きな問題があるのです。
石神重信
コミュニティを取り巻くもののなかに、自治体のような行政責任をもつところと、アソシエーションとして、私どものような農業協同組合や企業や学校などがあるのですが、企業も自分だけが儲けるのではなく、新しい社会感覚で地域に貢献していく必要があると思います。そしてもう1つは、ご近所、ネイバフッドです。これには医者が大きくかかわってきますが、こういった民間的なものと行政的なものがいっしょになって力を合わせていかなければならない。ところが実際にはこれがなかなかうまくいかないのが現状なのです。住民に参加の精神がまだないからです。
また、われわれは高齢者の面倒をみる、「介護する」という言葉を使いますが、ケアとは元来が社会的な仕事だという認識をもたなければならない。高齢者自身も面倒を受けるだけではない、もっと積極的ななにかをもたなければならないと思います。その感覚があるかどうか、それにはどのようにすればよいのか。それは多面的なネットワークづくりが必要です。いずれにしても長い時間がかかる仕事だと思っています。
【紀伊國】金子先生、いかがでしょう。
【金子】いま、アメリカでは、ゴア副大統領が中心になって、情報スーパーハイウェイ構想の下に、非常な勢いで光ファイバーを引いています。日本でも、通産省や郵政省で盛んに議論されていますが、まずハードウェア面では、日本はアメリカに比べて非常に遅れています。次に、先ほど石神先生も強調されたソフトウェアに関しては、日本は確かに遅れているのですが、それだけの問題ではないと思えるのです。つまり、ハードウェアでもソフトウェアでも、やはりそれをサポートするもの、コミュニティが必要だということです。1人で物事を進めるのではなく、それを支援する環境、コミュニティが必要ではないかと思います。
ですから、ハード、ソフトの下に、ある種のコミュニティ、もり立てる力がなければいけない。そして、個人レベルで考えるのではなく、橋や道路などの社会資本と同様に、コンピュータや通信といった新社会資本、ソーシャル・キャピタルとしてとらえることがたいせつです。コミュニティづくりは個人の善意ではなく、投資の対象だと考えることが必要ではないでしょうか。向こう三軒両隣りがみんなで仲よく支え合えることは、結果としてはよいことではあるのですが、コミュニティには、やはり企業や国や個人が、サポートすることを投資の対象として参加することが必要なのです。
実はこの考え方は、意外といろいろなところで起こっているのです。その成果を示すためにも、「とにかくいいことをやっているのだからいい」「忙しくなったらやめてしまおう」ということではなく、自分がなにをやりたいか、周りではなにが起こっているのかをしっかりと見極めて、みんなのためになるのだからお金を投入するというように、投資の対象として知恵も同時に投入していくことがたいせつなのです。
このように考えると、コミュニティづくりは単なる地域だけの問題ではなく、世界中のネットワークの上に成り立つような気がします。われわれは、これをどのようにとらえてコミュニティづくりを行っていくかが今後の重要な問題になってくると思います。
【紀伊國】ありがとうございました。三浦先生は、社会サービスにケアシステムを構築しなければならないと話されましたが、それとコミュニティとは相通ずるものでしょうか。
【三浦】もちろん、インフォーマル・ネットワークをつくるには、その基盤としてやはりコミュニティが必要です。しかし、ご指摘があったように、従来あった共同体としてのコミュニティは、いわゆる近代化、産業化のなかでほとんど崩壊しているのです。また日本の場合には、向こう三軒両隣りなどと軍国主義の産物のようなところがあり、それに触れること自体が逆コースと受け止められて、むしろ個の確立のほうに流れがあったと思います。ちょうど高齢化が産業化の逆説であるのと同じように、実はそのこと自体がいままさしく問われてきているのではないかと思います。これからの高齢化を支えていくには、とにかくフォーマルな形のサービスをもっと重厚なものにしなければならないと私は思っています。
同時に、いくらフォーマルなサービスを充実させても、ケアの問題はそれだけでは支え切れないものです。そのためには、どうしてもインフォーマルな対処が必要になります。そして、これまで支えてきた家族に代わるべきものと考えた場合、やはり地域、コミュニティという形のものを考えざるをえないのです。ケアの問題には、もう一度コミュニティの意味をみんなで考え直してみることが重要だと思います。
【紀伊國】アナセン先生、これまでの発言をお聞きになって、高齢者ケアのためのコミュニティに関してどのようにお考えでしょうか。
【アナセン】よくある誤解なのですが、北欧では、公共のセクター、白治体がすべての高齢者ケアの責任を担ってくれると考えられがちなのです。それは誤解で、公共セクターの責任は枠組みをつくることだけで、民間人、高齢者白身や身内の人たち、ボランティアがそこに参加することが必要なわけです。そしてすべてが地域のレベル、近隣の人たちによって行われます。つまり、それがコミュニティです。北欧では、フォーマルなセクターとインフォーマルなセクターを区別するのは難しく、両方ともが協力し合うことがコミュニティの形になり、地域レベルで高齢者ケアを行う仕組みになっています。
【紀伊國】会場にいらっしゃる大谷先生、これまでの発言をお聞きになっていかがでしょうか。
【大谷】私は、日本のコミュニティづくりには、非常に間違いが起こりやすいことを心配するのです。私自身も在宅ケアを推進しているのですが、日本の場合、コミュニティをつくることと、コミュニティでのケアシステムを構築することは、分けて考えるべきではないかと思っています。
なぜかといえば、特に日本の農村では、家族や地縁がたいへん煩わしく、それはいい面に働くこともあるのですが、むしろ悪い面が多く、家族や地縁だけで個々の老人のケアを担うことは不可能ではないかと思うからです。
ベンド・R・アナセン
つまり、コミュニティで在宅ケアが可能になるシステム、医療と福祉のシステムをほんとうに構築することができるかどうかということです。しかも、現状では、わずかな訪問看護ステーションでそれをカバーすることはできない。そのような意味で、システムをつくらなければならないのはもちろんなのですが、コミュニティというあいまいな言葉で、いわゆる地縁とシステムづくりをいっしょに考えていると、
日本の場合には弊害が起こると思います。厚生省などでもコミュニティという言葉が使われますが、その点をはっきりさせてもらいたいのです。
私は、すべてを公的なもので行えといっているわけではありません。当然、インフォーマルなものの努力も必要なのですが、日本には、地縁、家族縁という陰湿なものが存在し、基本的に公的なものの認識が非常に遅れているので、単純にコミュニティづくりだけをとらえていると誤解が起こるのではないかと思います。
もう1つ重要なことは、高齢者の自由度をある程度認める必要があることです。石神先生のお考えとは逆の立場になるのですが、私は先生の病院には入りたくない。自分が寝たいと思えば、寝たきりになってもいいと思うのです。もちろん、無理に医療で寝かせたきりにするのはよくないことですが、高齢者にも選択の自由が必要なのです。
【紀伊國】やはり高齢者ケアのビジョンの結論の1つとして、高齢者をマスとしてとらえるのではなく、個人の尊厳を考えるべきです。そのためにはたくさんの選択肢を用意して、選べる自由を保証することがたいせつなのですが、日本ではこの部分が足りない気がします。
【質問】いま、福祉分野で国から自治体への権限委譲、地方分権化が進められていますが、今後のコミュニティを考えたときに、自治体、市町村から地域への権限委譲が問題になると思います。その将来的な展望をどのようにお考えでしょうか。たとえば、私は、デイセンターなどの地域の拠点づくりが、中学校区または小学校区にほしいと思っている1人なのですが、北欧のケースのように、地域のコーディネーターが医療やヘルパーについてコーディネートしていく段階で、その決定権が地域拠点になければ自由に動けなくなると思うのです。将来的に、市町村や自治体から地域にどのように権限が委譲されていくのか、お考えをお聞かせください。
【紀伊國】ダートランド先生、自治体の権限が、ほんとうの意味での草の根レベルに委譲されるにはどのようにすればよいのか、先生のお考えをお聞かせください。
【ダートランド】ノルウェーの場合、日本とは事情がまったく違うことから適切なお答えをすることはできません。自治体といっても、5,000人以下の非常に小さな単位なので、相互の意見交換やコミュニケーション、権限委譲も非常にやりやすい状況になっているのです。大都市でも、より小さな単位まで権限を委譲して、現場の人たちが決断できる環境をつくろうとしています。ただ、単位が大きければ大きいほど問題は拡大していくことは確かだといえます。
シュベイン・O・ダートランド
【紀伊國】伊東さん、いかがですか。
【伊東】高齢者福祉の自治体内における分権化は、おそらく北欧ではデンマークが最も進んでいると思います。ロタ・ピーターセンさんはご自分の自治体の実験を話されましたが、たとえば、私の知っている人口6万人程度のデンマークの市では、6つの地域に分けて、それぞれに福祉事務所のようなものを設置しています。
かつては、特別養護老人ホームにあたる施設があり、そのほかに在宅ケア、24時間ケアがあったのですが、現在は、それらを統合した制度のなかで、作業療法、理学療法、デイセンター、補助器具といったものをそれぞれの地域に分配し、地域の主任レベル、訪問看護婦が現場で決めていくシステムになっています。以前は、すべての問題を役場に書類申請していたのですが、その無駄を省いて地域に分権化しているのです。
コミュニティの問題について、アナセン教授が先ほどご説明されたことに付け加えると、デンマークの場合、地域の上に位置するものとして市役所があります。これはノルウェーもスウェーデンも同じなのですが、市役所がコミュニティになっているのです。日本では行政とコミュニティは別と考えられているのですが、北欧では、コミュニティに住む市民全体が主権者であり、その人たちの意見が反映されるのが市議会であり、市議会の下に役場があるという主権在民の認識でコミュニティはとらえられています。
また、住民たちの市税だけでケアが行われています。補助金などの申請はいっさいありません。だからこそ、市民の民意がそこに色濃く反映されているのです。実際のケアにあたる人たちも市民の税金で雇われているので、市民の仲間という意識があり、フォーマルとインフォーマルがうまく1つになっています。現在はさらに、より住民に密着し、清足してもらえるように民主的な連営がなされており、同時に、合理的な資源活用が追求されています。
【質問】ゴールドプランづくりのために、各市町村ではコンサルタント会社などに依存している話を耳にしますが、これは非常に危惧すべきことです。また、自治体は、自分のところに専門家がいないと、まず県に聞く、それでわからなければ国に聞くというように、お茶を濁した対策しかしていない気がします。本来ならば、今日ご出席の先生方のような意見に耳を傾けて、自治体の政策を盛り上げていかなければならないと思うのです。
これは実は、先ほどのコミュニケーションの問題とも関係があるのですが、私ども住民も、自分の市町村のゴールドプランをどれだけ詳しく理解しているでしょうか。役所が悪いというだけではなく、われわれ自身も自覚が足りないと思います。われわれももっと勉強し、知恵、汗、お金を出そうという原点に戻らないといけない。最近は、全員が批評家になってしまい、中傷は上手になったのですが。金子先生、ご意見をおうかがいしたいのですが。
伊東敬文
【紀伊國】確かに、老人保健福祉計画は3,300の市町村がつくったことになっていますが、その中身についてのご指摘は正しいものがあると思います。金子先生、ご指名がありましたが、いかがですか。
【金子】そのとおりだと思います。それに関連して、たとえば郵便貯金の利子の一部がNG0の活動費になったり、歳末助け合い運動の寄付など、そのプロセスがよくわからないことがあります。そういう意味では、ほんとうにその問題にかかわる当事者が参加することはたいせつなのです。ただし、これまでのように個々のエゴが出る当事者参加では、コミュニティづくりを考えるときに調整ができません。デンマークやスウェーデンではどのように対処しているのかは知りませんが、自分のエゴを超えたレベルで参加して、広い視野で物事を進めるシステムづくりの段階にきていると思います。
【紀伊國】島田さん、いかがでしょうか。
【島田】参考になるかどうかわからない経験談ですが、東村山市では、民間主導の老人保健福祉事業を行っていました。最初は医師会が朝日生命財団から研究費をいただいて、医師ではない1人の優秀な方がコーディネーターとなって、まず3つの町で調査・ニーズの掘り起こし、訪問活動を実験的に行い、それを全市に広げていったという事業なのです。それにかかわる人たちはみんなボランティアで、医師会、歯科医師会、薬剤師会、農協婦人部、社会福祉協議会の地域の民生委員の方たち、市内の老人施設の代表、ボランティアグループの代表と、ありとあらゆる人たちの代表を集めて、年に2回、実行委員会をもちました。
そこで、まず自分たちの仕事を紹介しながら、それぞれが抱えている高齢者問題などを出し合うことで、お互いの仕事の中身がわかり、互いが互いを上手に活用することが可能になったのです。最初、事務局は医師会にあったのですが、それを社会福祉協議会に移していろいろなコーディネートを行い、そこに行けばあらゆる老人の情報を知ることができるシステムをつくったのです。そして、情報が知りたいとき、困った問題があるときはそこへ行って、その内容により、これは訪問看護、これは保健所というように相談先の振り分けをしてもらえるように活動したのです。
つまり、これは行政の責任であるとか、民間がやらなければならないということではなく、だれかが口火を切って、人を集めて、いいコーディネーターを使って全体に広げていくことがとてもたいせつなのです。また、私は主婦でなにもしたことがないからと遠慮するのではなく、みんなが平等な1票をもって発言するチャンスがあることが必要ではないかと思います。そのためには、その活動に協力してくれる人を見つける目をもつこともたいせつではないでしょうか。
【質問】高齢者ケアの最後の部分についての問題なので、若干飛躍があるかもしれませんが、福祉に携わる私たちの間でも、在宅死の問題がよく話題に出るのです。厚生省はかかりつけ医という問題を提起していますが、私の町でも、夜になると帰ってしまうお医者さんがいる状態で、もし最悪の事態が夜中に起こったらどうすればいいのでしょう。
先日、ある集まりで、監察医が処理しなければならない65歳以上の数が、非常に増えているというデータが示されました。死亡後24時間が過ぎた場合には、たとえかかりつけの医師がいても、死亡診断書は簡単には書いてもらえないという
ことで、高齢者の在宅ケアにとっては、このかかりつけ医の問題は非常に重要な課題になってくるのです。また、いまの研修医制度では、地域医療を直接研修する機会がないように聞いています。その点についてのお話がうかがえればと思います。
【紀伊國】私も実際に医学教育にかかわっていますので、短くお答えしますと、7年前の文部省による医学教育改善会議で、これから最も必要とされる分野として、第1にわれわれは高齢者の医療を取り上げたのです。そういった意味では、教育病院はあるけれども教育老人保健施設というものはなく、また地域の開業医のところで医師が訓練を受けることは非常に少ないのです。ただし、地域医療を研修させる試みは、まったくないわけではありません。もう1つの在宅死の問題については、日野原先生が最後のまとめでお答えになると思いますが、ほかの先生のお考えをお願いします。
【島田】私は多くの在宅死の方を見送りましたが、ほとんどの家族は「うちで看取ってよかった。病院に入院させなくてよかった」というのです。困ったときに支援してくれる人がいて、障害や苦労を乗り越えられたからこそ、家で亡くなった人のことを思い出すことができるということなのです。昨年、私のホーム内で3人の方が亡くなったのですが、その家族は亡くなるまでの数日間、夜を共に過ごして付き添っていました。つまり、施設にすべての面倒を押しつけるのではなく、また逆に、家族が全部を担うべきものではないと思うのです。
ホームで亡くなった方の家族は、それぞれに最期を共に過ごし看取れたことがとてもうれしかったと話してくれます。たとえば、入所前は自宅で何度も骨折していたが、ホームでは自由に歩き回ることができて、骨折もなく、無傷で最期が迎えられた。また、家事と介護の両方でいらいらした毎日を送ることもなく、最後の1週間をいっしょに過ごして、ほんとうにいい最期を見送ることができたというのです。
つまり、死に至るまでの段階では、当然医師によるさまざまなケアが必要なのですが、最期を迎えるにあたって、家族がどのようなケアをするか、また、私たちがどのようにサポートしていくかが重要だと思います。
【紀伊國】おっしゃるとおりです。アンドリュース先生、いかがでしょうか。
【アンドリュース】やはり高齢者ケアにおいては、新ゴールドプランのなかにも盛り込まれていると思うのですが、これからの対策が非常に重要だと思います。1960年代、70年代、オーストラリアの高齢者ケアのシステムは非常にひどい状態でした。
紀伊國献三
ナーシングホーム、老人ホームの入居基準は非常に厳しく、診断、治療に関しては医療に頼りきりで、それ以上のことはなにもなされていなかったのです。
しかし、その後急激な変化が起こりました。つまり、中央政府の役割、自治体の役割、そしてボランティア団体の役割が明確になってきたのです。たとえば、政府は、老人ホームのベッドの規定基準を改正し、それまでは70歳以上1,000人当たり100床だったものを、その100のうち40はナーシングホ一ムに、60はホステルに変えて、この規定を守らないと資金援助しないことを決めたのです。また、ナーシングホームではなくホステルを強調するとともに、コミュニティケアに柔軟性をもたせる方向性を打ち出しました。つまり、地方自治体や地域が基本的なサービスを提供することによって、施設入りの必要性を最小限にとどめたのです。
そして、このケアプログラムがどのように活用され、実際に行われているかを管理、監督する意味で、システマティックな評価法が全国的に導入されました。この評価法は、140に及ぶ高齢者ケアの評価チームによるもので、さまざまな分野に携わる人が、専門的な観点から、施設内のケア自体や、施設入りが必要かどうかをそのケースに応じて評価するものです。そして、ケアの質、床数、その成果の水準を設定し、住民や施設居住者の権利を重要視しているのです。つまりコミュニティのなかであれ、施設のなかであれ、対象者の考え方、権利を尊重するということです。このように、この10年の間にオーストラリアの高齢者ケアは抜本的に変貌したのですが、医療ケアの提供についても改善がみられ、かつてのように医療モデル・アプローチを強調することから、予防、健康増進、自助、リハビリを強調するように変化しています。
われわれは、文化や政治的な違いを乗り越えて、お互いの間違い、実績から多くを学ぶことが重要です。特に、日豪両国は、高齢者ケアの分野で互いに手を携えて、研究、教育、訓練、プログラムの実施や評価など多くの面でもっと交流を行うべきだと思います。
【日野原】アンドリュース先生がいわれたことに補足しますと、ホステルとはホテルのことではなく、若干の生活上の援助があるナーシングホームのことです。また、最近、日本とオーストラリアの共同研究は盛んになってきているのですが、在宅ケアの方向に進みつつあるオーストラリアの高齢者ケアの状況を、われわれはどのように学ぶかが問題だと思います。
【質問】私は、大学の教育学科で高齢者教育の講座を担当しているのですが、ここ数年、高齢者教育を受講する学生が非常に増えています。これは、ナースや福祉士を目指す者だけではなく、教育者として学校教育に携わろうと考えている学生も含まれており、若い人のなかにも高齢者ケアのビジョンづくりの気持ちがみられるのです。しかし、若い人たちが高齢者と実際に出会う場所が非常に少なく、高齢者との交わりをもてるような窓口をシステムとして築く必要があると思います。以前、ある老人ホームにボランティアとして活動したいといったところ、学生はあてにならないので遠慮してもらいたいといわれたことがあるのですが、今後は、施設としてもボランティアを受け入れる窓口を広げて、若者が高齢者ケアを考えるきっかけを盛り込んでいただければと思うのですが、いかがでしょうか。
ゲイリー・R・アンドリュース
【紀伊國】最近は、身体障害者の施設や高齢者の施設に、泊まりこみで研修させる大学が増えていますが、そのあたりを含めて、若月先生はどのようにお考えでしょうか。
【若月】これは今日の非常に重大な問題ですが、とにかく参加することに意味があるのではないでしょうか。私どものような山のなかの病院では、ボランティアとして、子育てがすんだお母ちゃんたちと他方若い学生さんが老人をケアしてくれるのですが、やはり年寄りに対する愛情がないと長続きしないようです。愛情が出てくると、最初は有償制のボランティアにしても、金銭面のことを乗り越えて一生懸命にケアに打ち込むようになります。ぼけたおばあちゃんから「ありがとうね」の一言をいわれて、胸を打たれ、夢中になってケアに精を出した学生さんを知っています。理屈じゃない、まったく人間的な行動です。そういう意味でも、ボランティアのチャンスをたくさんつくることが、病院や老人ホームの施設としても非常に重要だと痛感しています
。
私の病院では、農協の母ちゃんたちを集めてケア・ボランティアの専門的教育もしています。また、病院内の保健トレーニングセンターでは、ホームヘルパーの教育を行い、町と連携した「在宅ケア支援センター」では多くの人を集めて話し合いの場をもっています。これからは病院の医師も頭を切りかえて、このような社会的問題に対して積極性をもたなければいけないのではないでしょうか。そして、専門志向主義ではなく、プライマリーケアの重要性、住民教育の必要性をもっと認識しなければならないと思います。
【紀伊國】会場の皆さん方の施設では、若い人をどのように集められているのでしょうか。秘訣みたいなものはありませんか。
【参加者1】私は、浜松にある聖隷福祉事業団の教育機関に勤務しているのですが、私の高校では、お年寄りと接する、あるいはケアをすることを授業のカリキュラムとして組んでいます。そして、特養、障害者施設、老人保健施設などで、食事の介助、お散歩といったさまざまなケアを行っています。やはり、これからの高齢者ケアのビジョンづくりには、教育のなかでこのような制度を組み入れていくことが必要ではないでしょうか。
【参加者2】私の老人ホームでは、地域の高校生が第2土曜日の休みを利用してボランティアに来てくれています。確かに、ボランティアを受ける側としては、高校生にどのような手伝いをしてもらえばいいのかよくわからなかったのですが、われわれの心配をよそに、子どもたちは非常に熱心に、掃除や散歩の付き添いなどを1年近く継続して手伝ってくれています。そして、子どもたち自身も老人との触れ合いを通して非常に感銘を受けており、いい結果を生んでいます。
ロタ・ピーターセン
【紀伊國】ピーターセンさん、教育という問題に関していかがでしょうか。
【ピーターセン】デンマークでは、1991年に制定された教育法により、社会保健ケアに関する実地研修が制度化されました。具体的には、まず最初の1年間、16歳のときにプロのスタッフについて無給で訓練を受けます。この研修を無事におさめたあと、さらに1年間の教育を受けて社会ヘルパーの資格を得ることができ、ホームケアを担当することになります。そして、専門化を望む場合は、1年半の教育課程を経て社会保健介護士になることができ、その後、より専門的な段階へと進むことも可能なわけです。
つまり、この制度により、若い人も十分な教育・訓練を受けることで、老人ホームやナーシングホーム、あるいは在宅でも十分なケアを行うことができるようになるのです。これは、教育を受けて実際の仕事に携わり、また教育を受けてさらに専門性を深めるという、ステップ・バイ・ステップの教育方法で、高齢者のさまざまな状況に対応できるようになっています。
もちろん、日本と比較するのは難しいのですが、デンマークでは、一定の教育を受けなければケア任務を果たせないと考えられています。あまりに多くのボランティアの出入りがあると、高齢者、特に老人性痴呆症の人たちは混乱することがありますので、その継続性がとても重要になってくると思います。
【アナセン】付け加えますと、デンマークのこの教育制度では、基本的な教育を病院で受けなくても看護婦になれるということなのです。つまりプライマリーケアで基礎教育を受けることで資格が得られるということです。
【紀伊國】これからは、いろいろな観点から高齢者ケアを考えていかなければならないのですが、今後のビジョンについて、パネラーの先生方にお聞きしたいと思います。三浦先生からお願いします。
【三浦】まず、先ほどの分権化の問題についてですが、市町村からさらに地域に権限を移す場合、いまの在宅介護支援センターがその拠点となると考えていいと思います。現状としては、システム上の権限は福祉事務所に集中していて、それに関する権限を在宅介護支援センターに移すかどうかについては、これから議論しなければならないのですが、おそらく政策的には、在宅介護支援センターを中心に行い、分権化を図る方向が出てくるのではないでしょうか。
さて、高齢者ケアのビジョンを考える場合、その前提として、家族ケアの問題があります。先ほど、日本におけるコミュニティ問題についていろいろと意見が出されましたが、同じような意味で、家族ケアについても日本独特の状況があるわけです。外国の方にはわかりにくいのですが、日本では、親子、嫁という縦関係の家族形態のなかで実際のケアが行われています。特に私の世代は、子育てや介護は女房の仕事と考えがちで、配偶者として自分より先に死なれては困るという意識があるわけです。しかし、21世紀に向けて、これまでの家族ケアの形を依存できないことは明らかで、特に女性だけでは支え切れません。
私自身の経験談なのですが、母親の食事介助、特に排泄介助にはとても苦労しました。初めは逃げ回っていたのですが、2〜3回経験すると慣れてきて、やればできるということをこの歳になって実感しました。そういう意味では、男性自身も自ら介護問題を体験することが必要なのです。
そして、介護問題は可能な限り社会化していくべきなのですが、同時に、私たち自身は、家庭で支えていける部分をより追求しなければいけないと思います。つまり、日本的、アジア的な土壌にある家族ケアのすべてを社会サービスに転換することは難しく、西欧型のケア形態に進んでいくには、やはり時間がかかる気がするのです。今後の家族ケアのあり方としては、いままでのような形の一方的な負担、犠牲ではなく、どのようにそれを分かち合い、地域やコミュニティがどのような形で支えてい
けるかが重要になってくるのです。私たちは、この問題を本音で議論していく必要があると思います。
現在、65歳以上の老人との同居率は全国平均で57%、東京では47〜48%です。この同居率は、21世紀になっても、30%から40%は維持されると思うのですが、このあたりのことを十分に考慮しながら、いままでのような形の家族ケアに甘んじることなく、近隣の支え、公的なサポート問題をもう少し結び付けて考えていく必要があると感じています。日本的な立場から意見を申し上げました。
【紀伊國】日本的高齢者ケアの基本には、家族の重要性を考える必要があるというお話でしたが、ほかの先生方はいかがでしょうか。
【若月】高齢者問題、福祉について考える場合、われわれはすぐにスウェーデンやデンマークのことを連想するのですが、いまの三浦先生のお話にもありましたように、やはり日本と北欧では生活条件や社会的背景が違うのです。日本の自治体は縦割りで、保守制も強く、北欧のようなデモクラティゼーションは日本の現場にはまだ根付いていません。最近は、国も老人のケア間題を地域社会のテーマとして取り上げて、私たちもできる限りの協力をしているつもりなのですが、日本の特に農村では、デモクラティゼーション、シチズンシップがまだ確立していない面がみられ、たいへんなことだと思っています。
しかし、このような状況のなかでも、老人がほんとうの意味で「自立」し、ぼけても人権を主張できるような環境をつくらなければいけないのです。仕事柄、年中お年寄りと話し合い、コミュニケーションをもっているのですが、まず自分自身が楽しく行動しなければだめだと痛感しています。やはり、楽しくないものは嘘になり、継続性も生まれてこないのです。しかし、自分1人だけではできないことですから、「みんなで仲よく、優しく、楽しく」をモットーに、住民運動を一生懸命行っているつもりです。あせり、しかもあせらずの気持ちです。
【島田】私は「急がば回れ」という言葉が大好きなのですが、これは高齢者ケアについてもいえることだと思います。
先ほど、ケアを高等学校の授業のカリキュラムとしているお話がありましたが、私は、小学校の段階から老人に接する機会をつくらなければならないと思うのです。実際に私のホームでは、近くの小学生が施設を見学に来ます。この間は、生活科の授業として、2年生の子どもたちがホームに来て、車いすの押し方、畳み方を喜んで勉強していました。また、お年寄りにとっても、子どもの立っている高さと老人の車いすの高さが同じで、目と目が合う関係からか、非常に楽しい時を過ごしていたようです。
その前には、同じ小学校の4年生が、福祉の勉強ということで、事前に車いすの押し方や手のつなぎ方を学習したあとホームヘ来て、老人と2時間ばかりいっしょに過ごしたのですが、車いすを押して老人を部屋に連れていく作業を手伝ってもらいました。初めて老人に接したという子どもがほとんどだったのですが、お年寄りが喜んでくれてとても楽しかったと感想文に書いていました。また、あるときは、子どもが老人1人ずつに手紙を書いてもってきたのですが、それを読んだお年寄りが感激して、手紙を書いた子どもに「あなただったの。ありがとう」と喜んで礼をいうと、今度は子どものほうがとても感動して、定期的に手紙が来るようになったのです。
つまり、高校生での教育もたいせつなのですが、それ以前の段階、記憶が鮮明に残る時期に、老人ともっと身近に触れ合える機会をつくることが重要で、これが、高齢者ケアをより深く考え、身近なものとしてとらえられる人を育てることにつながるのではないかと思います。子どもたちにとっては1時間か2時間の経験ですが、非常に新しい感動を覚えるということで、高齢者ケアにも「急がば回れ」をたいせつにしたいと思うのです。
【金子】日本にはビジョンがないとよくいわれるのですが、特定のケースにはさまざまな素晴らしい考えがあります。今日ご出席の先生方もそれぞれのビジョンをお持ちだと思います。われわれに必要なのは、そういった個々のケースとビジョンをつなぐことではないかと思うのです。これは、先ほどアンドリュースさんがおっしゃったことと関連するのですが、たとえば、オーストラリアでの経験をなぜ日本が学び、生かせないのかということです
つまり、国民性、制度の違いばかりをいうのではなく、ましてや日本に市民性がないことを前提とするのではなく、実際に行動しながらそれらを構築していくことが必要で、そのためには、個々の知識や体験がどのようにビジョンにつながるかを考えることがたいせつなのです。あそこで起きたことをここでももり立ててやっていこうとする考え方、移植可能性を重要視すべきだと思います。
先ほど大谷さんは、情緒的なコミュニティ論よりもシステムづくりが必要だとおっしゃいました。確かにそのとおりで、システムが必要なことは当然なのですが、それだけでは問題は解決しないと思うのです。たとえば、東村山市でできたことがほかのところでは実現していません。また、東京のある地区では可能になったライフケアシステムにしても、ほかのところでは失敗、挫折している現状があるのです。これは、もちろんシステムの問題でもありますが、それを引き受ける人やもり立てる力、地域共同体の意味ではない社会的な力にまで、われわれは考えを及ぼさなければならないということなのです。
この問題の背景には、実はピープル・マネジメントの技術とかかわりがあるのかもしれません。島田さんのお話のように、たとえばケア教育として小学生を受け入れるというようなマネジメントの問題なのです。やり方はそれぞれのケースですべて違うのですが、面倒くさいから受け入れないということではなく、それをマネージする問題なのかもしれないのです。
日本における高齢者ケアの制度づくり、ビジョンづくりを、いったいだれがサポートするかと考えると、それはわれわれ自身しかいないわけです。もちろん行政や企業のサポートもあるのですが、それらを含めた形のサポートの仕方を追求していくことが重要なのです。そのもり立てる力が、実はコミュニティの力になっていくのではないでしょうか。
これは、福祉に関してだけではなく、現在の日本のさまざまな局面についてもあてはまることだと思います。われわれは、環境問題や海外援助の問題、情報社会の構築などについても、技術、情緒的にいえば心意気、かたくいえばシステマティックに物事をマネージする力を追求し、つくりあげていくことが必要なのです。それがコミュニティの力として実を結ぶことにつながると思います。
【石神】先生方のお話を聞いていて、コミュニティをつくることの重要性を私も痛感しているのですが、現場の人間としては、やはり私たちの能力には限界があり、おのおののケースで最大限の努力を傾けることしかできないと思うのです。先ほど金子先生のいわれたような、社会全体としての問題提起には、私たちは一市民として協力する立場にありたいと思います。
医療面だけをとらえた場合、日本の高齢者はいま非常に恵まれた状況にあるといえます。アメリカでは、1日に約10万円以上の入院費が必要で、そのような状況のなかで入院の短期化が図られ、在宅医療の必要性が叫ばれているのです。つまり、在宅医療のほうが、本人にとっても、社会にとっても効率的だということです。ところが、日本では、患者さんを家に帰す場合、家族が仕事をやめなければならない現実があります。また、入院させておけば、家族も行政もあまり手をかけなくてすむというところが現実なのです。厚生省は、ほんとうに在宅ケアを志向しているのかどうかと疑いたくなるのです。
在宅ケアに関しては、私は、福祉と医療は違うものだと考えています。医師はオールマイティーではないのですから、限界の線を明らかにして、できないことはもっとはっきりというべきだと思います。また、医師自身も職種としての価値観をよく考えなければいけません。つまり、在宅ケアの連営に関しては、在宅医と大学病院の医師を比べた場合、その経験から在宅医のほうが高い知識とレベルをもっているのです。このことを現場に携わる者のすべてが認識し、ケアの本質をしっかりとつかまえなければいけないと思います。最後に、リハビリテーションについて、先ほどの大谷先生の意見に対して一言いいたい。私自身もきついリハビリテーションを受けるよりぽっくりと死にたいと思います。しかし、寝たきりの老人に対して、「あなたは寝たきりのままでいいですか。それとも、起きてしっかり歩きたいですか」と聞くことは、いまの医療では、患者さんが選択できる状態にはありません。なぜかというと、「先生、自分はリハビリテーションをしたくない」と患者がいっても、「じゃあ座ってみよう、ちょっと起きてみよう、ほらできた」と、私たちはプロとして、寝たきりの人の起きる意欲をくみ出す努力をしているからです。実際に起きることができてから、初めて患者さんが選択をできる立場になるのではないでしょうか。その人が寝たきりを選択するのであれば、それはそれで1つの考え方です。わが国ではまだその状況までいっていないと思います。
現状では、私は21世紀の福祉のビジョンをあまり語れません。医療や福祉の現場をみると、自分たちがやらなければならないことをあまりにやっていなさすぎます。いま21世紀の福祉を語るとき、ケアに携わる職種が、皆、もっとプロとしての自覚と技術をもてるだけのしっかりとした教育の充実を図ることが重要です。
【紀伊國】積極的に多くの意見を出していただき、有意義な討議となりました。先生方、会場の皆さん、どうもありがとうございました。
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