日本財団 図書館


高齢者ケア国際シンポジウム
第4回(1993年) 高齢者のクオリティ・オブ・ライフ(QOL)


合同討議  高齢者のクオリティ・オブ・ライフ(QOL)


司会
日野原重明 聖路加看護大学学長
紀伊國献三 東京女子医科大学教授
パネリスト
モーナ・W・グスタフソン スウェーデン・高齢者ケアコンサルタント
李允淑 韓国・同徳女子大学校大学院院長
リス・ワグナー デンマーク・コペンハーゲン大学社会医学研究所主任研究員
熊本悦明 札幌医科大学泌尿器科教授
中島紀恵子 東日本学園大学看護福祉学部教授・学部長
長谷川和夫 聖マリアンナ医科大学学長
堀田力 弁護士・さわやか福祉推進センター所長

【紀伊國(司会)】ただいまから、まとめのパネルディスカッションを開催します。最初の、堀田先生は、検察庁特捜検事としてたいへん名高い方ですが、1991年に退職され、「さやわか福祉推進センター」を敢然と始められ、最近『再びの生きがい』という本を出版されました。ボランティア制度についての発言も積極的にお聞かせいただけるものと思っています。
それでは堀田先生、お願いいたします。
【堀田】第1点として「高齢者のクオリティ・オブ・ライフ(Quality of Life:QOL)」について私がどのように考えているのか。第2点は、それを踏まえて、どのようなことを行おうとしているのかの骨子だけをお話しさせていただきます。
まず「高齢者のQOL」といわれますが、QOLというのは、高齢者に限らず、子どもであろうと、実年であろうと、本質的には同じものではないかと思っています。それには2つの面があるのではないでしょうか。
1つは、自分の存在を全うするということがあります。簡単にいえば、自分がしたいと思うことを素直にできるということと思います。これが、お金がない、年金が少ない、だから普通の人ならできることができない、これはたいへんな不幸なことです。あるいは、性の問題が取り上げられていますが、愛し合いたいというときに、愛し合えない、いろいろなタブーがあるために、素直に自分の望みを達することができない。これも存在が全うされないということではないでしょうか。まず人間の基本として、自分の存在が全うされるようにすることがたいせつではないかと思います。
高齢者になると、経済面でも、その他の生き方の面でも、いろいろな昔からのタブーが強く残っており、不当に欠落あるいは抑圧されている面があります。これはとても、QOLがあるとはいえない。
もう1つは、自分の存在が全うされればそれでQOLは達成されるのかといえば、もう一面があるのではないかと思います。それは、自分の存在および存在の意義が確認されることです。
人は、自分がしたいこと、好きなことをしていれば、楽しい、満足するというのではなく、自分が生きていて、そのことによってほかの人たち、社会、家族が「あなたがいてくれてうれしい。よかった」「あなたがこのようなことをしてくれたことが非常にうれしい。ありがとう」と感謝されることによって、自分が生きてよかったと確認できることがたいせつなことではないかと思います。高齢者になると、社会がなかなか受け入れてくれない。その点、どのように高齢者が最後まで、自分の生きていて人に喜んでもらった、生きていることがよかったと感じられるようにすることができるか。この点が2番目の重要なことではないかと考えています。
そのような考えを踏まえ、どのようなことを行おうとしているかを簡単に話させていただきます。
抽象的にいえば、新しい触れ合いの社会を日本につくるということです。これは、日本が第2次世界大戦で敗れた後、廃墟のなかから経済復興を遂げるために、効率社会、競争社会、儲けることが絶対に重要だという社会、そのためには人を蹴落としてもよい、自分だけは儲けたいとの気持ちが出てきた。そのような社会のなかで、弱い人や困っている人に対して、思いやる、助け合っていく生き方を失ってしまった。社会がたいへんギスギスした冷たいものになってしまっている。それをもう一度プライバシーの尊重をしっかり踏まえたうえで、困っている者はお互いに助け合う。みんなで幸せになっていこうという社会にしていきたい。私はそのことを願っているのです。
ただ、抽象的にいっても、どうすればよいかが分からないことからいろいろな運動を行っています。しかし、いちばん大きいことは、これから訪れる高齢化社会に備え、日本中にお互いに困っているときに助け合う社会、特にひとり暮らしの高齢者を、精神面でも、家事の面でも、場合によっては介護の面などでも手を差し伸べて助け合うという組織を、高齢化がピークに入る20年後までに全国で5,000組織はつくりたいと思っているのです。この数は、中学校の2校区に1つぐらいの割合です。そこに1,200万人、日本の人口の1割程度が登録して、広く薄くでいいから、助け合いの活動をする。それだけの人たちが参加して、お互いに助け合っていくというやり方ができるように、運動を展開しています。
この運動は1つにはそのような組織を広める。民間のボランティア組織を広めるという面があります。
さらに、そのような組織に、いままで日本ではほとんど参加していない働いている人たち、サラリーマンやOLが参加する。あるいは、学生や生徒たちが参加する。その参加するような仕組みをつくる。この2つの面で、触れ合いの社会の核となる組織を広めていきたいと願って活動しています。
組織を広めるために、どのようにして組織をつくればよいかというマニュアルの作成やリーダーおよびこれからやろうという人々を集め、研修会を開催したりしています。
その1つの手段として、「触れ合い切符」のネットワーク化というものを提唱しています。これは、その組織に登録し、たとえば1時間なら1時間、ひとり暮らしの高齢者のところへ行って食事をつくってあげる、お掃除をしてあげるといった活動をすると、その1時間分を登録しておき、将来自分が困ったときにその切符を使ってその組織からしてもらう。あるいは、その切符を自分の両親に贈って、両親がその組織からしてもらうという制度です。このような組織が最近たいへんな勢いで増えており、現在150程度存在していると思います。
しかしいまは、お互いがばらばらに活動しているため、このネットワークを結び、どこででもそのような切符が使えるようにしようということも、組織を広める1つの手段として運動しています。
組織が大きくなると、どの人がどこに行って、どのようにすればよいのかを把握するためには、どうしてもコンピュータが必要となります。いま、コンピュータ会社にボランティアでソフトの開発をしていただいており、いずれはこのソフトを無料で各組織に提供したいと思っています。
これが組織を広めるための運動です。
そのような組織にサラリーマン、OLあるいは学生たちが入りやすくなるように、企業などに、そのような活動をした場合は有給休暇扱いにできないか、あるいはそのような活動を続けた場合、昇進・昇給あるいはボーナス時に考慮願えないかなどの陳情を行っています。現在、昇進・昇給まではいっていないのですが、ボーナス加算や2時間の有給休暇を認めるという企業が出てきています。
また学生は、カリキュラムに組み入れていただくということのほかに、たとえば進学の際に、ボランティア活動を行ったことを進学の大きな要素として評価する、企業が採用する際に、単にぺーパーテストの結果だけではなく、そのような活動をしたことを大きく評価するなどの方法を働きかけています。
このような活動のなかで、お互いに助け合うことがいかに自分自身のQOLを高め、また自分の存在が確認されることであるかを認識する。受ける側も、いろいろな人に触れ合うことにより、自分の存在の意義が確認され、生きる喜びが味わえる。そのような優しい社会にしたいと思い活動しています。
【紀伊國】ありがとうございました。1つ質問したいのですが、先生は「触れ合い」という言葉を選ばれましたが、どのような理由から「触れ合い」という言葉を選ばれたのでしょうか。
【堀田】結局、自分の存在、生きている意義が確認されるということが、人にとって非常にたいせつなことではないか。「触れ合い」とは、その具体的な表れであり、気持ちの触れ合いと体の触れ合いがあります。お互いが、肩書などをすべて取り去り、裸の人間になってお互いに助け合うような心の交流をする。それが心の触れ合いであり、そしてそのことがまた体にも現れる。まず手を触れ合う。手の触れ合いを通じて心の触れ合いができる。あるいは、体の触れ合いを通じて気持ちの交流ができる。それによって、自分は生きている、そして相手も自分をたいせつにしてくれている、そのことが確認され、自分のQOLにつながる。私はそのような気持ちでこの言葉を選んでいます。
【日野原】デーケン先生の今回の基調講演の結論はコミュニケーションであると私はまとめました。コミュニケーションとは、言葉によるコミュニケーション、英語ではverbal communication、そしてverbalでない、nonverbalのcommunicationというのですが、堀田先生がいわれる「触れ合い」という言葉はそのなかに包含されるものですか。
【堀田】そのとおりです。その双方の意味です。nonverbalとverbal、そして体、すべてを含めたコミュニケーションということになると思います。
【紀伊國】討議に移りたいと思います。まず、QOLを分かったものとして議論しているような気がするのですが、それは少し問題があるのではないかという気がします。
【グスタフソン】QOLというのは非常にたいせつなものですが、簡単ではありません。よく高齢者の方々とお話をし、どのようなことをこちらができるでしょうかと聞くのですが、私たちがいかに彼らを必要としているのかということも考えなければいけないと思います。つまり、高齢者の方々からしていただいていることがたくさんあるからです。介護をしなければならない障害者であるという形で高齢者をとらえることが多いと思います。たとえば老人ホームや病院に入院している人に、ボタンがスムースにかけられない人がいるとします。時間を非常にかけてボタンをはめている。すると看護婦がきて、ボタンをはめてくれるということがあります。しかし、自分でできることはなるべく自分でやっていけるように、介護をする側が考えなければならないと思います。ケアの視点とは、その人自身から始まるという1つの例を挙げたいと思います。
たとえば、1人の女性の高齢者が自宅で生活をし、足の傷の簡単な手当てのために病院に行かなければならない事態が起こった。しかし、歩行がかなり困難で、家のなかで動くときも、家具につかまりながら歩かなければならない状態だとしても、結局、病院で検査を受けなければならない。そのとき、車いすを使うとか、介添えの人をつけて行くというよりも、自分が歩ける方法でゆっくりと歩けばよいのです。
かりに車いすに乗ったとすると、彼女自身も職員も、偉くなったような感じを一時はもちますが、それが続いていくと、今度は自分のベッドからいすに座るという非常に簡単な移行でさえも困難になってくるという状態を生み出すことになります。
そのようにケアの出発点、視点を1つ間違えると、障害者になる必要のない人が、機能低下を起こし、自宅で暮らせなくなるような状況をつくり出すことにもなりかねない。だからこそ、自分のもっている自己資源、能力といってもよいのかもしれませんが、それを使っていく。いろいろな補助器具がありますが、使わないで歩くということが、やはり生きることの1つのクオリティであると考えます。
【紀伊國】グスタプソンさんがいわれたQOLにはいろいろな定義が試みられています。1つの定義は、人格のある人間の可能性をできる限り広げることです。その助けとなるものに医学あるいは看護があると思います。そこにはある種の客観性があります。もう1つの定義に、その広がったもののなかで、1人ひとりがどのような選択をするのかという、主観的なQOLというものがあるのではないかと思うのです。
そのときに、高齢者の性の問題があり、その観点からスタートしなければならないのではないかと思います。性に対してオープンであるスウェーデンでさえも、オープンであるのは若年層だけで、高齢者あるいは障害者には非難めいた見方をするという事実があるわけです。
その点、ワグナーさん、デンマークではいかがでしょうか。
【ワグナー】高齢者の生活の質、QOLが何であるかを知るには、やはり高齢者自身に聞いてみるのが重要だと思います。実際にそのような質問をデンマークで高齢者に対して行ったことがあります。1984年から88年までの5年間にわたって行われた、幅広い高齢者に対する研究、追跡調査でした。市当局が高齢者に対して介入する前と後の2回に分けてアンケート調査を行いました。つまり「QOLとはあなたにとって何ですか」「どのようにあなたはQOLを定義しますか。表現しますか」という質問でした。
そこで最も重要とされたものは、人間として、自分自身を高齢者として認める、受け入れるということと、社会に受け入れられるという2点でした。
この2つの問題以外では、細かい話になりますが、自分の部屋があり、自分の財布を管理できるということでした。しかし、このアンケートのなかに、自発的に性生活をもつことといった人はいなかった。
スウェーデンでは、愛ということを話し合うことについてはタブーはないと思います。若い人でも高齢者でもそうだと思います。高齢者のカップルでも結婚します。ナーシングホームでカップルが生まれ、結婚することも多くなると思います。
老人ホームでは、各個室に鍵がついています。だれかがノックをしても、答えたくなければ答えなくてもよい。ドアを開けなくてもよいという制度になっています。だから、愛する人と2人だけになりたいという場合には、それも簡単にできる環境になっています。
ほかの人との関係を育てるためになにか助けがほしいという場合には、施設などではカウンセラーがいます。障害者の人でそのような願いがある方は、ホームのリーダーに部屋にきてもらう。単に男性だけではなく、高齢者の女性でもそのようなニーズをもっている人はいます。日本では男性のほうがクローズアップされているようですが。
いずれにしても、自分でそのようなことを発言できる機会がどの程度あるかが問題になります。日本でもデンマークでも、高齢者については昔はタブーであったと思います。しかし、私どもが高齢者になったときには、このような要求は自然にできると思います。しかし、現在の高齢者たちは、タブーであった時代に育った人たちであるということを忘れてはならないと思います。そして、積極的に希望を聞いてあげることが必要と考えます。
【紀伊國】伊東さんは、長くデンマークに住んでおられますが、日本の価値観ももちろん分かっておられますが、どのようにお考えですか。
【伊東】いまのお話のなかで、自分の部屋の鍵をもっているという話がありましたが、デンマークの老人福祉施設はすべて個室であり、いわば自分の家であるという感覚なのです。その背景には、個人主義ともいうべきでしょうか、最初に個があるのです。その集合体として兄弟があり、家族があるという考え方が徹底していると思います。
私はいまでも日本の国籍をもっていながら、デンマークに24年ほど住んでいるのですが、日本ではグループというか、家族等とのバランスや規範とでもいうべきものがどうしても先に出てきてしまう。そのようななかで、自分を犠牲にする。それがほかの人を犠牲にしてもかまわないというような、どこに重点があるのか分からない、なにかわけの分からないグループ、あるいは地域社会、国家というようなもので動いている。そのようなものを2つの社会を比較したときに強く感じます。
【日野原】いまの性の問題を少し拡大して、日本においては家族というものが非常に大きな力をもち、病名告知などは、まず家族の許しがないとできないというのがほとんどであり、欧米とは非常に違います。いま話されたことは、韓国も日本も共通であるのか。あるいは違うのか。日本のこともご存知の李先生に、その実態をうかがいたいと思います。
【李】実は私、韓国の状況は世界的に知られていると思って来日したのですが、皆さんが韓国の現状をほとんど知らないのを知り、驚いています。
さて、韓国の家族は東洋圏でもいちばん濃いつながりをもっています。何といっても血の血縁はいちばん濃いものだという考えがしっかりと身についています。これは、善し悪しであり、義理的に結ばれている嫁と舅は制度的だという意味で憎まれ、そして憎まれつつ生活しながらも、長い間、いっしょに住んでいる間に家族としての愛情が芽生え、そして苦しみも憎しみもすべていっしょになるという考えで、血縁を越える状況に至ると思います。
東洋の家族関係は、憎しみと愛情という関係になると思います。しかし西洋は、自立を強調する社会であるために非常に個人的ですが、しかしあえて血縁的考えを含ませたいという欲求のために、無理につくった地域的家族といえると思います。東洋で育った私としては、やはり東洋がよいとは思いますが、しかしこの家族関係に私の心は縛られています。
【紀伊國】いまの問題は、文化的にもおもしろいと思いますが、この点につきまして、なにかご意見はございませんか。
ワグナーさん、自立ということはたいへん大事なことではある、しかし同時に、家族とのつながりということがそれによって失われるのではないかというニュアンスが李先生からの発言にあったのですが、どのようにお考えですか。
【ワグナー】これは大きな誤解ではないかと思います。その意味で、先生に指摘していただいたことは非常によかったと思います。西洋諸国においては、特に北欧は寒いところであるため人間関係も冷たいのではないかと思われるとすれば、これは大きな間違いです。私たちの国の場合、たとえば結婚してから、ほとんど一生涯にわたって共稼ぎであるという家族が多いわけです。両親とも仕事をしており、子どもは幼稚園から学校に行く。すると、高齢者が家にいても、日本の家族のようには世話ができない。確かにそうです。
しかし、世話の仕方が違うのです。土、日、祝祭日はすべて家族いっしょにすごします。老人ホームに入っている場合は、そこに出かけていき、休暇のときなどは、家族旅行に老人を連れ出します。
私の同僚で、96歳の父親と86歳の母親をもっている人がいますが、毎日電話をかけ、あるいは訪問して、なにかいるものはないか、大丈夫かと声をかけています。コペンハーゲンの近くに住んでいれば、毎日買い物を頼まれ、それを届けるといった状況です。私たちは常に近くにいて、家族の世話をしています。
重症の痴呆であるとか、それ以外の障害があるという場合には、同じ家には住めません。そのようなときには公的ないろいろな助けを頼むわけですが、そのような助けを得ることを恥だとは決して思っていません。
私たちは同じ家族として、高齢者の責任は家族のものだと思っています。これは正常なことだと思っていますし、また法律的に考えても正しいことです。そして地域社会も、医療制度も、同じように責任をもつ。これもノーマルなことだと思っています。
また税金は、このようなサービスを提供するために、非常に重い税を払っているのです。税金をこれだけ払っているのだから、高齢者をお願いするときに恥だと思わなくてすんでいるのかもしれません。
このような問題を各国において、大いに議論をし、制度を決めていかなければならないと思っています。というのは、たとえば日本でも多くの女性が外で働くようになってきています。その割合は年々増えてきています。近い将来必ずこの問題に直面しなければならないときがくると思います。家族だけが100%高齢者の面倒をみるのではなく、すべての人が高齢化するのです。これらの人もみなければなりません。それは恥ずかしいことではありません。そのためにそういった制度が必要なのです。
成人になればすべての負担をしなければならないという考えは、公平とはいえないのではないかと徐々に思われてきます。だからこそ、社会全体が協力し、ほかの人たちの犠牲になるという状況であってはならないと思います。
【日野原】ワグナー先生がいわれたことは、だれが高齢者の面倒をみるのか。それは組織やシステムがあって、国家、その他が担当しなくてはならない。家族は家族なりに、休日などのあらゆるときを活用しながら高齢者の世話をするということです。日本の現状について、中島先生少し説明していただけないでしょうか。
【中島】少なくともこの5〜6年で日本も公的なサービスを恥だという社会ではなくなったと思います。そして、女性たちのそれぞれの運動が、介護家族をサポートし始めています。それに介護家族が勇気付けられ、いろいろなサービスを手に入れ始めている。いまは、そのサービスがないために欲求不満を起こしているといえます。そしてそのことが、1つの地域運動になっており、その1つが堀田先生のようなプログラムにもなったし、行政的には老人保健福祉計画を各市町村がつくるプログラムにもなっていっているのだと思います。
さらに、セルフヘルプグループのよさも認識され始めています。血縁がよいという考えには、介護した家族の人たちが、そうではないというメッセージをし始めました。むしろ地縁、社会ネットワークのなかで自分たちが介護したい。その地縁をもう少し正確に結びつけてほしい。その地縁において、専門家や行政家の人たちの足並みが乱れてもらっては困るというメッセージが、いま大きいのではないでしょうか。
その意味では、どちらかというと日本は、ファースト・ケア・ギバーとしての介護家族が育ちつつあるということ。そして、東洋型よりは、西洋型と東洋型の間を模索している。その合意がまだみえないというところかと思います。
【紀伊國】堀田先生、いまの件で、「触れ合いネットワーク」との関連でどのようにお考えですか。
【堀田】介護をだれが行うかといえば、これは3つしかなく、行政が、地域が、あるいは家族です。
まず、家族が行うというのは、日本では破綻しかけています。これは、愛情がないとか、家族が冷たくなっているとか、そのようなことではありません。高齢化社会が訪れ、しかも子どもたちの数が少なくなったことにより、その介護の手が家庭の女性にほとんどかぶさってきている。いかに愛情があっても、1人の人に全部が委ねられるために、ふらふらになる、このような状態になった場合、これは無理です。それは家族のあり方がどうであるとかの問題ではない。もう肉体的に行えなくなっている事態が、年齢構成等の点で起こっている。いまの日本の実情はそこまできているのではないだろうか。
そのなかで、家族はこれだけやるべきである、こうすべきであるという議論は、これは結局問題から逃げることにしかならない。だから、その部分は、家族が行いますといって動かれることはすばらしいことです。そのほうが、される側も楽しいでしょう。しかしそうはいっても、それは喜んでする、自分のやりたいことはするという範囲であって、義務だから、あるいはどうして私がやらなければいけないのかという不満をもちながらでは、される側はたいへん不幸です。
よって、あとの部分は行政で行うか、家族が可能と考える部分をやってもらいながら、あるいは地域で助けるか。まさに中島先生がおっしゃいましたように、行政も基本的な部分はやってもらわなければいけないが、これだけでまた全部というのは、日本の財政面、納税面等からしてもなかなか難しい。それならば、結局地域が「触れ合いの社会」をつくり、困っているときに助け合おう、広く助け合おうということで動くしかないのではないか。
家族のいない人もたくさんいます。この人たちは行政と地域でみなければいけない。家族のいる人も、1人だけでやっているよりは、みんなが可能な範囲で助け合っていけば、介護に疲れ、不満をもっていた家族もかなり楽になる。そして、肉体的・精神的にゆとりが出てくれば、また優しい家族に返れる。結局、家族とも調和しながら、みんなでできるということになるのではないだろうか。そのような方向しかないのではないかと私は思っています。
【紀伊國】吉武先生、なにかご意見をいただけますか。
【吉武】中島先生と堀田先生のお話を聞きながら、ほんとうに日本は長い間、家制度、家族制度で、先ほどから家族、家族といわれるが、結局家族というよりは、家族のなかの女性がすべて介護役に回ってきたわけです。ところが、人生80年時代になり、親が80歳になれば、子どもは50代から60代になっているわけです。親がしっかり、90歳まで生きたときには、子どもはもう70歳になっている。すると、80歳の親がのしかかるという形になったとすれば、結局若い世代のほうがつぶれていってしまうと思います。
人生が長くなったことでなにが不幸がといえば、逆縁の不幸に遭遇するというのがいちばんの不幸ではないかと思います。先に生まれた者が生い茂り、次の世代に役立ち、そしてまた次の世代が生い茂るという順繰り順縁という人間本来の姿にもどっていくためにも、私はこれから血縁よりは地縁、地縁よりは女縁、いろいろな形で家族という概念を広げていく新しい介護の仕方を何としてもつくっていかなければならないと思っています。
【グスタフソン】やはり身内が身内としての役割を果たせるようにサポートすることが必要です。身内であることはたいへんな労力を必要とします。私もよく分かっています。私の母が95歳で昨年亡くなりました。私と主人と4人の子どもといっしょに、68歳のときから母親は同居しており、そして、家で亡くなりました。みんなで看取ったわけです。
私は母親からほんとうに愛情を注いでもらいました。私の子どもも、母が同居し始めたときからみてくれたことで、私は仕事に没頭できました。だから、母親に対しても私は豊かな愛情をもって接することでできました。
しかし、同じことが全高齢者に対していえるかどうか。すべての高齢者がよい親であり、あるいはよい身内であるか。われわれはやはり高齢者に対してよい身内でなければいけないと思います。そして、でき得る限りのことを、自分の持ち得る可能な限りの時間を使って行わなければならないと思います。
ただ、よい身内であろうと思っても、それはたいへんな労力を要します。そうはいうものの、できる限りの助けをすることが必要だと思います。そのためにはやはり他のヘルプが必要になると思います。
【紀伊國】今回のテーマが「QOL」であり、個々の高齢者のQOLをどのように高めることができるかが主題であるのです。この点に関して、特に性の問題について、長谷川先生はどのようなお考えをおもちですか。
【長谷川】多数の方々が公の場で、高齢者の性に関してオープンに語られるという機会は初めてではなかったかと思います。非常に企画が優れていたというべきか、時宜に合ったものではなかったかと思います。
私は精神科医の立場で話をしたいと思います。心の問題というのは、高齢になると、私たちが考えている以上に大きな意味をもってくるのではないかと思います。QOLの問題にしても、先ほどからのお話しのように、自分のもっている資質というべきか、能力を十分に発揮することができるということのほかに、自分の存在意義や生きがいなどが問題になってきます。すなわち、主観的なとらえ方というのが大きなウエイトを占めるのではないかと思います。
その証拠には、周りからみるとなにも心配なさそうであるにもかかわらず、いろいろと思い煩い、生活の活動を狭めている高齢者を多数見受けます。そのような人は主観的なものによって自分のQOLを低めていると考えざるを得ません。
本日のテーマとは多少それますが、老年期の自殺の問題であるとか、それに関連するうつ病や精神障害の問題も、QOLに関しては大きな課題であろうと思います。殊に、性に関しては、先ほどからも繰り返して申し上げていますが、私たちは性交行動だけに関心をもち、たとえば高齢になっても1週間に何回できたとか、そのようなことに話題が集中してしまう。しかし、実はそうではなく、触れ合いであるとか、茶飲み友達であるといった性交行動以外の心理的なことが大きな課題になってくる。そのようなことに対して、私たちは理解をまず示すことがたいせつではないかと思います。
さらに、セクシュアリティーの問題で、考え方の相違というもの、これもまた人によってさまざまであり、高齢者の性行動を議論する場合にも、男性と女性の見方がこれほど違うものかということを、先に開かれた第1分科会において実感しました。
もちろん、人によって差もあり、なかにはそのようなことにあまり関心をもたないでも、自分のQOLというものに満足して、本当に触れ合いのいろいろな社会活動に熱中しておられる高齢者の方もおられるわけであり、QOLの第1がすべてセックスでかためられるという話も、これもまたどうかと思います。
性行動は、人間の本来的なもののなかで非常に強い力をもっていることと、そしてコミュニケーションの場としては、実際の生活のなかに密着しています。そのなかには、いわゆるカッコいい話ができますが、もっとドロドロとした、人間の煩悩というべきか、業というべきかか、そのような事柄に密接に付着したものもあるのではないかと思います。そのようなことも含め、高齢者のセクシュアリティーをQOLと結びつけて議論できたのは非常に有益であったと思っています。
【日野原】ただいまのご発言を受けて、熊本先生、なにかコメントをお願いします。
【熊本】QOLという概念は、先ほどからも話されているとおり、ソーシャルなものから、フィジカルなものまで、非常に広い範囲にわたっています。私の立場からすれば、もちろんソーシャルなことにも関心はありますが、生身の体、ベッドの上に乗られるほんとうの生身の体のほうの性、逆にいえば内側からみた性でなのです。いままでここで議論されていることは、かなり外側からみたものです。
われわれのところに相談にこられる方は、いま長谷川先生がいわれたように、生々しい、ほんとうはそのようなことは外には出さないが、われわれの前にきて、ほんとうに裸になってベッドに乗られるときに話されることは、深刻な問題であることが多いわけです。そのような目からわれわれは性をみて、その人たちが高齢者としてのQOLのなかに性をどのように位置付け、考えているかをみているわけです。
そのような場合、まず性を個人的な問題ではなく、医学的なサイエンスとして、統計的な、あるいは群としてとらえ、そしてどうあるべきかという考え方でアプローチしなければならないのではないかと思います。
このような立場でみると、高齢者の方でも、かなり性に対して、昔からみれば積極的な要求が強いということ。たとえば、いろいろな薬を飲みます。高血圧の薬を飲んでいると性機能が落ちることが、統計では2割程度あります。糖尿病でも若い方で2〜3割ぐらい性機能が落ちます。そのような人たちはほんとうは悩んでおり、性機能の低下という問題をもってわれわれのところへこられるわけです。そのような人たちにわれわれはアプローチし、何とか治してあげなければいけないという考え方で治療しているわけです。
ただ問題なのは、そのようなことで、その人たちがほんとうに治したいと思っていても、性というのは、先ほどから話されているように、個人の問題と同時に、もう1人のパートナーがいる。ソーシャルなニュアンスがあるわけです。そこでいろいろパートナーとの関係が問題になり、パートナーの協力がなければならない。そこが医学的にもいろいろ問題があるわけです。
非常に生々しい話を申し上げますと、たとえば高齢になり性的能力が落ちてくると、何とかしてほしいという相談を受けます。いろいろな治療方法があるわけですが、1つはプロスタグランジンという注射があり、実際に勃起したいときに注射すれば勃起するという治療法があるわけです。本人は、能力を回復したと喜び、治療を開始するのですが、そのようなときになり注射を行い、パートナーとの性行為に入ろうとすると、パートナーがそれを嫌がり、1〜2か月たったころ、もうやめたということがあります。これをみる限り、パートナーとの関係が非常に重要と考えられます。
さらにもう少し申し上げますと、たとえば、全く勃起しない人にプロテース(補助具)を入れる治療をするわけですが、ある高齢者が、自分はプロテースを入れて、男としてのステイタスシンボルとして自分の能力を維持したいとの考えから、入院された。そのときに、家族にはそのような手術をするというのは恥ずかしいから、前立腺の手術をするといって入院されたわけです。
ところが、手術の前日に家族の方が、どのような手術をするのかを聞きにこられたのです。若いドクターが、真面目に、こういう手術をすると話した。息子が弁護士、娘が大学の先生の奥さんという、かなりのインテリで、患者さんもインテリの方なのですが、「とんでもない手術だ、そのようなことを父が望んでいるはずがないし、母が望んでいるはずもないから、手術を中止してください」といわれ、ベッドサイドに行き、父親と喧々囂々と議論し、結局は父親も家族が納得してくれないから、「しようがないから帰ります。また納得したらきます」といって帰られた。
このように、性に対しては、性が個人のものであるにもかかわらず、周りの者が干渉するということもあるわけです。性の治療を行う場合、どこまで周りとの関係を考えるかということが重要なのですが、いま、私の医学的な立場からすれば、もう少し性というのは個人の問題であって、本人が望んでいるのならば、本人の考えるQOLをサポートするような医学治療があってよいのではないか。また、そのような方向に周りの人も理解を示すということがなければ、これから日本の高齢者における性が広く理解され、かつそのような人たちがエンジョイすることはできないのではないか。そのような偏見をとるということ。それは周りもそうですし、本人もあまり恥ずかしがらずに自分の性的能力を回復していくように、希望があれば積極的に医師を訪れる。そのような勇気が必要なのではないかと思います。
昔は確かに、性に対しては非常に抑圧的なところがあったのですが、実際に患者に聞くと、はっきりとはいわないのですが、能力を回復したい、維持したいという希望がかなり多いということは事実なのです。それをすべての人が理解してあげる。そのような雰囲気をつくることがたいせつであると考えます。
【紀伊國】次にボストンのベス・イスラエル病院で老人看護をされている、キャサリン・モレンシイさんにお話をうかがいたいと思います。
【モレンシイ】アメリカではどのような状況かというご質問だと思います。性というのは、あまり公の場では話し合われてこなかったテーマです。しかしながら、最近エイズの問題が出てきたことから、どうしても話し合いが必要になってきました。
10代の子どもたちが、15、16歳になる前に、すでに性経験をもっていることが多くなっている社会においては、性をどのように取り扱っていくのか。学校などでどのように話し合っていくのかが重要になりましたが、それがだんだんと社会に広がってきています。
そこで、高齢患者に対しても、これをどのように取り扱うかが重要になってきています。将来を考えると、このようにオープンに話し合うことができるようになった私たちが高齢者になったときにはもっとオープンになっているでしょう。でも、いまの高齢者はそのようには育ってこなかった人です。そこで、老人ホームのなかにおけるプライバシーがまず重要になります。個室はまれです。2人ないし3人同居、同じ部屋に入室している人たちがいるというところが、アメリカの老人ホームの場合には一般的だと思います。
最近、1人っきりになれるような、別の部屋をつくるということが出てきました。
実は刑務所でも似たようなことがあり、夫あるいは妻が訪ねてきても、2人っきりになれない。これは人権侵害ではないかといわれたりしています。
高齢女性の場合、相手がいないという問題があります。高齢者の場合、女性5人に対して男性1人の比率です。性的なつながりを求めたり、あるいはぬくもりを求めるということが、女性の場合にももちろんあるわけですが、男性がいないということがあります。このことに関しては、あまりオープンに話されないできたわけですが、今回日本では男性の性というところに焦点が集中したようですが、アメリカの場合には女性の相手がいないということが大きな問題になっていると思います。これはもっと積極的に話し合いをしなければならないと思います。
ソマスマさん、なにか追加していただくことがあればお願いします。
【ソマスマ】どの老人ホームでも、私の体を使ってくださるところがあれば売りたいと思います(笑)。80歳まで生き延びることができれば、5人の女性に囲まれることができるなんて、これは天国のようだと、いま聞いて思っていましたが、パネリストの方々にもご意見をうかがいたいのですが、実際的な質問をいくつかさせてください。
かりに、QOLが権利であるということになり、国連が宣言するような、つまりすべての生きとし生ける人に対してQOLが権利だということになったならば、そしてQOLの一部が性の権利だということになった場合、これをどのような形で介護者がヘルプしていくことができるのだろうかということです。
高齢者、老婦人が多いということになった場合に、どのようなことを介護者ができるとお思いになりますか。
2つ目の実際的な質問なのですが、老人ホームの老人たちが、家族が知らないようなところで、たとえばプロテースの挿入というようなことを望んだ場合に、老人ホーム側として、あるいはナース側として、介護者側として、それを家族に知らせないでそのような手術を提供すべきかということ。ポルノをみたいとか、ブルーフィルムをみたいといったとき、それもみせるべきなのか。この点に関しては、私ははっきり分かりません。
3つ目、いままで話をしてきたセクシュアリティーの意味なのです。未亡人の方で、夫の肌のぬくもりが何といってもいちばん懐かしいと話されました。だれかがいなくて残念だというときに、これほど美しい表現があるでしょうか。
性といったときに、これをコミュニケーションであると考えると、高齢になったときに、お互いに与え合わなければならないような肉体的なコミュニケーションを性ととらえることになるのだと思います。
そこで、全体的な質問なのですが、QOLというのは権利であると同時に、責任でもあるということだと思います。個人がもっている権利があるということは、そういった人たちに対する義務がある、責任があるということであり、私なら私として、私の人生の1日、1日を意味ある1日にしなければいけない。私がなにが必要かということを人々に伝えていき、人々がなにを必要としているのかをこちらが聞くことができるような、よい生活を送っていく責任があるのだということになってくるのだと思います。
WHOと書いてありますが、国連というふうに後援のところに書くべきではなかったかと思っています。それは現在、社会的な革命が世界中で起こっていると思います。それは、高齢化という未曾有の経験です。
2番目に、介護のあり方においても革命が起こっている。これは昨日、リス・ワグナーさんが話されたとおりです。介護とは、相手を受け身にだけさせているのではだめであるという、そこが革命です。
3つ目の大きな革命は、家族のあり方が変わってきたということです。堀田さんは、切符というアイディアがあるということでした。自分が住んでいるところである高齢者の世話をする。1時間分の切符を自分の両親が住んでいるところへ送って使える。そのようなお話がありました。そのような考え方も大きく変わってきています。
堀田さんは第2次世界大戦から話を起こされましたが、あの戦争は勝者はどこにもいなかった。みんなが負けたという惨たんたるものでした。勝ったところがあったとすれば、いわゆるコングロマリットとよばれるようなところだけでした。技術的な力がすべての社会の、およそ価値があると思われた機関、組織、構造物のすべてを壊してしまいました。だからこそ21世紀においては、私の考えでは、人類最大の課題であり、挑戦であるのは、破壊ではなく、善なるもののために科学技術の力を結集させることにほかならないと思います。
高齢者という話をめぐり、東西の国がこれだけ離れているのに同じ話ができるようになったいまであるからこそ、これが重要になってきていると思います。
【ワグナー】モレンシイさんから、女性とセックスの問題についての質問がありましたので、お答えしたいと思います。
これはほんとうに意義のある問題です。セックスというのは勃起ではない。両者はイコールではないと申し上げたいと思います。デンマークにおいて、ペッティングという言葉がありますが、そのような意味もカバーされているのです。それも同じようによいことなのです。男性は、勃起なしにも男性のままでいられる。女性もまたそれから喜びを得ることができるということを申し上げたい。そのような意味で、勃起だけだということで、嘆くべきではないと思います。
多くの質問が出てきましたが、1つ重要な問題があったと思います。それはQOLは人権であるということは重要なポイントであったと思います。しかし、人権というのは自分が決めるものです。ほかの人に定義してもらうものではない。自分のQOLをどう決めるのかは自分の問題であり、ほかの人に定義してもらうものではないと思います。
しかも、その視野が広いと思います。アングルが広いのです。1人ひとりの人間をみなければいけません。人権を語るときに、均一的な画一的なコーホートとして、あるいは類としてとらえるべきではないと思います。このことは、これまで以上に介護においても大きな課題に直面しているという意味です。大きなチャレンジがあるということだと思います。
われわれは介護者として、今後、ケアを行うときに、われわれの介護のなかの関係で、人間としての自分を、全体の人間としてそこに投入し、相手をパーソンとしてみる。そして社会、政府のそのような態度で、1人の人間としてみることができるのか。このようなベースで新しいヘルスケアシステムを設計できるかという問題だと思います。ただ単にコーホートやグループの問題ではなく、1人ひとりの個性をもったパーソン、1人の人間に対する問題であると思います。
次にQOLとセクシュアリティーの質問ですが、介護者のほうもそのようなセックスを提供するべきなのか、その手伝いをするべきかに対しては、私はNOだと思います。つまり、介護者の義務とは、そのような人たちにセックスのことを語ることは大丈夫ですよ、社会が受け入れていますから、どうぞ話してください、また必要ならば要求してください、ということです。
5年前に本シンポジウムが開かれたとすれば、孤独がテーマになったと思います。それが当時のわれわれの義務でした。だれも家庭で孤独にならないように、あるいはナーシングホームで孤独感がないようにということが当時のテーマでした。しかし、現在はもはやそれが中心の責任ではありません。つまり、セルフケア、自己介護という言葉が浸透したのです。自分が孤独でありたい場合には孤独であってもよいのです。自分で決めてよいのです。セルフケアをすればいいのです。そして、もし孤独が嫌ならば、どこかに出向き、だれかと話をすればよい。そして幸せになりたいと思えば、自分で行動すればよい。それをすべて介護者に頼む、自分の幸せを介護者に提供してもらう、孤独を何とかしてもらう、性を何とかしてもらうというのではいけないのです。セルフケアだと思います。これは明らかにするべきです。
われわれのヘルスケアシステムのなかのテーマはセルフケアです。これは単に介護者だけの責任ではありません。孤独あるいは幸せ、性についても、セルフケアがなければいけないと思います。
QOLは、もはや社会のものではなく、1人ひとりの人間の問題であり、個人、政府、そして地域社会の問題であり、これらがいっしょになって取り組むべき問題だと思っています。
【熊本】先ほどプロテースに関することでコメントがありましたので、お話しさせていただきます。先ほどは時間を考えて、あまり詳しく話さなかったのですが、もちろん私の申し上げた患者は、奥さんとは話されて入院しているのです。しかし、母親はそのようなはずはないという子どもの決めつけのもとで、「お母さんはどうだったのか」といわれた場合、母親は恥ずかしがり、「私は知らなかった」といってしまう。セクシュアル・パートナーが納得していても、そのようなことが明かるみに出たということから、その年齢の人たちは恥ずかしがり、そのようなことをしたといわれたくないために、手術をやめてしまったということなのです。そのような例はたくさんあります。
もう少し申し上げますと、たとえばそのようなプロテースを入れる手術をするとき、冗談のように、入れるのはいいし、ぜひ入れたいが、もし死んでお骨になったときに、骨といっしょにその入れたプロテースが残ってしまうのではないか、それは大丈夫かと念を押される人もおり、性というものに対して恥ずかしがり、周りに知らせたくない。ほんとうにパートナーの間だけの問題として解決したいということがかなりあるのではないかと思うのです。そのようなことが性に関しては重要なことであるわけです。
また、性は勃起だけではないというワグナーさんのお話しは、まさにそうであると思います。それならば、世界的にプロテース挿入がこれほどポピュラーになっているのはなぜか。週に何例も手術をしなければならないほど、要求があるわけです。それはなぜかといえば、やはりそのようなことによって得られるスキンシップというのは、重要であるといえるのではないでしょうか。
そのような意味では、やはり性というものに対する理解というのはかなり幅が広く、それが全部に必要だとは思いませんが、やはりそのようなことを考え、望む人はかなりいるわけです。そのような方たちがいるということを理解し、サポートするということも、これからの社会的なQOLを考えるうえで必要な考え方ではないかと思います。
【堀田】私は長らく検事という職に就いていましたことから、ずいぶん強姦事件も扱いました。最もひどい強姦は、旭川という日本のいちばん北側の場所で起こった事件ですが、零下29度の戸外、凍った雪の上での強姦でした。これはほんとうに非人間的というか、動物的ともいうべきものでした。このときの性は、男が欲望を全く非人間的に貫くという行為で、これはもちろんとんでもない性です。
動物は、生殖のため、子孫を残すためにセックスをします。人間にも、もちろんそのようなセックスがあり、その欲望の極みが強姦事件です。しかしそうではなく、人と人とのつながり、コミュニケーション、愛情の現れの1つの極致として、愛情の確認としてセックスをすることが、人間がほかの動物と違うところだろうと思っています。
セックスには、男女間の衝動の問題もありますが、それは性衝動が起こり勃起するといったところから、メイティング・ビヘービアに至るその過程のなかで、心の交流や触れ合い、コミュニケーションがあり、そして双方が高まり、その果てに合意したセックスがあるからこそ、すばらしいのではないか。自慰よりも、売春行為のセックスよりもすばらしいというのは、やはりそのようなコミュニケーションの高まりのなかでセックスがあるためではないでしょうか。それがすばらしい人間のセックスだと考えています。
だからこそ、強姦に対して非常に厳しい刑を課するわけで、強姦を非難するのも、そのような人間のセックスの対等性、コミュニケーション性からくるためではないかと思っています。
そのようにセックスを、人と人との対等なコミュニケーションの最後の姿だと考えた場合、セックスを含めたQOLは、もし権利というのが、ヒューマン・ライトという意味であれば、それは権利ではないといえます。まさにワグナーさんが話されたことは、そのようなことだろうと思います。
すなわち、権利であれば、他人にそれを満たすことを要求できるわけですが、そのような意味では権利ではない。しかし、自分たちはこのようにしたい、それを承認する、その場を与えるという、基本的人権(privilege)という意味では権利なのです。
それを介護の場に当てはめた場合、高齢者がたとえば同じ老人ホームのなかで愛し合うようになった。ところが、全員が雑居であり、愛し合う場所もなく、触れ合う場所もない。これは基本的人権の否定です。
【紀伊國】函館の特別養護老人ホームのグロード先生、いまの問題についていかがでしょうか。
【グロード】QOLは、確かに性との関係が深いが、それ以前にやはり愛されているかどうかが問題になると思います。家族から愛されず、一般の社会からも何となく取り残されている人の場合、ほかの面では恵まれていても、暗い顔をしています。QOLは性的なものである前に、やはり精神的なものだと思います。
日本の家族、家制度は核家族の時代に入り、だんだんつながりが弱くなっています。長期間の介護は、家族にとって大きな負担となります。老人の自殺の統計をみると、圧倒的に子ども夫婦との同居者のほうが多いのです。これは極端なケースですが、シンボリックな意味合いがあると思います。やはりお年寄りのお世話は、だんだん面倒になり、愛されなくなる。
私は、特別養護老人ホーム等を16年前から経営しているのですが、もしホームが、開放的で、家族が24時間面会でき、また宿泊できたとすれば。さらにホームが入居者のためにほんとうのマイホーム、家庭の延長であるとすれば、ホームは親孝行をするセンターになるのと思います。ホームを通して、家族は再び自分の両親を愛するようになるのです。家にいるとさは面倒だと感じた父母が、家族の宝物になるわけです。このようにQOLとは精神的なものであり、まず愛されているか、周りの人たちからたいせつにされているばかりではなく、役に立つという意識があるかが重要です。
そして、性について私が申し上げたいことは、性、エロスは芸術なのです。動物は本能に振り回されているだけであって、人間のように自分の本能とか自分の感覚をべースにして芸術をつくることはありません。性は芸術なのです。私どものホームでも、年寄り同士のロマンスがよく生まれます。私はできる限り協力します。愛し合うスペースを提供しなければなりません。先ほど堀田先生がいわれましたが、もっともなことです。自発的に2人の間に生まれたロマンスなら、妨げてはいけません。このロマンスは、80歳を超えた年寄りですと、プラトニックラブのようになり、非常にかわいいのです。高齢者同士の性というのは、私は問題は少ないと思います。たまにセックスの専門の先生を訪ねる人があるとは思いますが、案外少ないのではないかと思います。
しかし、われわれのホームのなかで問題なのは、むしろ職員と高齢者なのです。若い寮母は男性のお年寄りから求められることがあります。そうすると、寮母のなかで、あるいは看護婦のなかで、非常に嫌がる人がおり、それを大問題にしてしまう。私は、そのような要求があった場合、ドラマティックな対策をせず、さりげなく問題を片付けるように、そしてお年寄りを傷つけないで、恥ずかしさを感じさせないように、プロの介護者が自分のチャーミングさもケアのうちだと思って接触するようにと、私はいっています。デリケートな問題であり、われわれのような障害老人のホームのなかではよくあります。
私がいいたいのは、ホームの世界にも性を訴える、女性は女性らしく、男性は男性らしく、そういうお互いの求め合う雰囲気がたいせつなのです。介護者もそうなのです。私はいつも寮母さんに、ホームにくるときは、まずお化粧して、何となく一種のマドンナのような雰囲気を放つ人になるようにと。ある福祉施設に行ったとき、寮母さんが男か女か見分けがつかないことがありました。これはよくないことです。
私は、セックスや性以前の、愛、心の問題だと思います。愛されているか、愛する人がいるかによって、むしろQOLが成立するのではないかと思います。
【紀伊國】熊本先生もわれわれも、性とは、フィジオロジー(生理学)の話だけではないと思っていますが、グスタフソンさん、いかがですか。
【グスタフソン】パートナーがない人をどうするかということを自問自答してきたわけですが、皆さんで話し合いをしてきましたが、パートナーがなければ、とにかく愛することもできない。そうすると、精神も衰えてくる。どのようにしてパートナーのない人を助けることができるか。だれが助けることができますか。
【紀伊國】蒋先生。
【蒋】高齢者のQOLは広い意味だと思います。1つは、住・食で豊かになるか、それと精神面も非常に大事です。高齢者は、歳をとるとともに病をもつようになります。疾病によっては、性の機能に影響するものもあります。
また、精神的な場合もあります。社会の偏見によって、機能に支障をきたす場合は、社会に対して私たちは、高齢者の性は本能であると教育しなければなりません。性は死ぬまであることを、若人、高齢者双方に対して教育する必要があります。
男性の治療の場合、相手の反応によって影響を受けた場合もあることから、奥さんも同伴するようにという場合があります。そして、高齢者の再婚を支持する必要があります。老人ホームのなかでも、高齢者の性の治療を、若い人の治療と同じようにする必要があります。
上海の例でいえば、高齢者の性のとりくみは89年から始めたのですが、もちろん社会の偏見、家庭の偏見といったさまざまな障害があります。したがって、高齢者の性の問題を向上させるためには、性の教育を普及させる必要があります。老人病院に、このような診療科を設けて相談すべきだと思います。
【桂】この討論を通じて気がついたのですが、高齢者からいえば、性欲の要求があった場合、男性は勃起する。それは正常なことです。社会が理解すべきことでしょう。たとえば、配偶者がいる場合、できる限り2人で性生活をもっと豊かにするように勧めます。配偶者を亡くした人には、積極的に再婚するように勧めます。
しかし実際問題として、高齢者の間には相手を亡くしたとか、離婚した後では、大部分の人が孤独な生活を送っています。相手を探したいという意欲があっても、実際はできない場合があります。このような状況下では、各方面から援助を行い、生活が豊かになるようにすべきだと思います。実際問題として、高齢者に対して社会あるいは老人ホームのヘルパーたちが関心をもち、彼らの悩みを理解し、できる限り満足させてやればよいと思います。
そして、高齢者の子どもたちとの交流、接触が重要だと思います。歳をとるにつれて、精神的な隔離が生じるため、できる限り温かい心で接するべきだと思います。よってこの問題は、もっと多くの高齢者にどのようにして生活を向上させるかという問題になると思います。
【日野原】フロアの人たちのご意見もうかがいたいと思います。いままでセクシュアリティーのことはかなり深刻に討議をされましたが、QOLがほんとうに満たされていない施設が非常に多いという現実。そして在宅においてもそのような状態であるという日本の現実。東洋における深刻な現実がありますが。
【質問】少し奇妙な質問ですが、教えていただきたいのですが。私の施設であったことなのですが、102歳の入園者がマスターべーションをしていたのです。103歳で今年亡くなりましたが。それは特別室で、モニターが入っているので、職員がよびにきた。「ちょっとみてください」「どのような介護・看護をしたらよいのですか」というのです。私も初めて、102歳の女性のマスターべーションをみたのですが、ノーコメントでした。
そして、私の親しい施設長たちに相談したのですが、「汚いな」「生々しいな」「うらやましいな」という、答にならない答が返ってきたのですが、どのように処置したらよいのでしょうか。教えていただきたいと思います。
【日野原】熊本先生、コメントをお願いします。
【熊本】私はほかの人が関与する必要はないのではないか。別に人に迷惑はかけないわけですから、その人がそれでエンジョイしているのであれば、それで十分なのではないか。それを周りの者が、100歳にしてこういうことをやるのはけしからんと、あるいは興味をもつということが、いまの性に関する偏見であると、申し上げたいと思います。
【日野原】このようなことについて、高齢者でかつ立派な作家であるアンドレ・ジッドが自分の経験を書いています。みんながいろいろなことを思っていますが、いま熊本先生がいわれたように、それはその人だけのことで、他人が干渉すべきことではないという結論ですが、こういう考え方に対してなにかご意見をおもちの人がおられますか。
【ワグナー】ただいまの意見以外のものは全くありません。
【中島】分科会の席で、韓国の金先生が最後に話された言葉に、「社会福祉事業家のプライドは人間愛だと」いうのがありました。この言葉は、私たちの社会が機能社会になったためになかなか出てこなくなった言葉です。私は改めて感動したのですが、このことからいえば、この特別室でビデオが、健康管理か生活管理のためでしょうか、映っていたのでしょう。寮母さんがそれをみて「どうしましょうか」という、その発言はとてもプライドのある発言だとは思わないし、そこでのディスカッションがプライドというところからずいぶん遠い距離にあり、私自身は聞いていてショックを受けています。
【日野原】QOLというのは、プライバシーを非常にたいせつにするということで、いまのようなことは、あってはいけないと思います。ほかに質問がございますか。
【質問】小田原にございます特別養護老人ホーム「潤生園」の野上と申します。セックスのこととは全く関係がないのですが、私のホームでは、介護職をつくりました関係で、全くなにもできなくなってしまった高齢者がたくさんいます。
ひどい人は、言葉も出ません。私たちが行くと、目で私たちを追う。そのような人たちのQOLはどのように考えればよいのでしょうか。私たちも日夜悩みながらお世話をしている状態です。なにかご意見をお聞かせください。
【日野原】中島先生、なにかご意見を。
【中島】私がというのではなく、お話を聞き、またディスカッションでよい発言をしていた人の言葉を思い出しましたので、それをご紹介します。
まずケアの立場から基本的な考え方が1つあると思います。それは、昨日、デーケン先生が「雨が降ったらどうしよう」ということは、どうしようもない思い煩いだといわれましたが、それと同じように、QOLということをなにかある手段として、たとえばぼけ予防のためや寝たきり予防のために思い煩う、そこからQOLにかかわりをもつということは、QOLの本質から離れると思っています。ある目的のためにQOLを使うのではなく、いまある状況のなかでどのように差別のない居場所をつくるかが根本だと思います。
その差別のない居場所をどのようにつくるか。その思い煩うことに価値があり、そのことをリス・ワグナーさんなどが、ともかく話し合う、いっしょに話し合う、時間をかけて話し合うということを繰り返しいわれているのだろうと思います。それを、だれか特定の人が決断をして、それに従うということではなく、同じチームで、初めから終わりまで時間をかけて話し合ってください。そこからすばらしい答えが出てくるのではないでしょうか。
われわれのコミュニケーションがこのQOLに向かったとき、そしてそのことが大事だと思ったとき、思い煩うということはたいへん価値のある働きかけ、あるいは施設ケアの道になっていくのではないかと思います。
【日野原】ありがとうございました。ほかにございませんか。
【質問】佐賀県の養護老人ホームの施設長でございます。最近、精神薄弱者施設や精神病院の寛解者の人の入居が比率的多くなってきています。極端な例なのですが、IQ35程度の精薄施設からの高齢者ですが、いわゆるのぞき見をするような意識は全くないのですが、女性の入居者の部屋を外から眺めたり、あるいは空室があると、部屋のなかに入り、タンスなどを開けてなかをのぞく。これは物をとるとか、女性の人の裸をみたいとか、そのような意識は全くないのです。
いわゆる健常老人、現在入っておられる私どものお年寄りは、ノーマライゼーション的な考え方が非常に少ないので、先ほどプライバシーの問題がありましたが、そのような混合入居の場合のQOLはどのようにすればよいかを外国の施設の例なども含め、教えていただきたいと思います。
【日野原】いまの問題は、外国の人たちのお話を聞く前に、長谷川先生はいまのような例をよく経験されておられるでしょうが、どうでしょう。
【長谷川】これはたいへんご苦労なさっておられると思います。正常なお年寄りというと語弊がございますが、たとえば痴呆老人や精神薄弱の老人など、精神病院を退院して、陳旧性の分裂病をもった老人が、老人ホームに入所することが起こってくると思いますが、これは非常に大きな問題だと思います。
1つは、関与していただく精神科医とか、あるいは心理の専門の技術者が、非常勤でも結構ですから必要だと思います。質的な障害をもった人が入ってきたときは、通常のお年寄りとの混合収容は非常に難しい問題が起こってくると思います。よって、QOLを考える場合も、QOLを保持できるようなリソースを施設側が準備していることがないと、実際問題として無理ではないかと思います。私が申し上げるのはそういうことしかございません。
【ワグナー】ご質問に簡単にコメントしたいと思います。ただいまの例は非常によい例だと思います。つまり、ここで問題を抱えているのは患者だけではないということです。その人は意識せずに、あるいはスタッフの倫理的な態度と反応ということを特に意識していなかったと思います。これはスタッフ側の問題だと思います。今後、スタッフの態度がどうあるべきか、また倫理的にどのように対応するべきか。スタッフの倫理観の問題でもあると思います。おそらく、この問題を討議し、解決するまでには長い時間がかかると思います。
【グロード】少し話が違いますが、非常にたいせつな問題であり、そしてQOLと深い関係がある問題があります。フランスの開業医、ホームドクターは、自分が診ている高齢患者のなかで、痴呆症状が進んだ、あるいは生活環境が非常に悪い、家族にいろいろ問題があるといった場合、裁判所に報告する義務があります。そして裁判所で調査し、そのような高齢者に対して客観性のある保護者を立てます。家族から選ばれることももちろんありますが、第三者が立てられることもあります。
そして、日本語では法廷代理人あるいは保護者という言葉に当たるか人が、今度、その高齢者の生活や受けている治療などをチェックするのです。もちろんそのなかには高齢者の財産の管理なども含まれ、責任をもって細かくチェックする。このような保護政策は日本には見当たりません。
ケースによっては、家族だけでは高齢者を守ることができないということもあると思います。ヨーロッパのこの法定代理人は、1つの裁判所に付属している協会で管理され、法人化しています。1つの大きな政策になっています。日本も、客観的に高齢者を守るという政策が必要ではないかと思います。
【紀伊國】たいへん重要なご指摘だったと思います。それではパネラーの先生方にワンポイント・コメントをいただきたいと思います。それでは李先生から、QOLに関して、ひと言コメントをいただきたいと思います。
【李】非常に勉強になりましたことを率直に申し上げます。本シンポジウムでいちばん重要なものは、高齢者は介護されるべきか、または介護しなければならないのか、というのが問題の焦点でした。高齢者を介護する、介護される。もちろん、「される」と「する」というのは、非常に行動的に、精神的には違うものと思いますが、このシンポジウムで逃したことがあると私は思っています。それは、実際に介護している人たちのQOLをどのように考えるかを見逃しているのではないかという点です。
先ほど、雨が降ったらどうしよう、パートナーがなかったらどうしよう、この問題は私たちが見逃した問題を追求していると思います。そして、その見逃された問題に対する焦点を、われわれはこれから先考えることで、初めて高齢者のQOLを考えるようになるのではないかと思います。
【堀田】最初に申し上げましたが、人のQOLにおける最高のレベルとは、自分がこのようなことをして相手が喜んでくれた、自分の存在意義が確認されることだと思っています。本日は、その確認の仕方・あり方、これは介護をするほうもそういう意味で、自分が介護したことによって、自分の存在価値を確認し、満足感を得る。一方されるほうも、介護をただ一方的にされる、いってみれば恩恵を受けるということではなく、やはりされながら、自分がたいせつにされている。そして、された人に対して感謝の気持ちを返す。これは言葉が話せなくとも、目だけでも返せると思います。それによって、されるほうも自分の存在価値を確認する。ここに双方のQOLの本質があるのではないでしょうか。そのような思いで聞きながら、私の考えは間違っていなかったと自信がもてましたことをたいへんうれしく思っています。
【長谷川】私、前から、高齢化社会でいちばんたいせつなことはケアのシステムの確立だと考えています。たとえば、歳をとってからわれわれは老後の不安というものを考えますが、そのときの1つは健康です。しかし、日本には老人保健制度というものがあり、いろいろ問題はありますが、制度としてある。2番目は経済的な保障です。これも、不十分ではありますが、年金制度というものが確立されている。ところが、3番目のケアシステムは確立されていない。このために、老後が不安になり、たとえば、寝たきりになってしまうのではないか、それならばぽっくり死にたいなどと考えます。QOLで惨めな思いをしたくないのです。
ところが、堀田先生が「ふれあい運動」を実践され、着々と成果をおさめつつある。そのような地域単位のボランティアとでもいうか、私たち自身がつくるケアシステムなどを基盤にして行政がシステム化させればよいと思います。
そして家族のケアも別であると思います。家族を頼った福祉政策は、もう日本は残念ながら捨てていかなければならないと思います。家族のケアは家族のケアで、そのような場所を設け、家族もケアしてもらう。しかし、あまりの高齢化が進めば、これらができなくなる。そのようなときに地域のケアシステムが非常にたいせつになる。是非このような運動が促進され、ますます発展していくことを心から願っています。私も是非協力させていただきたいと思います。
【中島】この5〜6年まで、在宅ケアという議論をしても、家族ケアにしかならなかった。そのおかげで家族ケアのいろいろな問題が浮き彫りにされました。しかし、家族たちは、自分たちが体重を10?sも減少させ、かつ、明治、江戸時代のような農業労働で体を変形させるような介護労働をして、なおかつ家族ケアといわれることに怒り始めた。そのようなこととあわせて、いま、ほんとうの意味での在宅ケア、そしてQOLまでようやく行き着いた。まさに変わり目にきたという実感があります。このプログラムが、家族のためにも、そして皆さんのためにもたいへんよかったと思っています。ケアシステムの確立ということがいま問題なのです。
そのときに1つだけ、矢島先生ではありませんが、ドクターにはきっぱりと覚悟をしていただきたい。ケアというのは、ドクターが中心になって行うものではないということ。もっと自分たちの仲間を信じてほしい。意見を聞いてほしい。リーダーシップを発揮しようと思わないでほしい。正しくサポートしてほしい。このことを申し上げたいと思います。
【ワグナー】このシンポジウムで、いま全世界の国々が、今世紀になって初めて岐路に立っているということを理解したと思います。同じ問題、つまり高齢者のQOLを語るときになったという理解に達したと思います。90年代の後半になって、これまでクリエイティブなことをいろいろ行ってきたことは非常によかったと思います。
【熊本】私は医師の立場から、高齢者のQOLにおける性の意義を論ずるということでこの会に参加させていただきました。医学界においても、最近非常に性の問題に関心が高まってきており、いろいろな場所でシンポジウムや教育講演が行われるようになりました。そして本日、一般の方々と性を語るチャンスを得たということは非常にうれしく、また勉強にもなりました。
性というものが、医学的な立場だけではなく、さらにその上に衣がある文化的な、先ほどグロード先生が話されたように、ロマンチックなものもあることは十分承知していますが、そのような衣をかぶるなかにおける性に対する要求が、一般の方々のなかにもかなり高まっていることを、この2日間のディスカッションを通じて感じることができました。
今後もいろいろな人のご指導を得て、医学と看護、あるいはソーシャルな面でのコミュニケーションを取り、より性を通じての高齢者のQOLを向上させるように励みたいと思います。
【グスタフソン】東京に着いた第1日目に、女性記者が、孤独と疾病について高齢者の問題をどのように考えるかという質問をされました。私、あまり孤独の側面にはこれまで関心を払ってこなかったということに気がつきました。病気のほうにむしろ関心をもってきました。
もちろん、孤独の問題は非常に大きな問題だと思います。一生の間、だれもケアをしてくれなかった人たち、小さな村でずっと住んできた人たちが高齢になったとき、すべての人は非常にいらいらした感情をもつのではないかと思いますが、しかし、だれも1人では死にたくありません。
この村では、必要なときにセンターに行き、必要なケアを与えられる。幸福な感情も与えられるし、むしろ孤独感が薄らぐようなケアを与えてきました。われわれの望んでいることは、高齢者をみるときに、彼らが成熟した人間、成人であるとの見方をするべきです。全人的にみるべきです。性に関しても、また彼らが愛を求め、優しさを求めているということも含めてみるべきだと思います。
【紀伊國】たいへん活発な討議がなされたこと、そしてわれわれが狙いとしていました、高齢者のケアにおけるQOLの向上について、多面的なディスカッションができたのではないかと思っています。
最初に、QOLには二面性があるということを私は申し上げました。われわれ専門家、それには医療も、介護もあると思いますが、先ほど肌のぬくもりはたいへんよいという話がありましたが、日本語にもう1つすばらしい言葉があります。それは「手当て」という言葉です。手を当てるということ。本日の性の問題は、究極にはコミュニケーションの問題ではないか。お互いに手を当て合うということが、これからのQOLを考える際の1つのキーワードではないだろうかということを1つの結論にして、この討議の時間を終わりたいと思います。



紀伊國献三

堀田 力
日野原重明
モーナ・W・グスタフソン
リス・ワグナー

伊東 敬文
李 允淑
中村紀恵子
長谷川和夫

熊本悦明
合同討議風景





日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION