1.地域の高齢者のQOLとはなにか
高齢者が地域で生きていくときに、QOLとしてなにがたいせつかを考え直し、先進諸国から学びながら現在の日本で実現できるものを模索することが重要である。
高齢者のQOLを保障する条件とは「地域で生きて自宅で死ねる」ことである。いわゆるノーマライゼーション型福祉である。これを日本的に、日本の水準に応じて行う必要がある。
従来の高齢者対策は、つれ合いか跡取りの嫁たちに介護されて死んでいく女性中心の「在宅ケア型福祉」か、住み慣れた所から離れた施設に集団的に収容される「施設収容型福祉」のいずれかであった。現在、このいずれもが再検討の時期にきている。それは高齢者のQOLを日本の人権意識の水準からみたとき、現状の「女性介護型在宅ケア」「施設収容型ケア」では満足できないと日本人が考え始めたことによる。「地域で生きて自宅で死ねる」という条件が整っていないためである。
大家族が崩壊して核家族化し、さらに核家族も崩壊の危機に瀕している日本で、女性介護だけでは在宅ケア型福祉が維持できなくなったことが1つの原因である。さらに施設収容型は1部屋に8人も雑居するなど、先進的ヨーロッパ型の福祉よりはるかに内容が劣る。いずれ在宅型に転換を余儀なくされるであろうが、これも歴史的な流れなのであろう。
いま老人の尊厳を守るためにも、福祉と医療経済からみても、在宅ケア型が望ましいという見方に変わりつつある。しかし在宅ケアといっても従来の女性中心のケアではなく、社会的ケアに基づく在宅ケアが求められている。
日本では高齢者といった場合、すぐに病人扱いされる傾向がある。確かに高齢者は障害をもっていることが多い。しかし高齢者の障害は治ることはなく、終末期まで障害と共存して生きていかなければならないのである。適度なコントロールと社会的ケアによって、病人としてではなく普通の人として生きていけるし、また、生きていくべきである。障害をもちつつもそのままの姿で生きていく、これがノーマライゼーションの思想ではないだろうか。「ハンディをもったノーマルな人々」と考えるべきだ。すなわちノーマライゼーションとは、社会的サポートを受けながらありのままの姿で、自分の価値観のもとで自分の地域や自宅で生きていける社会的システムといえよう。
高齢者のQOLとはノーマライゼーション型福祉に基づく充実した人生のことである。必要なときに社会的ケアを得て孤立することなく生活でき、精神的には家族との交流を保ちつつ孤独感のない人生のことである。
しかし自分が丈夫なときには、将来のあるべき福祉など考えないことが一般的であり、自分の家族にケアされるのが当然だと考えている高齢者が依然として多い。これは今後の日本の高齢社会を展望するうえで大きな問題となる。
QOLの保障のないままに、在宅ケアで生きている高齢者の経済的家族的環境が憂慮すべき状態に向かっている。本格的な福祉対策が形式的なものに流れ、たとえば地域福祉保健計画も形式的で具体性に乏しい。ケアミニマムの精神がないためである。これは日常の地域ケア活動を行っている人々からみると明らかである。
2.地域の高齢者の実状と問題点
65歳以上のいわゆる高齢者の95%は自立可能な人たちであり、不十分ではあるが在宅で、または施設で暮らしている。老人性痴呆や寝たきりなどケアを必要としている高齢者は100万とも150万ともいわれ、これらの人々のケアに家族も自治体も苦慮しているのが実状である。さらに、いままでの経験から、高齢者率が20%を越えた場合、一段とケアの内容が厳しくなると考えられる。
私が勤務し始めたとき、当武石地方の老人化率は16%であったが、いまは23%になっている。この間の老人ケアの実状から以下のことがいえると思われる。
すなわち、20%以下のときには家族が高齢者を抱え込んでケアができていた。高齢者と家族の共存が可能であった。しかし20%以上になると、家族は障害老人ともども崩壊し、共存できなくなる。20%という数字が高齢者の家族ケア可能の限界であると感じている。
当面はぼけ老人や寝たきり老人対策が重要であるが、近い将来、問題となるのは高齢者世帯の動向であると思われる。老人化率20%を越えた町村における若者の帰ってこない高齢者世帯は、10〜20%程度である。武石村の場合1300世帯中約200世帯が高齢核家族で、全体の13%となっている。ここ数年は問題にはならないが、近い将来、完全な「独居老人」となり、さらに「障害独居老人」となって自立不可能となる。現在ですらケアをする家族がいないという状態であるにもかかわらず、さらにこれらの「寝たきり独居老人」が出現するという状況が待ち受けているのである。在宅ケア崩壊と寝たきり独居老人出現が数年後に迫っている。
この現実に対して政府の高齢者対策10か年戦略いわゆるゴールドプランは効力を発揮し得るのだろうか。
ヘルパーなど在宅ケア要員の増員は遅々として進展していない。ヘルパー職の給与の4分の3補助というこのプランでは、町村はさらに4分の1のプラスアルファー分の支出となる。町村の財政が極度に緊縮されている現在、ヘルパーの増員は不可能といえる。長野市の場合"ヘルパー増員による福祉の進展"とマスコミで報道されてから数年経つが、ヘルパーがそれ以上増えたという話は聞かないし、在宅ケアが進展したという話もない。ヘルパー増員という点からいえばゴールドプランは空振りに終わっている。
介護支援センターはどうであろうか。これも期待するほどできたわけでもない。在宅ケアに対して実質的に生活をサポートしているとは言い難いし、老人ホームや老健施設や病院に併設したとしても形式的で、退院させるための言い訳でしかない。救急時に老人をどこへ回すかという程度の事業は救急医療対策以下のものであり、往診活動がある地域ではこの程度の機能は不要である。看護サービスステーションの機能も大同小異である。またこれらの施設は基本的に医療向けであって福祉とは無縁のものである。障害老人向けのデイサービス事業も本格的在宅ケアにはほど遠いといえる状態である。
今日の日本の在宅ケアは国や自治体の関与は少なく、年老いたつれ合いや跡取りの嫁が支えているといってよい。しかしつれ合いのケアは介護する老人が高齢すぎるし、跡取りの介護は日本独特ともいえる"嫁姑問題"という人間関係のなかでしばしば悲劇的なものになることが多い。現状では日本の伝統の女性介護にまかされてはいるが、その女性の介護も瀕死の状態なのである。女性の社会的経済的自立が進むなかで、女性に老人ケアをすべて任せようとする発想が基本的に無理といえるのである。
日本の福祉医療問題では上述のような介護労働力不在と並んで、もう1つ重要な欠点がある。それは健康観のいびつさである。
福祉の考え方は障害を認める立場でなければならない。ぼけ・寝たきり状態も高齢者の行き着く普通のプロセスとの考えが正しい。老化は避けがたいことであり、よって障害をもった"普通の人、ノーマルな人"としてサポートすることである。ところが現代の日本医療は、人間の老いていくプロセスを"予防すべきもの""健康のままでいられるもの"と考え、"集団的健康管理""集団検診"などと医療的措置をこうずることによって健康が保てるという幻想を与えている。健康には医療が不可欠との認識をもたせ、医療漬けになってしまっている。
この思想が日本では強力すぎて自治体では予防・集団検診で徹底的に管理し、「食塩を減らせ」「カルシウムをとれ」「スポーツをしろ」などと、健康管理ならぬ人間管理を行っている。そのために財政とマンパワーが福祉に回っていかないのである。また、老健法がそれに拍車をかけているのである。
もはや日本人は十分長生きしている、いたずらに長生きのオリンピックをやめ、豊かな人生であればよい、という考え、QOLが重要ではないかと考えることが必要であると思われる。この健康観が高齢社会の福祉の思想だと考えている。
3.具体的対策はどうするのか
当面私たちは、寝たきり・ぼけ老人をどのようにサポートするのか。
細々ながらでも家族の介護労働が期待できる家庭がサポートの対象となる。ひとり住まいの高齢者が障害に陥ったとき、自治体、いや現在の日本では在宅ケアはできないと思われる。結局家族介護をどのように支え、結果として在宅ケアを実現させ得るかが当面の対策となる。それには必要不可欠な事業として以下の2つの事業を当村は実践している。
(1)各種訪問活動
第1番目としては、本人の医療的ケアも含め、家族のケア活動のサポートを行う事業が重要である。
それには往診が不可欠であるが、最近の医師は往診を行わない傾向にある。
これが在宅ケアが不可能であるという大きな理由の1つである。ゴールドプランは往診する医師の供給体制を考えなければならない。地域保健福祉政策はあっても医療が抜けていることは問題である。
入浴やリハビリも在宅ケアに不可欠である。訪問看護も24時間行き渡らなければならない。家屋の小改造・福祉手当金など福祉活動もその家庭で行わなければならない。不十分ではあるが武石村はこれらの訪問ケアを行っている。
往診・看護婦の訪問は、役場の当直と結んでいつでもポケベルで連絡がつき、要請があれば24時間行われている。
定期的ケアは往診が年間1,500回、訪問看護は1,700回、訪問リハは800回、入浴200回程度を年間行う。このような訪問活動をとおして家庭の高齢者の状態や人間関係や経済状態を知る。そのなかで、実は家族の介護に問題があり、"寝かせきり問題""ぼけたふり・ねたふり"の老人などの存在が分かってくるのである。孤独で寝たきりになりがちな高齢者は癈用症候群を起こし、ぼけ・寝たきりになることが多いのである。もっている病気が即寝たきりの原因になるわけではない。あったとしてもその数はわずかなものである。
"寝たきりゼロヘの10か条"には『手は出しすぎず目は離さずが看護の基本』と書かれている。こうすれば寝たきりはつくられないという意味であろう。だがこのように虚弱老人につききりで見守ることのできる主婦がどれだけいるというのだろう。多くの家の主婦は家にいたとしても働いている。パートの仕事をする、内職をする、さもないと子どもを高校や大学に入学させることができないのである。このような女性に介護労働を全部任せては、現在の日本では家庭生活が成り立っていかない。訪問諸活動は在宅ケアの環境を整え、家族への精神的援助となることは言うまでもない。
しかし訪問ケアで気をつけなければならないことがある。在宅ケアの水準をあまり上げようとすると、家族がケアに耐えられなくなり、ケアを放棄してしまうことがある。なかには行きたくない老人ホームに行かされる結果になることもある。ケアの水準は本人の価値観にまかせることも重要である。
(2)デイサービス
寝たきり老人をはじめとして、在宅ケアをしている高齢者を外出させることは、最も重要であることが分かってきた。いまさらなにをというむきもあろうが、連れ出すことは起こすことであり、他人とまじわる機会を多くすることである。そして昼間だけでも家族の手を離れることは家族の介護労働の軽減に大きく貢献する。託老事業が「地域で生き、自宅で死んでいく」ことに最大の役割を果たすことを、私たちはこの10年間のデイサービス活動で知った。
地域にはさまざまな程度の障害をかかえた高齢者がいる。それゆえにデイサービスの対策も重症から軽症まで、また1日から数日まで預かる必要も生じる。
そのために武石村では重症者のためのA型デイサービスと軽症者のためのB型デイサービスと短期入所のためのショートステイを同一の施設で別々に行うことにした。そのために名称も『高齢者多目的福祉センター』とした。特に重症者はいつ急変するか分からないため、廊下伝いに診療所の医師と看護婦が駆けつけられるようにした。
高齢者ケアにはハードな面よりときとしてソフト面が重要である。介護職員が多ければ多いほどケアの内容は充実する。当センターでは11人のA型デイサービスの受入れのために6人の職員が配置されており、B型デイサービスには専門職員とボランティアの人々が任にあたっている。またショートステイは1人につき2人でケアすることにしており、これにはパートタイマーがあたっている。
これらの事業には役場の福祉課、診療所、健康センター、社協などが密接に関係しており、円滑に活動している。
この3つの事業のために年間約5,000万円の福祉民生費を必要とするが、当村の年間予算は29億円であり、福祉費としての5,000万円は決して高いものではない。
マンパワーの確保さえ可能であれば、どこの町村でもできる事業であると思われるが、長野県内でも1〜2の町村が実施しているにしかすぎない。これは、アイディアをもった福祉専門家とそれに呼応する行政がなければ実現しないのではないかと思われる。さらに専門家と行政の連携が重要である。
比較的活発に高齢者対策を行っている自治体は、自治体が独自に運営している医療機関(診療所など)があり、福祉への関心が高い町村に限られている。しかし、医療がリードする福祉活動は、たとえば医療的ケアのみが先行するなど、えてして視野の狭いものになりやすい欠点がある。いずれ福祉の専門家が医療専門家を抱える形で政策をたてられるようになることが予想されるが、現在の日本では医師の発言力が大きいこともあり、この医師を利用することもたいせつである。
高齢化がますます強まっている現在、重症者を家から連れ出すことが特に重要となってきている。軽症者はどうでもよいというわけではないが、家族にとって24時間ケアをしなければならない重症者の存在は、ノーマライゼーション型福祉実現のためには最大の障害である。車椅子にも乗れない重症高齢者の送迎や、相手を大人として接し尊厳を認めていく態度、さらに家で心配している家族への配慮などが重要となる。ときおり必要な医療的ケアも不可欠となる。
4.当村の地域福祉医療活動の結果
10年余りにわたる訪問ケアと通所ケアの活動の結果、
?@寝たきり・ぼけ老人の減少
?A自宅死率の増加(3割から7割へ)
?B老人ホーム予約者の減少
の結果を得た。
寝たきり・ぼけ老人の大半は、実は寝たふり・ぼけたふりを余儀なくさせられている老人たちである。日本の家庭の複雑な人間関係がこれらの高齢者を生み出している。だから寝たきり老人と家族が距離をおくことは、ときにはたいせつなのである。
寝たきり老人は昼間連れ出すことにより、少なくとも日中は寝たきりではない。一見ぼけ老人と思われた老人も、連れてくることにより少なくとも孤独ではなくなる。ある程度の自立性も回復する。デイサービスに出てこられなくなり、約1週間から1か月の間に自宅で亡くなる老人が圧倒的に多い。つまり亡くなる間際まで社会との関わりを持ち続けるわけである。社会的ケアによって家族も安心して送ることができる。
デイサービス事業を行わなかった10年前には、自宅死率が3割前後だったことを考えると、家庭に介護する人さえいれば自宅で死んでいけることが私たちの実践活動で分かってきた。たとえ北欧のごとき高水準の在宅ケアに及ばないにしても、ノーマライゼーション型福祉が可能であることを認識したしだいである。癌などの在宅ケアの難しいケースを除くと、8割程度が自宅で終末を迎えることができれば十分な成果であると考える。
また老人ホームの予約はどの町村も一杯である。1年先までの予約というケースも多分にある。入所できないままに亡くなる高齢者も多い。在宅ケアだけが高齢者福祉のあり方ではなく、日本の現実からすれば施設ケアも不可欠ではあるが、高齢者は老人ホームへ行きたがらないのが現実である。老人ホームヘ行かないですませられればこれにこしたことはない。ホーム予約者の減少は喜ばしいことである。
以上、地域での高齢者の実状と問題点を述べた。そして財政力の弱い町村にあっても、工夫と努力しだいである程度の成果が上がることを報告した。特に寝たきり老人問題は高齢者福祉の最も重要な課題であることから、これに焦点をあてて述べた。
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