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高齢者ケア国際シンポジウム
第4回(1993年) 高齢者のクオリティ・オブ・ライフ(QOL)


分科会 I 発表  高齢者の性とQOL

総合老人ホーム「一燈園」理事長
宮内博一



1.人間とは
私は、老人ホームを45歳のときに開所し、それと同時に自分の墓をつくり、遺言を作成した。この3つのことをやってのけたとき、周囲の人たちは唖然とし、「死に急いでいる」と異口同音にいった。しかし、私の体内には生理的にどこか違ってきている。いわば人生の峠を迎えている。正から負に向かっている。そのような想いの実感があった。
老人ホームができたときからの私の老人観察は、日々新しい経験の連続であり、反面教師として人生のあり方、人間存在を問う疑問が謄々と湧いてきたのである。
「人間とは」「人生とは」と問い続ける毎日であった。老いを迎え、死を迎えていく人間の変貌をみていると、アナトール・フランスの「若し、私が神なら老いから青春に向かって、人生を逆にしただろうに」という言葉に表現されるように、老いから死へ向かうプロセスは惜哀そのものであった。
阿蘇山麓に拡がる九重高原にはたくさんの牛が放牧され、のどかな風景が展開されているが、死を知らないで草を喰んでいる牛のほうがよほど人間より幸福だと思ったものである。
いったい人間とは何であろうか。万物の霊長といわれながら動物とどの点において違い、動物と距離をおくことによって、崇高だといわれてきた点はどこにあるのだろうかと思われる。
動物の原点から分岐した人間が2本足で歩行し、ジャングルから草原に出てきたホモ・サピエンスが手を使用することにより、脳を発達させて今日に至るまで350万年かかったといわれているが、その結果、生まれた人間の本性が、?@食欲、?A性欲、?B集団欲だとすれば、いかに頭脳が発達したとはいえ、本能とよばれるこの3つの基質を具有している人間は、動物の原点から1歩も出ていないことになる。
しかし、他面、大脳の恐るべき発達は、他の動物にはないものであり、人間独自の文化や文明を生み出した原点でもある。二極文化方式でいえば、感情と理性がその対局にあり、相互に矛盾しながら共存している統一体ということができる。
心理学では、アンビバレンスというが、憎悪の感情は大脳の増幅作用によって、より激しい憎悪となり、同属を残酷な極限において、殺戮することもでき、慈愛の感情は感動の極限まで人の心を打つことができる。第2次大戦のドイツがユダヤ人収容所で行った殺害は、その極限のものであり、インドのマザー・テレサが「死を待つ家」で行っている慈善は人に感動を与えてやまない。
いずれが人間の本質かと問われた場合、どちらも人間だと答えざるを得ないであろうし、また脳の知性の発達は月旅行を可能にし、さらに宇宙を征服することも近未来に実現するであろうことをも示唆している。
ある本に、アメリカのある動物園に行くと、「世にも奇妙で残酷な動物」という矢印がついている。その矢印に従って進むと、そこに1枚の鏡が全面にあり「そこに立て」という立て札がある。そこに立って、その鏡に映った人間の姿こそ「世にも残酷な動物だ」というのである。
脳の表面を占める細微で精巧な人間の脳の中心部には、食欲と性欲を司る機能が、わずか1.5ミリか2ミリの距離をおいて動物脳に配置されている。人間脳(大脳皮質)はぼけるが、動物脳(大脳辺縁系)はぼけないといわれている。ぼけは死を意味することから、これは死なないということになる。
食欲機能と性欲機能の位置が近いために、よく両者は混同されることがある。食欲があるとき、性欲機能が発動したり、性欲を感じたとき、食欲がわくことは、胡桃沢耕史の小説「黒パン浮虜記」に記されている。
女性が失恋すると、拒食症になることもよく知られている。性食同源である人間の文化は歴史的に距離をおいて語られてきた。人間でいえば、性から遠い位置にあるほど、人格者といわれてきた。なぜ、食と性が同根であるにもかかわらず、そのようになったのか。
現代はグルメ・ブームであり、日本人ほど世界に精通した民族はいない。西洋料理、中華料理、日本料理と、舌と雅趣に通じた日本人は、料理の器から食べる場所の設定まで吟味するようになった。これは、舌だけではなく五感のすべてで食生活をしているといっても過言ではない。
食欲は、眼でみて想像し、舌の味わいを言葉を通じて表現するのであるが、性欲については、その男女の当事者以外にほとんど言葉として表現されることはない。
性の世界ほど本音と建前が違うものはない。性を語れば語るほど品性と人格が落ちていくのも事実である。人間は性については、確かに犬科ではなく、ネコ科に属しているといわざるを得ない。

2.性の人間に占める位置
ジグムント・フロイトは精神分析医として、心理学の祖といわれているが、フロイトの心理分析は、人間を必ずしも美しい姿で描いてはいない。また多くの学者から顰蹙をかい、遠ざけられたことも事実である。
それは、人間の根源にあるものを性とし、性という視点から心理分析をしたためである。幼児性欲や、性に根源を発する夢判断など、いかに人間の深奥において意識する、しないにかかわらず、性欲に支配されているかを克明に分析したのである。
いま、大脳生理学のなかで、旧皮質といわれる大脳辺縁系に属する部分の性欲と食欲を司る機能は、ほぼ同位置にあるにもかかわらず、食欲については、おおらかに明るく、楽しく語られるのに対して、性欲については、語る必要もないが隠微に罪の意識を伴いながら、人間の尊厳を汚すもの、むしろ性欲のないことが、人間の尊厳を高めるものであるように振る舞われてきた。したがって、人間の人格と性欲は、その距離が遠いほど、人格者だといわれてきたのである。
宗教と性については、日本型儒教社会においては、煩悩を解脱することが神仏に近付く方法だと考えられてきた。中世の仏教の興隆期において、親鸞に代表される仏教の大きなテーマは、煩悩解脱ということであった。少なくとも神仏に仕える者は、肉食妻帯をタブーとしてきた。親鸞は、このタブーを破り妻帯するのであるが、このタブーの根源にあるものは、性欲を否定する思想であると思われる。
ヨーロッパのキリスト教思想も聖職者は妻帯を禁止され、また世俗者であっても、結婚は神聖な神の行事としてとらえ、性欲は生殖を目的とした、結婚という形式においてのみ許されることとし、神の前において誓った儀式を破棄することはできないとされているのである。
したがって、離婚はカソリックの社会では認められなかったのである。聖母マリアの処女懐胎に代表されるような思想は、性欲の認知を拒否した思想であったと思われる。こうした歴史的、思想的背景からみても、性、食同源にあるにもかかわらず、食を近くにおき、性を遠きにおく思想は、長い歴史の遺産ということができると思われる。
しかし一方で、仏教の煩悩解脱思想とヒンズー教の欲望自然主義思想は、人間観において両極を成し、きわめて興味深いものがある。インドのミトナウ寺院に代表される性戯図は、性欲をあるがままの、自然の姿で受け入れ、そのことが同時に穀物の豊饒につながるとする思想を表現している。
こうして、性欲は人間本然の本能的欲望であるにもかかわらず、宗教と結びついて否定され、遠ざけられてきたのである。しかし、性、食同源である2大本能のうちの性欲だけを否定することは、不可能であり、これはすなわち人間の本質を否定することになると思われる。
性欲があって初めて生きるエネルギーとなり、芸術的、創作的エネルギーに昇華することができるのである。「生は性で聖である」とする私の思想は、年とともにますます深まってきている。
建て前と本音を使い分ける日本的土壌では、性は表面に出ることはない。建て前の世界では、あくまで性のないことが強調され、本音の世界では、ドロドロとした性の狂気に苦しみ悩んでいる。しかし、あくまでも食・性同源、食・性同価でなければならず、また、性を帯同して生まれた人間は、死ぬまで性からは逃れることはできない。たとえていえば、ローソクの芯が性であり、生きるエネルギーとして燃焼している。芯がなければローソクは燃えないのである。
フロイト的考え方であるが、老人ホームのなかでみる性(ここではセクジュアリティ)は、死ぬまで衰えないし、セクジュアリティのある人ほど、長命であることは実感的認識である。ここでいうセクジュアリティというのは、性に関わるロマンとでもいうか、必ずしもセックスそのものをいうのではなく、性的幻想(性的ロマン)をも含んだもっと広い概念をいう。
私自身の経験でいえば、老いて失われようとする性的能力に対する郷愁であり、焦燥であり、活力ある性の復帰を希求する願望であり、言わば、沈みゆく太陽に対してもう一度、昇らないかと念じる心情に似ていると思われる。老いの性が青春の性と同じように、いやそれ以上に心を悩ますとは、私自身が思わなかったのである。

3.QOLについて
QOLという言葉が、最近多く使われるようになったのは、人口の高齢化とは無縁ではないと思われる。QOLとは、クオリティ・オブ・ライフ(Quality of life)、直訳すれば「生活の質」となる。
日本はいま、高齢化社会に向かって息も切らず、ひた走ってきたといえそうである。工業化社会であるとともに、先進国のなかではトップを切って高齢化社会の実現のために突き進んできたといえる。その陰には、医学の進歩があり、それに支えられてきたことは事実である。そして、長命であることが即、幸福と思われてきた。
中国の古い思想では「福禄寿」であることが人間の幸せであるといわれてきた。『福』とは、子どもに恵まれることであり、『禄』は、お金に恵まれること、『寿』は、命が長いことである。この3つが備わることが人間の幸せであるという思想である。しかし、長命であることだけが人間の幸せだろうかと思う。
生きていてもその実、死んでいる人、死ねないから生きている人、そのような生き方でも長命であるという一点だけで幸せなのだろうか。
私は長命と長寿とは、思想的根底において異なっていると思う。長寿は寿といわれるように、生きがいのある輝いた老いを生きた人をいうのではないだろうか。
日本の医学は、長い間、「ピポクラテスの誓い」にあるように、医師への至上命題は、人を生かすことにあるとする倫理観から出ていないように思われる。
紀元前4世紀に生きたピポクラテスの思想的遺産は、現代では時代錯誤になったのではないか。人が生きるということは時間的量にあるのではなく、その質にあるという反省が、医学の進歩とは別の時限で問われている。
クオンティティ・オブ・ライフ(量的人生)より、クオリティ・オブ・ライフ(質的人生)ということである。長く生きるよりは、たとえ、短くても充実し、生きがいに輝いた人生を生きることに、大方の人の人生のコンセンサスを得ているということである。
リビング・ウイル(尊厳ある死)ということも、思想的な線上にあると思われる。もっと突き進んで、死ぬ権利、死を生きるための主体的選択権も認められた今日、1日1日の生活の質こそが人間の価値的存在ではないかとおもわれる。
昭和27年、黒沢明監督の『生きる』という映画は、日本以上に外国で好評を得ている。癌にかかった定年前の一地方公務員が死を前にして「生きる」とはどのようなことなのか、を問う哲学的命題だったと思われる。私は、当時学生であったが、妙に印象に残り〔ミイラ〕と渾名される課長が死を前にして猛烈に生きようとし、胸をかきむしる思いで、児童公園をつくることに死を賭け、最後に完成した公園のブランコにゆられながら、冬の雪の下でゴンドラの「命短し恋せよ乙女……」の歌を唄いながら死んでいく姿に感動したものである。
「生きる」ということと、「生活する」ということとは、クオリティ・オブ・ライフが違うのではないか。生きている以上、人はだれでも生活はしているが、「生きる」ということは、生きがいをもって主体的に生きる、言葉を換えれば、目的をもって生きるということだと思われる。
高齢化社会のなかで、黒沢明の問わんとした『生きる』が長命に生きた老人に問われる時代になったということではないだろうか。
私は、老人ホームを17年間経営してきて、特に「特別養護老人ホーム」のなかで、生きる意思を失って、なお生かされて生きている老人をみるたびに、果たしてこれらの老人が「生きる」に値する生き方だろうかと思い眺めている。
体が弱り、老化衰退しているとはいえ、どこかにキラリと光る一条の光がなければならないのではないかと思うのである。
それについて思い出すのは、正岡子規の『病床六尺』である。中学時代であったため、正確には思い出せないが、脊髄カリエスに苦しみながら六尺の床で何とか、生きる意味を見いだそうと、努力したことである。
せめて、床から起きて正座できたらと思いながら、それもかなわない宿痾に苦しみながら、俳句をつくることに生きる意味を見いだした。生きることが歓びに充ち、歓びは楽しみとともに、その人の心を燃やすものでなければならない。
よく、生きがいということをいわれるが、英語でいえば「生きがい」とは、「生きるに価(ウワース)するもの」ということになる。それが、QOLということになると思われる。トマス・モアの「ユートピア」にあるように、眼には目やにを一杯貯め、鼻水を垂らし、顔中を皺にして化石のように生きることは、生きる価値にはならないと思うのである。

4.老人ホームのなかのQOL
老人のQOLを分析すると、まず、なによりも健康が生活のべースでなければならないと考える。次に生活を支える金といえるかもしれない。健康と金のウエイトは、加年化とともに、金から健康に移っていく。
青春時代は、当然あるべき姿であって、金に視点が集中する。そして熟年から老年に移行しだすと、金よりも健康がいちばんたいせつなものであるという認識が深まり、名誉や地位に対する欲望が薄らぐとともに、買えないと認知していても、金銭で若さが買えるものなら、人生をもう一度やり直してみたいなどと、幻想を抱くものである。
功成り名を遂げた、成功者の異口同音の言葉は、金銭で若さが買えるものならという嘆息である。中国の秦の始皇帝、近くは松下幸之助など、不老長寿の薬を求めたり、幸之助は、せめて、十年若くしてくれたら、数百億の金を出しても惜しくないといっていた。最後に、QOLとして求められるものは「生きがい」である。日々の生活のなかで、胸がときめき、眼を輝かせるものがあるならば、それを称して「生きがい」といえるのではないだろうか。
一口に「生きがい」を趣味だけとはいえないと思う。終生、変わらない好奇心を燃やさせるものの1つに、異性がある。
異性へのエロチシズムといえるのか。故人となった石川達三の小説に『四十八歳の抵抗』というのがあるが、人間は、歳をとっていけば、自然や社会に対する好奇心は薄らいでいくものであるが、異性に対する好奇心だけは、変わらずに持ち続けることができるものだと記されている。
恐らく、唯一変わらず持ち続けられるものは、異性へのエロチシズムではないだろうか。
さて、老人ホームの現状では、老人が性のエロチシズムと切り離せないものだとすれば、特別養護老人ホーム、老人保健施設など、日本の現状の既設のホームには、プライバシーがないということになる。老人ホームに入居した時点から個人のプライバシーから切断される。これは、性の世界から無縁になるということである。
現在、決められている1人の住空間は、9?uであり、共同生活を余儀なくされているのが現実である。金魚鉢の魚のように、大方の生活が透視できるということは、プライバシーという権利が完全に剥奪されたことと同じことである。
老人は、性への残り火を燃やしてはいけないということなのか。老人には、性の世界は贅沢だとでも思っているのだろうか。先進諸国では、プライバシーの権利は、人間の基本的権利として、憲法に記されている事項である。
特別養護老人ホームのなかでも、性に関わるドラマは、数限りなく存在する。私の老人ホームのなかでも、唯一の密室空間であるエレベーターのなかでの男女の性にかかわるドラマがあった。
10年近く前「性は燃えているか」(主婦と生活社)と題した本を出版したとき、関東の総合老人ホームから、講演の依頼を受けたことがあった。講演の内容は、老人の性について話してくれとの依頼であり、寮母が、これらの老男女のドラマにどのように対応すればよいかということであった。これは、寮母に老人の性に対する深い認識がなかったことから、その対応についての適切な処置ができていないという理由からであった。
私のホームで、軽費老人ホーム(健康な老人を対象にしたホーム)での対応で、既述した本のなかで、お互いに愛情の通い合った男女に『隣室制度』を採用した。軽費老人ホームは、個室制度であり、狭いながらも、1人用、夫婦用の部屋があるが、老いらくの愛のある者同士を隣室にし、人目につかずに、隣室に通うことができるようにしたのである。
家庭であれ、老人ホームであれ、老いたりとはいえ老人を動物のように、ただ保護するという考えは残酷だと思う。人聞の尊厳が大前提にあり、その尊厳に基づいて、プライバシーが守られ、豊かな食と性の生活が保障されてこそ、老人のQOLが高まっていくのである。
日本型老人ホームは、プライバシーが保護されていないということは、人間として扱われていないといえるのではないだろうか。

5.老いと性
老いと病は同じものではないことは、いうまでもない。人間は「刑期の定めのない囚人である」といった中国の故人がいたが、人間は誕生したときから、死に向かっていくものであり、特別の事故でもない限り、老いと死は1セットになっているということである。
健康な人でも老いを経験しなければならない。ただ、老いるということは、生理的諸機能がDNAのプログラムによって少しずつ減退していくことで、病気に似た現象を呈するが、病気ではないということである。
長寿社会が進むなかでの特徴は、老期が長くなり、生理的機能が衰えない健康な老人が多くなり、老人には性はあってはならないとする思想が、見直され始めたことである。
過去の老人というイメージのなかには、性は存在しなかった。人格が完成され、人間のもつあらゆる欲望が薄められ、中国でいう仙人に昇華されることが、老人だという思想だったと思う。命が長くなり、健康な老人が多くなると、「老人にも性を」という復権が図られるようになったが、人間50年という時代と、80年という時代の価値観も違い、社会のみる眼も違ってきたと思う。
しかし、いかに老人の性の復権が図られたといっても、理屈では理解していたとしても、いざ現実のものとして社会の眼に触れたとき、決して温容な眼差しではないのである。「エロじじい、エロばばあ」という冷やかな視線のトゲがある。
美はロマンと結びつきますが、老醜と性は生理的な嫌悪感となるためであろうか。昭和23年、川田順の『老いらくの恋』が新聞紙上を賑わしたことがあった。そのとき、川田順は66歳で『老いらくの恋』という言葉も、その事件のときにできたと記憶している。
川田順は、「墓場に近き恋なれば、恐るるものの、何物もなし」との歌を詠んだ。老いて性が遠のくことはあっても、決して性欲がなくなることはない。
人間が性から卒業するときは、死ぬときだと思っている。むしろ、直線的、短絡的性欲から、妖しい炎をあげる屈折した性欲に変容し、肉体の衰退にもかかわらず、精神的には、狂気と幻想を帯びてくる。精神はエロチシズムに高揚するが、肉体がついていかないといったほうが適切である。
老人には性欲がないというのは、過去の誤った幻想である。いま、2人の有名な小説家の私小説を紹介して、事実の補強をしたい。まずその1人は、永井荷風である。文体は古風であるが、男と女の永遠のテーマを主題として男と女のつながりは、肉欲に始まり、肉欲に終わるとは、荷風の一貫して貫いた主題であった。戦前は「四畳半襖の下張」、戦後は「ぬれずろ草紙」など、70歳を越えても、性に固執し続けた。
小説「##東綺譚』のなかでも荷風自身を擬した作家が登場し、私娼窟玉の井を訪ねて、お雪という娼婦に出会い、初老の作家とお雪のはかないロマンが描かれていることは、よく知られている(このとき、荷風は57歳)。
また、『断腸亭日乗』は、荷風自身の日記風文学である。これが後の文化勲章の元になったと本人もいっているのが、荷風自身の性生活そのものであることも、周知のとおりである。この『断腸亨日乗』は、日記としてよりも文学として高く評価されており、荷風自身も文化勲章をもらったとき、「若し、文学で受賞に価するものがあるとすれば『断腸亭日乗』であろう」と述べている。
性の枯渇していくプロセスは性的能力は失っていても性欲が残ることが荷風全集を読めばよく理解できる。
もう1人は、文豪「谷崎潤一郎」である。『卍』『鍵』『瘋癲老人日記』など、一連の私小説のなかに老いた性の異形、異質をみることができる。シモンヌ・ド・ボーボアールも、この谷崎文学を絶賛している。
老いた性の屈折は、変態的といえるような様態に変容する。ただ単に、変態というのではなく、強いて区分するとすれば、変態的変態ではなく、変態的常態ということができる。
妻と学生との性態を鍵穴から覗く視姦的な盗視。青年の視点でみると、変態と映るのであるが、老人になるとこれが興奮の助燃剤になることは、60歳を越えた人たちには、理解できると思う。川端康成の文学にも、『眠れる美女』などがある。
私小説のなかから、老人の性の実態を拾ってみたが、小説ならずとも、すべての老人に共有する性の姿態であることは、私が17年間、老人ホームのなかでみてきた老人の性の姿と共通項があり、よく理解できるのである。

6.北欧ショック
私はアメリカをはじめ、ヨーロッパの福祉施設を、15年にわたりいろいろな視点でみてきた。そのなかには、古代遺跡の観光旅行もあったが、私は、人間の歴史に限りない興味をもっており、メキシコのマヤ・アステカ文明・ペルーのインカ文明・インド・パキスタンのガンジス文明・チグリス、ユーフラテス、エーゲ海文明など、好奇心を満足させてくれた。
QOLを考える場合、私が、もっともショックを受けたのは、北欧6か国を回ったときであった。スウェーデンの福祉については、本でも多く紹介されているので、いまさら述べる必要もないが、デンマークの福祉施設を見学したときのことである。福祉の専門性の通訳を雇い、主としてナーシングホームを視察した。案内されたキリスト教系のナーシングホームは、1人の住空間は17?uであったが、ドアを開けた左側に、シャワールームとトイレがあり、居室には、ホーム専用のベッド(唯一の備品)、あとの家具は、それぞれが自宅から持ち込んだアンティークと思えるような家具と応接セットであった。
園長からの注意事項は、ドアはノックすること、写真は老人の了解をとることであった。そして現在1人の専有面積は、21?uに拡大されているとの説明があった。
これだけの住空間があれば最小限度の文化的生活機能をもっているということであり、1戸建ての家と代わりないように思われた。したがって、プライバシーは守られ、肖像権は守られていることになる。
ホームの園長は、老人を従来住んでいた住宅で終生ケアすることがよいのか(在宅主義)、老人ホームに引き取ってケアすることがよいのか(施設主義)の議論のなかで、甲論乙駁があるが、施設主義を強調していた。
しかし、私の眼からみると、老人ホームでも広い住空間があり、1戸の機能を有する生活のなかで、プライバシーが守られているのであれば、在宅で巡回看護婦やホームヘルパーにケアされることと、老人ホームで共同管理ではあるが、寮母さんにケアされることとは、たいした違いがないように思われた。
この園長が主張するように、施設ケアのほうが、食事の栄養管理が行き届いており、在宅ケアよりもよいのではないかと思われた。しかし、在宅ケアであっても巡回看護婦やホームヘルパーの24時間体制が行き届き、ホームヘルパーの少ない日本のような、おざなりのものではない。
話が進むにつれて、園長から、おもしろい話を聞くことができた。
ある日、老人が、憂うつな顔をしているので、どうしたのかと問いただすと、新聞の紙面を指さした。指をさされたそこは、広告欄で、「ガールフレンド・セックスフレンドを求む」と書かれていた。
園長は、老人の意思を察して、さっそく女性に電話をして、アポイントを取ったのである。このことを本人にいうと、曇り空を風がかき消すように明るくなり、アポイントの日を指折り数えて楽しみに待っていた。しかし、あまりに喜こびすぎ、エロチシズムの想像が膨らみすぎたのか、約束の前日、心臓麻痺で突然死してしまったということであった。
ほほえましくも悲しい話であるが、「性」というものに対する考え方が人間を基調とした、不潔であるという考え方ではなく、基本的な人間の権利として尊重している基本的スタンスを痛切に感じたのであった。日本の老人ホームの園長なら、どのような対応をしただろうかと想像してみても、大方の予想は「そんな、いやらしい」という、声なき声が聞こえるのみである。表現は別としても、これほどの理解ある態度はとれないと思った。
また、この園で1か月に1度映写会があるが、あるときフィルム技師が予定していたフィルムと間違えてポルノ映画を放映してしまった。それに気付いたフィルム技師が、予定されていたフィルムと取り換えようとすると、期せずして、みていた老人たち全員が、靴で床をたたきだした。とうとう、そのフィルム技師は、最後までポルノ映画を放映したということである。
私のホームでも、毎月映写会があり、100名近く鑑賞にくる。ある日、みにいくと「忠臣蔵」が放映されていた。最後列でみていた99歳の老人が、「今度はポルノ映画にしてくれるといいんだがなあ」と、独白した言葉が、妙に私の胸に刻み込まれた。
99歳の老男は、腰は曲がらず、まだ、かくしゃくとしている。ある日、その言葉を聞いていたので、彼らを夜のナイト・クラブヘ連れていった。「おじいちゃん、いくつ?」から始まり、「70代かしら?」「なにか、ほしいものがあったらいって」「買ってあげるから……」、若いホステスの語調は、親が子をあやすような言葉であった。
これを聞いたこの老人、『あなたの履いているパンツを脱いでちょうだい。できたら、臭いのついたのが、いいや』この希望は、叶えられなかったが、楽しく、ユーモアのある一夜であった。

7.日本的思考と現状
性というものは、言葉では語られないが、真実を語れば語るほど、淫猥で聞けないと思うのであるが、人間の本質に迫ることができると思われる。男性は、結婚しても夫であるより、男であり続けるし、妻も母であるが、女であることは忘れていない。
食と性は同源であり、同価でありながら、性のみが疎外され、軽蔑されているにもかかわらず、死ぬまでこの桎梏から逃げられず、欲望を持ちながら悩んでいる。これが人間のほんとうの姿だと思われる。
私が、このことをいっている分には、あまり軽蔑はされないと思うが、学者が口にするとただちに軽蔑の対象になる。『性は燃えているか』という私の本が出版されたとき、恐ろしいほどの反響の手紙、電話を受けた。男女にかかわらず、すべて性の悩みであった。
食も豊かであり、性も豊かであることが、QOLすなわち、生活の質を高めることである。男である私の語録に、
「いい女であり、いい男であるためには、いいセックスの生活がなければならない」
がある。夫婦でも、熟年時代によい性生活を送り、よい思い出を残している人たちは老夫婦になっても性生活が継続され、よい思い出を共有し、よい関係であり続けることができると思うのである。
QOLを判断する1つの側面からいえば、「衣・食・住」とよくいわれますが、戦後の日本の経済的成長のなかで、衣生活では、世界の流行のトップをいっているといっても過言ではない。食生活についても、洋食・中華・和食と、バラエティーに富んでいることはもちろん、食器、雰囲気、たとえば食類によって配食される食器が変わり、眼で楽しむ食事であり、食卓の周りの環境が静雅であることまで充足され、グルメ文化は、世界一多彩で贅をつくしているように思われる。
食欲が豊かに満たされるとき、人間は一時の幸福感に浸ることができる。戦前、戦中、戦後の乞食に等しい食生活から比べると、想像できないほど、隔世の感がある。
しかし、住生活については、改善されたとはいえ、トタン屋根のバラックではないにしろ、住空間の豊かさは世界の先進国から比較すると、ほぼ3分の1の狭さだと断じざるを得ない。先進国の人々のみる日本は、経済大国の印象からはほど遠く「兎小屋」と映るのは当然と思われる。住空間の広さが心の豊かさに広がっていくが、諸外国人は「よくも狭い住居に住んでいるなあ」という嘆息をもらす。私の北欧ショックの1つも住空間の広さであった。
したがって、住居をみる限り生活の貧しさを感じさせない。また、人間という側面、人間の3大欲望である食欲・性欲・集団欲(これは3大本能といわれるが)からいえば、老人になればなるほど、自然に貧しく迂遠になっていく。
QOLという側面からいっても、この3つが充足されるとき、人間は生きている実感と幸せを感じるのではないだろうか。
食欲については美味しく食べられること、性欲についても、年なりに満たされるていること、集団欲については、孤立せず家庭においても家族や友人によって守られ、孤独でないことだと思われる。
しかし、老いれば老いるほど、食欲は減退していく。食生活は生きるための、最小限度の生活条件であり、これを断つことはできない。
性の風景のある生活は、夫婦のどちらかが欠けると、性生活が貧しくなっていく。そのようななかでも性への好奇心や、セグシュアリティを失ってはならないと考えている。しかし、性生活を送るうえにおいて、これは必要条件ではない。性生活がないからといって命を失うことはなく、その意味で生命条件ではない。QOLを高めるためには、生きる歓び、生命のエネルギーとなるものであることから、望ましい条件といえるであろう。
老人に対する食生活については、配慮を払われるが、性生活については本音では、いやらしい、あってはならないものとして、拒絶されがちである。しかし、私たちの配慮のなかに入れておかねばならないのである。
老人ホームの経営者として、必して進めることはできないが、少なくとも温かい眼、温容な心で干渉せずに見守る度量がなければならないと思われるし、また老人ホームの住空間、すなわちプライバシーの守れる施設でなければならないと思われる。
集団欲、すなわち孤独の解消についても、自己努力が必要かと思われる。老人は、自己防衛本能が働き、自閉的になる。こちらから近付かなければ、近付いてはくれないのである。
家族や社会の温かいヒューマニズムがあり、社会機構のノーマラリゼーションが果たされねばならないと思うしだいである。





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