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高齢者ケア国際シンポジウム
第4回(1993年) 高齢者のクオリティ・オブ・ライフ(QOL)


第2部 特別講演  高齢者の生活の質(QOL)の倫理的考察

アメリカ・ロヨラ医科大学医療倫理学主任教授
デビット・C・ソマスマ
David C. Thomasma



人が「生活の質」というとき、自らの生活の質を自分の環境からつくり上げていくことは非常に重要なことだと思います。
ミヨン・コンデラという著述家が「ときを離れて生きるという自己がある。だれにでもそういうものがある」といっています。人は自分の歳を感じるのは例外的な場合だけであって、ほとんどは歳を忘れ、歳のない世界に生きているという言葉です。非常に名言だと思いますが、大体生活が忙しくて、これまで何年生きてきたかということはあまり気にしないものです。
老いとは、人間として成就するうえで最良の時期と成り得るときです。子どもや孫に愛情をそそぐという時期で、また自分が成し遂げた仕事などの喜びを味わうときなのです。
しかし、社会や個人にとって、必ずしもこのような理想的な構図が描かれるとはいえません。人は歳とともに精神的にも肉体的にも衰えていき、そして徐々に悲観的になっていきます。
家族はそのような高齢者のケアにかなりの時間をとられます。若い人たちは、ときには自分たちの生活に対する冒涜ではないかと。つまり、そうした衰えつつある老人たちにケアをするということは、若い人たちにとっては重荷と感じるわけです。しかも、老人は若い人たちの重荷にはなりたくないと考えます。また、社会生活でも衰えてきます。
現在、世界の高齢者人口は、人類史上初めて新生児数よりも多くなっています。われわれは老人になるための準備をしなければならないのです。そのときにどのような人生を送るのかを前もって自らに問いかけてみなければならないのです。
そして哲学的・論理的観点から、高齢者にとって生活の質とはなにかを問いかけ、分析してみることは価値のあることと思われます。
分析上の視点
高齢者の生活の質について道徳的な分析を行うためには、種々の方法がありますが、ここでは4つの可能性について考察してみます。
第1の視点は、基本的財貨とサービスです。すべての人が享受している基本的な財貨とサービスには、非常に広範囲な、すべてを包括するような意味と、制約的な意味、たとえば2,3の基本的なものしか考えない場合とがあります。
第2のQOLの視点は、自律性から考えることです。とくにわれわれは「質」とはなにかという意味が分かっていないのです。それは、パフォーマンスが最高であることをいうのか、それとも、常にパフォーマンスが一貫していることを意味するのか。客観的に理解することは難しいのです。個人的な観点から、自分にとってよい生活の質とはなにかと、各人がそれぞれにとらえることでしかないのです。
第3の視点は、価値観とヒエラルキー分析です。ヘルスケアの専門家と患者との関係には、4つの価値レベル(医学的指示、治療計画、患者の人生設計およびプロジェクト、患者の究極的価値)があり、その価値レベルから分析するという方法です。
そして、最後の視点は機能状態の分析です。ヘルスケアを本人の機能状態に基づいて考察することです。高齢者の生活および介護に関する決定は、本人の機能に応じて決定すべきであるということです。
たとえば、4つの分類があります。非常に元気な高齢者であるならば、それなりの機能的な目的があるし、また衰えつつある高齢者であれば、目的も変えなければなりません。さらに、神経学的に障害のある高齢者の場合は、通常のQOLはなくしてしまっているということがあります。その場合には別な目的を立てなければならないし、瀕死の高齢者に関しては別の目的を立てなければなりません。
基本的ニーズの分析
しばしば文献では、基本的ニーズに関する包括的なアプローチが分析されています。つまり、すべての人間が必要とする財貨とサービスは、それぞれの文化圏で違うわけですが、そうしたすべてのものを分析しています。
財貨、サービスのなかには、性欲、また可動性、旅行、買い物、仲間付き合い、近親者との結びつき、日々の生活などが上げられます。「生活の質」を定義する「よいもの」とは、枚挙にいとまがないほどあります。こういうものがほしい、こういうものが好きだというのはたくさんあります。しかし、こうしたカテゴリーの1つでも失うと、たとえば性という機能が失われれば悲しいし、悲観的になることもあるわけです。そこで、歳をとることで失われていくものを補充・修復することを社会的な目標として提案する。
しかし、こうした包括的な観点からみると、社会目標としてとても実行できない、あるいは実施できないこともあります。自分の障害に関して認識せず、すべてのよいものを望んでしまうということがありますが、個人的にはそのようなものを望んでも、社会的な観点からは満たすことができない。もし叶えるとなると、すべての専門家が必要になり、そして、介護、ケアに関する革命が必要になります。あらゆる社会、組織の取り組みが必要となります。
もう少し狭い意味から価値観を定義したほうが役に立つと思います。人間の3つの基本的ニーズとは、第1によき友、そして地域社会のサポートや支援、3番目には価値ある高潔な生活を送るための十分な資力、であるとトマス・アキナイアスはいっています。この最後のものを私はとくに強調したいと思いますが、たとえば盗んだりしないように、十分な生活の経済的な保障を得るということは重要であると思います。
この3つの基本的な介護のためには、ケアのネットワークおよび経済的保障が必要になります。高齢者の「生活の質」をおびやかす二大要素は、孤独、孤立と貧困であり、世界的な問題となっています。
介護、ケアの環境と経済的保障というのは、全世界の主要目標となるべきものです。老人たちが道路、橋、コンサートホール、教育施設等をつくったことにより、いま現在、われわれが楽しめるのです。だからこそ、彼らのこうした貢献に対して、世代間を越えて公正に扱おうとするし、またそれが当然なのです。
自主性分析
さらに、われわれの目標を少し狭めた目的として考えたとき、2つ目的にまとめることができます。まず第1は、ケアのネットワークの提供、そして第2には、経済的な保障の提供です。
第2の分析の観点は、自主性の分析です。高齢者の生活の質、QOLというのは、ある体の状態であって、その人の自立性のゴールを達成することを可能にする状態であるといえます。QOLというのは、その人が個人的にしか定義し得ないものです。
生活の質の定義とは、個人の自主的目標の達成を可能とする存在条件です。これをなくしてしまうと、人間としての基本的な感覚がなくなってしまいます。そして、自立するためには2つの重要な点があります。
まず第1は、哲学的な観点です。倫理または生命倫理ではこの自立論が最高であることを意味します。つまり、倫理的に第1に重要な原則なのです。エンゲルハルト・ジュニアというアメリカの学者が「自立とは、すべての倫理の可能性の問題である。また、ほかの人の価値を尊び、また自らの存在を倫理的な存在とすることだ」といっています。自立というのは、ほかの文化にはないようなものが自分の文化にあるといえるかもしれません。個人が決定し、個人が達成し、また自らの改革をすることも必要になります。つまり、すべての人間が自由であるというところから出発しています。
第2の観点、これはユリット・ベルグスマー教授がいう心理学的な考え方です。ここでは自立とは、個人が個人であり、個人が存在していくために、その人格を一体的なものとして、インテグリティーとしてとらえるということです。つまり、人間の生存、サバイバルのメカニズムに関係しています。
4つの存在の原則があります。それぞれが自立と呼ばれるものですが、ただ、哲学者にしか自立とみれないものもあります。
まず第1に、個人がどの程度将来のことを考えることができるかということです。自分のゴールを長期的に設定し、そのゴールが達成できないときには、それに従って自ら調整するということです。つまり、生涯の計画があり、しかもどのようなリスクがあり、どのような機会があるかということを前もって考えておく。もしその計画が達成できなかった場合にはどのようにするかを考えておくということです。
第2は、長期的なゴールがないような人たちがいます。むしろ長期的な目標を掲げることもなく、調整する必要のない人たちです。将来をどのように生きていくかの計画、準備がない人がいます。
また、長期的な目標を掲げていた場合であっても、どのようなリスクがあるかは考えず、リスクや人生の紆余曲折に自らを調整する必要を考えない人です。これはある意味では、精神的な盲目といえるかもしれません。
さらに、まったく長期的な目的がない人がいます。「なるようになるさ」というタイプで、そのときがくれば対応するという人たちですが、長期的な目的をまったく立てたことのない人たちです。このような人たちは常にぎりぎりのところで生きており、彼らにとっては、常になにか危険が起こりそうで、非常によるべない生活を生きているということになります。
つまり、人生の目標をなく、また人生の設計もないということです。長期の目標がなければ、それに調整する、適応するということもしない。現時点だけを生きることに汲々としている。たとえば、芝を刈って10ドルもらえる、10セントもらえる。もらえたら、ビールを買って飲んでしまう。たばこを買って吸ってしまう。将来の備えがない。だからこそ人に対しても、物に対しても、受容的、受け身なのです。将来のための計画などという気持ちも意識もないということです。
このように4つのサバイバルの方式があることから、行動も違います。よって、最初のカテゴリーである自立の方法だけが唯一の生き方とはいえないのです。
価値観の分析
次の分析のカテゴリーは、価値観の分析と位置づけてみたいと思います。治療的な関係では、医学的な目標を達成しなければならないものがあります。たとえば、糖尿の人で、腎機能も低下しているという場合には、血中の糖を管理していかなければならない。腎透析が必要になるわけです。
しかし、医学的な目標というよりも、高い価値がある治療計画というものから始めなければならない。治療計画というのはなにか。それは介護の目標だけではないのです。老人ホームあるいは家庭に戻せるほどよい状態にしようということです。
だからこそ医学的な目標が、治療的な計画の足を引っ張る場合には、その治療計画を優先、先行させるということになります。
ライフ・プラン(人生設計)のほうが医学的な目標,介護の目標、治療計画よりも優先されるべきです。たとえば、甥、姪に会いたいとするならば、それを優先させ、その周りに治療計画を立てるべきなのです。
最後の価値のレベルがいちばんたいせつなレベルなのです。たとえば、よい人間として生活をまっとうしたいというのであるならば、透析にかけるお金がもったいないというかもしれません。そのお金を地域社会に還元して、腎透析を受けずに死にたいという人もいるかもしれません。
93歳の農民がトラクターを運転しているときに心臓発作を起こした。腎機能が回復しなかったために、病院に行って、週3回透析を受けていた。非常に憂鬱な気分で毎日をすごしていた。そして彼は、その介護の目標および治療計画の一環である腎透析を中止し、死にたいといったのです。
倫理委員会のメンバーがコンサルタントとして彼と話をしたのですが、彼は「家内も死んで、子どもも生きてはいない。孫も死んでしまった。生きるだけが能ではない。犬だって死んでしまった。ちっとも分かってくれないね。愛するものがいなくて生きていて何の意味があるのか。天の報いを受けたい」といい、そして泣いたのです。
彼にとっていちばんたいせつな価値は人を愛するということだったわけです。愛する人がいなくなってしまったから、生きている意味がないと。周りの者がみんな死んでしまった。愛すべき人がいない。透析もいらない。死なせてくれということだったわけです。
人はそれぞれの生活をもっています。よって、その人が生きてきたあり様、その価値をたいせつにする必要があります。人間はそもそも精神的な領域から生まれたのです。親が子を欲し、産みたいと思ったその精神性から人間は生まれ、また生まれたことによって、その精神性が物質化したのです。そして人は育つうえで、まず細胞として胎児となり、そして生を受けて母体から離れ、さらに個体として独立します。物質生活の終わりでは、その精神性を再度獲得することが必要です。生命が、または人生が衰えるにあたって、物質的な面よりも精神的な面がますます重要になると思います。
日本映画の『生きる』で描かれているように、癌にかかったことを知り、死ぬ前に子どもたちのための公園をつくったわけです。市議会に訴え、その子どもたちの公園をつくった。公園のベンチに座り、雪の降るなか、この人は癌という告知を受けて、自分の人生に改めて生命の精神性の意味を復活させた。そして最後に公園をつくって死ぬ。
このように、高齢者を相手にするときに、その精神性と物質性の両方があるということを忘れてはならないのです。
人はそれぞれの歴史をもっています。重度の痴呆でなければ、すべての人は生きたという歴史をもっています。その人の人生においてどの価値がたいせつだったのか、それをまず知ることが介護の基本になるのではないでしょうか。
老いのどの過程であっても、これに遭遇すると思います。見知らぬ人であっても、その人の生き様、生きてきた道のりを振り返ることによって、その人を知ることができると思います。
そして、2つの原則がここで重要になってきます。
1つは支配の原則とよばれるものです。その人の人生に介入するとき、その介入した結果どのようになるかを留意する必要があります。患者の価値観へどのような影響が出るかという価値観評価をすべきです。
第2の原則は脆弱性の原則です。介入の成果というよりは、介入を受ける患者、その本人がどのような影響を受けるのか。家庭を離れて老人ホームに連れて行かれることになるのか。その人にとってそれはどのような意味をもつのかを考えることです。
機能状態の分析
最後の分析の手法は、機能別の分析です。老いる過程を私は、壮健な高齢者、衰弱しつつある高齢者、神経学的高齢者、死に行く人、の4つに分けています。
まず「壮健な高齢者」というのが第1のカテゴリーです。壮健な高齢者というのは、ミュリエル・ギリック博士のよび方に習うと、社会的な介入を受けずに独立した生活ができる高齢者をいいます。自宅で生活をして、周りに近親者が住み、日々の暮らしは自分でできるという人たちです。
65歳以上であるならば、なにか疾病、病気にかかっているかもしれない。予防や生活様式を変える必要があるかもしれない。投薬の必要があるかもしれない。これらの問題はあるかもしれないが、合併症等がないならば、活発に生活ができるわけです。もちろん、通常のセックス・ライフを含めてです。
私の知っている高齢者が、病院に行き、2つの苦情を訴えた。1つは、とにかく買い物ができなくなってしまったこと、そして2つ目は、アクティブなセックスができなくなったこと、だというのです。それが彼女の期待することであれば、それができるようにしてあげることが必要だと思うのです。
生活の質というのはどのような概念から出発しているのか。それは、人間は社会的な存在であるというモラリティーからきていると思います。だから、家庭で暮らすことができ、休日には旅行ができる。日々の必要は十分満たされる。会いたい親戚に会える。そのような社会的な存在であるということから生活の質の議論は始まると思います。
第2のカテゴリーとして「衰弱しつつある高齢者」です。人はだれでも衰弱します。徐々に老いる人と、急に老いがくる人とがいますが、老いを先取りする必要があると思います。
急激に衰弱した例として、80歳の老人の話があります。彼は、毎日1マイル、約1.5キロ程度歩いていました。その人が前立腺腫瘍の疑いから、生検を行うことになったのです。結果は正常であったのですが、その生検が原因で全身感染を起こし、敗血症による発作状態となり、そして腎機能が停止してしまったのです。4か月後、彼は奇跡的に回復したのですが、人工呼吸装置と透析だけは外せなかった。その彼が、「アイスクリームが食べたい」「人工呼吸装置は離してほしい、そんな様で生きたくはない」と訴えたのです。そして彼は、アイスクリームを片手に持ち、人工呼吸装置を外してもらい、死んでいきました。だれもが生検からこのような結果になろうとは思いもよらなかったのです。しかし、彼は自分の人生の価値を守って死んでいったのです。
次に徐々に衰えていった75歳の女性の話ですが、彼女はフロリダに度々遊びに行っていた。彼女は関節炎と骨粗しょう症が進んでおり、加えて高血圧を薬物で管理していた。ところが突如、鼻出血を起こし、止まらなくなった。そこで6日間入院し、新たな投薬により症状は安定したが、まもなく息切れを起こすようになった。さらに新たな合併症が加わったことにより、さらに1週間入院することとなった。そして、退院後も検査を重ねたのです。いまでは、好きだった旅行もアルバカーキーにいる姉を訪ねることもせず、酸素ボンベが用意された自宅から離れることを恐れているといった状態なのです。
このような人の場合、生活の質は明らかに衰えていきます。
第3番目のカテゴリーは「神経学的高齢者」です。神経的に障害のある人は別であると思われます。体がどのようになっているのかを客観的にみる。客体としてみる。手が痛むとか。その体、機能に1つでも欠陥があれば、完全な人間ではないということになるわけですが、今日の医療技術をもってするならば、人を特定の状況に凍結することができるわけです。凍結してしまうわけですから、その人は人でなくなってしまうわけです。
たとえば、神経学的に重症の人たちというのは、植物人間として凍結されてしまう。その人がQOLをもっているということは、おかしな言い方なのです。QOLというのは、意味ある生活をするからこそクオリティであり、自分のおかれた状況のなかで意味ある生活をすることがクオリティであるならば、そのような植物的な人間にしておくことはクオリティではないわけです。そのような状態にしておくことに意味があるのか。注射をして死ぬことを助けることもよいのではないか。痴呆症の高齢者の安楽死ということを積極的に考える人たちもいるわけです。
マーサ・ホルスタインは、老人ホームを巡回した経験から、痴呆に関して、「現在、社会が主流として考えている生命倫理のアプローチで痴呆の現象学が十分取り上げられていないのではないかと思う」といっています。
人間らしさとしてのQOLがなくなってしまったときにどのようにするべきか。介護、思いやりというその行為自体が、人間らしさの本質を提供するものでなければならない。フィードバックもない。「ありがとう」といってもらえない。こちらの思いやりも分かってもらえない。そのような状況で、理性を失ってしまった高齢者は決定を下せない、そのような能力がないことから、その人は愛も意識できないのです。
高齢者を、いかなる方法にせよ、介護するということは、人はなにかということの標準的な見方を考え直す契機になると思うのです。人間関係、愛情よりも、その人の決定能力とか道徳的な能力にだけ焦点をおいて社会は人を評価しているのではないか。
「私は屑なんだわ。屑かごにいるのよ」といった、アルツハイマーを患う50代の女医の言葉をホルスタインは書き留めています。社会は決して、決断力の有無、自立性の有無だけで人を評価すべきではない。むしろ人間関係を幅広く豊かにもち、人を愛する気持ち、人情などで社会が人を評価していれば、「自分は屑だ」というような自己評価を下す人はいないということです。
よって、QOLというのは倫理の問題なのです。人が決断をする能力があるかどうかということだけで評価せず、他人との関係、人との関係をどれだけ意味あるものにしているかということで人を評価すべきではないかと思うのです。
最後のカテゴリーである「死に行く高齢者」については、時間の都合から割愛させていただき、結論にいきたいと思います。
結論
私の友人ですが、90歳のときに彼女は「老いとは女々しさではないわ」と言い切っていました。彼女の言うとおりだと私も思いました。QOLというのは、それぞれのおかれた条件によって違うと確かに思うからです。朝食べて、昼食を待って、昼食を食べたあとは夕食を待つというような人たち、その人たちには人生から意味を引き出そうという努力が必要です。日常から意味を見いだす。
老人ホームにいる人たちは、家庭に住んでいたときには自分たちの思い出のあるものに囲まれていたのです。ところが、老人ホームに移ると、写真1枚しかない。洋服も何枚かぶらさがっているだけです。だから、人生がわびしいものになってしまっている。物もわびしい。そのわびしい環境のなかから、人生の意味ということを引き出すということは非常に困難なことです。行動も限られている。持ち物も限られている。すべてが限られているなかで、人生から意味を引き出すことは、静なるヘロイズムだといえるかもしれません。
われわれのほとんどが生涯の最後は限られた環境で人生の意味を引き出す英雄であることを要求されるのです。
アメリカの女性解放運動を30年前に始め、フェミニズムの先駆者であるベティ・フリーダンは、80歳で本を書きました。そのなかで彼女は、老いという暗さから高齢者を解放したいといっています。老いるという時期は創造性の時期である。人生により緊密な関係を人との間につくる時期であると。改めて人生の目的を考える時期であるというように、老いる時期を再定義したいとフリーダンはいっています。
アメリカの社会は非常に難しい。アメリカのテレビには、若々しい人たちがジョギングをしているとか、薬を飲んでいるといった広告がありません。老いるということをよくとらえている広告やカルチャー、文化は、どの社会にもあまりないと思います。
そこで提言をしたいのですが、将来の政治的な政策提言として申し上げるのですが、いままで話した道義や倫理というものを基盤にして高齢者対策を考えるべきであると思います。すなわち、人生の意味を引き出す環境をつくることが高齢者対策なのです。
物が限られてしまった人生の最後においては、寂しく、無価値の生活を終えるのではなく、価値を引き出せる環境をつくることが私は高齢者対策だと思います。
ご清聴ありがとうございました。





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