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高齢者ケア国際シンポジウム
第4回(1993年) 高齢者のクオリティ・オブ・ライフ(QOL)


第1部 基調講演  老人の生き方とクオリティ・オブ・ライフ

上智大学文学部教授
アルフォンス・デーケン
Alfons Deeken



私がクオリティ・オブ・ライフ(Quality of Life:QOL)に深い興味をもったのは、大学院時代でした。私はニューヨークの大学で哲学の博士論文を書いたのですが、夏休みにはシカゴに行き、私の伯母が園長をしている老人ホームですごしました。毎日、午前中と午後に博士論文を書いて、それ以外はボランティアとして働きました。そこで見聞きした高齢者のことをメモにしたのです。全員が70歳以上でしたが、その人たちの生き方の質について、感じたことを毎晩ノートに書きました。それが今日のテーマの出発点になっています。
そのときに気がついたのは、自分自身でQOLの改善に努力する人と努力しない人がいるということでした。
QOLはいろいろな観点から考えることができます。たとえば経済的自立ということ1つを取り上げても、住宅事情などいろいろ問題はありますが、やはり高齢者自身が自分のQOLをどのように改善したいと思うのか。その意欲を高めることが必要でしょう。
私たちは第1の人生で教育を受けます。第2の人生は働く時期といえます。そして第3の人生は定年退職後でしょう。いま、第1の人生での教育はほとんどが第2の人生における仕事のための訓練や準備のためのものになってしまっています。私がまず提案したいのは、第1の人生を第2の人生への準備ではなく、長い目でみて第3の人生のための教育も行うべきだということです。そのような意味で、高齢者自身はもちろんですが、それ以前から、私たちは教育を通して、より豊かな第3の人生のためになにができるかを考えなければなりません。
今日は8つのポイントからお話します。第1は時間意識の再考です。第2は役割意識の転換、第3は対人関係への反省、第4は価値観の見直しと再評価、そして第5は、必要でない思い煩いからの解放、第6は潜在的能力の可能性(ヒューマン・ポテンシャル)の開発、第7は死への準備教育(デス・エデュケーション)の必要性についてです。そのなかで、とくに配偶者の死に備える教育、つまり配偶者を失う前から、その後の人生についても考えておくべきです。そして最後の第8として、より豊かな第3の人生のためのユーモア感覚の勧めです。
時間意識の再考
哲学のなかでも時間はいつも重要なテーマです。シカゴの老人ホームで研究したときも、人間には、生活年齢と生理年齢、そして心理年齢の3つが、はっきり区別されていることに気がつきました。
まず生活年齢というのは、暦に従って数える年齢です。これはもちろん運命的なものといえます。毎年、誕生日になると、1つ、歳をとる。これは自分ではコントロールできないものでしょう。
ところが、第2の生理年齢は自分の健康管理によってかなり自己決定できるのです。もちろん100%とはいかないのですが。
いちばんたいせつなものは第3の心理年齢です。サイコロジカル・エイジ、これは自分で決められます。どのように心のなかで若さを保つか、あるいは自分はもう年寄りだと思い込んでしまうかは自分の心の態度で決めることができるわけです。
極端にいえば、生活年齢が90歳であっても、心理年齢がまだ若い人もいるし、若い学生であっても、未来に対して希望をもっていなければ、心理年齢はもう老人であるといえるのです。そのような意味で私たちは、時間に対する考え方、つまり心理的にいつまでも若さを保つことができるのです。
ギリシア語の時間という概念は2つあります。1つはクロノス。これは物理的、量的な時間です。もう1つはカイロス、これは質的な時間を表します。簡単にいえば、クロノスは月、日、分、秒で計れる「時」、すなわち量的な時間です。それに対してカイロスは、一度だけくる、二度と戻ってこない決定的な瞬間、かけがえのない、それぞれ独自の質的な「時」を指します。
私たちはこれからもっとカイロス的な時間の尊さ、各瞬間のもつ重要な意義を発見すべきです。どれほど長く生きるかだけではなく、いかに集中的に生きるかということをたいせつにしたいと思います。
私たちの客観的な時間と主観的な時間体験はまるで違います。たとえば、2時間、好きな人といっしょにコーヒーを飲んでいるときには、あまり時間を意識していません。しかし大雨のなかで30分間傘なしでバスを待っていたとすれば、主観的には非常に長く感じるでしょう。
多くの老人にとって、退屈は大問題です。朝食を食べると、後は昼食を待つだけ。昼食を食べ終われば、次は夕飯を待つだけという生活だとしたら、退屈で仕方がないでしょうね。そして孤独。ほとんどコミュニケーションがもてなければ、退屈と孤独は2つの大問題になるわけです。だから、私たちは創造的な余暇のすごし方を第1の人生(小学校から大学)から学はなければいけないのです。これは第3の人生への理想的な準備の1つだと思います。
創造的な時間のすごし方。ただ、何時間もテレビだけみているような受け身的な生活ではなく、自分の創造力を開発するような時間のすごし方が私の第1の提案です。
役割意識の転換
私たちは、第2の人生に当たる働く時期に一生懸命なにかをつくり出す役割を果たそうとします。定年退職後の1つの大きな危機は、いままでの役割を終えて、次の新しい役割が見いだせないことではないでしょうか。
私は今年の夏、ドイツとイギリスのホスピスを視察しました。そこでは、大勢のボランティアが協力して働いていました。たとえば、ドイツのアーヘン・ホスピスは、54名の患者が入院していますが、280名収容の老人ホームと廊下でつながっています。老人ホームの人たちは、毎日自然にホスピスの患者と接触して話し相手になっています。これは老人たちの1つの生きがいにもなります。老人ホームとホスピスとの間に温かい心のつながりができています。私は非常に感激しました。
私たちにとって、第2の人生の役割を終えた後の新しい生きがいの探求が必要です。たとえば、私は多くの医師から、日本でホスピス運動が盛んにならないのは、ボランティアがいないからだと何度もいわれました。しかし、日本にもボランティアをしたいと思っている人はたくさんいます。一般社会のなかにもう少しボランティア教育を行う場があれば、定年退職後にボランティアをしたいと考えている人は多いのです。私は上智大学でこの5年間、毎年ホスピス・ボランティア教室を開いていますが、今年も120人も登録しました。
もう1つの提案は、ぼけ老人を抱える家族のためのボランティア運動です。日本にはいま、100万人以上のぼけ老人がいます。私は、4〜5年前に、京都で開かれた「ぼけ老人を抱える家族の会」の全国大会で講演しました。家族の方は熱心に、自分のおじいさん、おばあさんを介護します。しかし、そのため5年も10年も、毎日、朝から晩まで、だれかがぼけ老人の世話をしなければなりません。これでは夫婦がいっしょにゆっくり旅行さえもできないということです。いつもどちらかが側についていなければならず、いっしょに映画や外食に出かけることもできないのです。
そこで私は、全国的なぼけ老人を抱える家族のためのボランティアのネットワークづくりを提唱しました。それは、金曜日の夕方から月曜日の朝まで、ボランティアが代りに介護するシステムです。家族にゆっくり休んでもらうためですが、ボランティアには新しい生きがいになります。私はどちらかというと、他人に迷惑をかけないという価値観よりも、積極的に他人の役に立ちたいと考え、思いやりや愛を示したいと思います。そのような意味で、私は高齢者にもボランティアとして、できることから始めてほしいと考えています。具体的に、どこで、いつ、どのようにボランティアとして働くことができるのか、そしてそのための教育の場を増やしていきたいということです。これは長い目でみると、高齢者にも1つの新しい役割意識を育てることになります。
世の中にはオプティミストとペシミストとがいます。歳をとるとペシミストになることが多いのです。同じものを見、同じ体験をしても、その受け止め方は全く違います。たとえばコップの水を半分飲んだとすると、ペシミストはいつも「もう半分も飲んでしまった」とがっかりしますが、オプティミストは「まだ半分ある」とニコニコします。歳をとると私たちはペシミストかオプティミストのどちらかのめがねをつけてしまうようです。同じことに対して、ある人は「良い」と感じ、ある人は「悪い」と感じます。コップ半分の水をある人は「有る」とみるし、ある人は「無い」とみるのと同じです。
そのような意味で、これからの高齢者の教育は、未来に向かって積極的でオプティミスティックな態度で生きるように、意識改革を勧めるべきでしょう。
いま、日本人の平均寿命は世界一を続けています。ほんとうにすばらしいことですね。日本の医療技術発展の賜物だと思います。最近の医学会の発表のなかに「どうすれば人間はもっと長生きできるか」というテーマがよくあります。私はいつも興味深く聞いています。ある発表によると、毎日泳ぐ人は平均寿命プラス6年半、毎日歌を歌う人はプラス4年半だそうです。そしてユーモアのある人はプラス5年半です。私はこれらをすべて実行していますので、全部足すと、いまのところ137歳になるようです。ほんとうに日本にきてよかったと思っています。
こうした生命の量、つまりクオンティティー、生命の長さを延ばすこともすばらしいのですが、これからはただどれほど長く生きるかというよりも、どれだけ生きがいのある人生をすごすかを重視したいと思います。アルフレッド・デルプは私が非常に尊敬するドイツの哲学者です。戦争中、反ナチ運動の精神的なリーダーとして逮捕され、37歳で処刑されました。デルプは哲学者であると同時に、カトリックの神父でもありました。
彼は、死刑になる前にこういう美しい文章を書き残しています。「もし1人の人間によって少しでも多くの愛と平和、光と真実が世にもたらされたなら、その一生には意味があったのである」と。彼ははっきり、人間はどれほど長く生きるかだけではなく、どれほど意義のある人生をすごしたかのほうが重要だといっています。
私たちも、年齢にかかわらず、「自分は今日1日、意義のある人生をすごしたかどうか」を基準にして反省することが必要です。私の今日1日の努力によって、少しでも多くの愛と平和、光と真実が世にもたらされただろうか。私は悪口をいって、対立の元をつくらなかっただろうか。または、私のペシミズムによって、自分の家庭を暗くしなかっただろうかなどと、反省するための基準になります。
生きがいのある人生とは、最後まで周囲の人に思いやりと愛を示す生き方だと思います。これが第2のポイントです。
対人関係への反省
第3のポイントとして、英語でいうファンクショナル・アプローチとパーソナル・アプローチの区別を考えましょう。これは私の恩師でもあったフランスの実存哲学者、ガブリエル・マルセルの説です。彼は、20世紀文化の危機の1つは、人間関係が機能的になることだとはっきり予測していました。機能的アプローチとは、私がだれかに会うとき、その人の人間性に会うよりも、その人を通してなにかの目的を達しようとすることです。つまりその人を機能として利用するのです。
たとえば、本屋に行くのは、本屋で働いている人との「我と汝の出会い」のためではなく、目的は本を買うことです。その本屋で働いている人は、機能を果たしているにすぎません。あるいは、タクシーに乗るのは、別にタクシーの運転手との人間的な出会いのためではなく、彼の車を使ってどこかに行きたいということです。
私たち20世紀の人間は、ほとんど毎日なにかの機械を使っています。その機械は、純粋に機能的なアプローチ、つまりこの機械が私の期待する機能を果たすかどうかで選ばれます。これは当たり前のようですが、機械の場合だけでなく、私たちは無意識のうちに人間に対しても同じような態度で臨んでいないでしょうか。この人は私のためにどのような機能を果たすかとか、あるいはどのように利用できるかを基準にしてしまう危険性があることを、私の恩師、マルセルは指摘しています。これは、20世紀文化の最も大きな危機といえるでしょう。
これを高齢化社会に当てはめてみると、少なくとも私たちは、中年期から少しずつ人格的なアプローチ、つまり相手に会うときは、機能的に利用するのではなく、ほんとうに深みのある人間的な出会いを実現しなければなりません。そのような生き方を身につけなければいけないと思います。
「出会い」という言葉は、とても美しい日本語だと私はいつも考えています。出て会う。自分の狭い殼から出て、人格的に相手に会うということです。
カナダのある調査で、高齢者に「現在なにについていちばん悩んでいるか」とアンケートしたところ、半分以上の人が「孤独」と答えたそうです。この回答からも分かるように、高齢者が孤独のつらさを乗り越えるためにも、人格的なアプローチによる出会いとコミュニケーションは非常にたいせつです。
老人ホームのなかでも大勢の人が孤独に苦しんでいます。いちばん恐ろしい孤独は、文字どおり1人であることよりも、他人といっしょにいながらコミュニケーションがもてないつらさでしょう。これは自宅であれ、老人ホームであれ、どこでも同じではないでしょうか。
そのような意味で、やはりQOLを高めるためには、人間同士のより深みのある出会いとコミュニケーションが重要なキーワードになると思います。
価値観の見直しと再評価
私たちは、人間の価値をその人の業績や社会的地位、名誉などで計ることが多い。だから、早く課長になりたいとか、部長になりたい、とよく耳にします。上智大学には、ただ一人例外がいます。実は、私のデーケンという名前は、オランダ語で「部長」という意味です。ですから、私は生まれたその日から部長なのです。
とにかく、世の中にはいろいろな価値観があります。課長になりたい、部長になりたい、学長になりたい、社長になりたい、それはそれでよいのですが、中年期の危機の1つとして、こうした外面的な価値観の危機があるのです。いままでもっていた価値観では不十分になってきます。さらに、第3の人生に入る前、定年退職のときにはまた、自分のいろいろな価値観を考え直さなければならないのです。
そこで私は1つの演習を提案します。たとえば「あなたがいまたいせつにしたいと思うものを10項目程度書いてください。そして、いちばん失いたくない価値を1番として、順番に番号をつけてください」。仕事や健康、お金や趣味、家族関係、宗教、社会的地位、名声、美、愛などが挙げられるでしょう。私は大学で1年生に哲学的な人間学を教えています。時々1年生にこのような演習をすると、ほとんど全員が「愛」に1番をつけます。
その後で私はいつもいいます。もう一度、自分を正直に見直してください。この1週間でどの程度おじいさん、おばあさん、あるいはお父さん、お母さんに、ほんとうに思いやりと愛を示したか。ほぼ95%の学生は消しゴムで1を消します。なにも行動で愛を示していないことに気がつくからです。なにも実践していなければ、自分のほんとうの価値観は愛ではないのです。ただカッコいいと思ったからにすぎません。
いまの自分にとって、なにがいちばんたいせつかを知るための最も簡単な基準は、この1週間、なにに対してどの程度の時間を費やしたかということでしょう。
高齢者に対してより温かい社会をつくるためにも、誕生日や夫婦の場合は結婚記念日、あるいはお正月など、毎年日を決めて価値観の見直しと再評価を行う習慣をつけましょう。それによって、少しずつ、第3の人生に向けてのしっかりとした価値観が身につくと思います。
必要でない思い煩いからの解放
先ほども話しましたとおり、私がシカゴの老人ホームで高齢者の生き方を勉強し始めたとき、老人たちがいかに心配性であれこれ思い煩うかに驚かされました。自分ではコントロールできない天気などについて、老人たちはいつも心配しています。明日雨が降るか、降らないかは、私たちでは絶対にコントロールできないことでしょう。それなのにどうして自分の貴重なエネルギーをそのために無駄にするのでしょう。
自分でコントロールできることと、できないことを区別して、自分がほんとうにコントロールできることだけを一生懸命行えば、QOLもかなり高められるのではないでしょうか。
たとえば、いまお天気の話をしましたが、私は絶対お天気については心配していません。私のスローガンは、「晴れてもアーメン、雨でもハレルヤ」ですから。
さまざまな必要でない思い煩いや心配から解放することも、高齢者のQOLを改善する1つのすばらしい道だと思います。
潜在的能力の可能性の開発
私は長年、ヒューマン・ポテンシャルということを勉強していますが、これは非常におもしろいテーマです。ユングというスイスの心理学者は、「普通の人間は自分の潜在的能力の半分、50%も使わずに置きっ放しにしている」といい、アメリカのウィリアム・ジェームスという心理学者は、「いままで自分の潜在的能力の10%以上を使っている人に会ったことがない」といっています。マーガレット・ミードは「6%が普通だ」といい、オットーという心理学者は『ヒューマン・ポテンシャル』という本のなかで、「5%だ」といっています。言い替えれば、大多数の人は、自分の潜在的能力の可能性の95%を使わずに、置きっ放しにしているということです。
1993年の8月にモスクワで開催された国際哲学学会のときにも、ある語学の専門家が、「自分の脳の半分だけ使えば、らくに40か国語をマスターできる」といっていましたが、これはほんとうのことで、私は40か国語を自由に話す人を何人も知っています。
今後の高齢者教育のなかでは、まだ開発されていない潜在的能力の可能性を開発することが1つの課題になるでしょう。その具体的な道は挑戦、チャレンジの機会を与えるということです。いろいろな人に挑戦する機会を与えれば、それに対する応戦として、いままでやらなかったことができるようになるのです。
私たちはこれから、ただ生きるだけではなく、生きがいのある創造的な人生をすごす必要があります。そのために、高齢者にもっと挑戦のチャンスを与えるべきではないでしょうか。
具体的な実例を挙げましょう。私は今年の8月にカルカッタヘ行き、マザー・テレサのホスピスで少し働きました。そこには1年間に1,500人のボランティアが世界中からきて働いています。日本人もたくさんいました。いまマザー・テレサの施設では、世の中から見捨てられて道端で死を待つ人たちを集めて、ケアしています。そのために、世界中からボランティアがくるのです。ここで働くことも1つの挑戦といえましょう。
もう1つ例を挙げます。私は1993年の9月にも、ロンドンの聖ヨゼフホスピスを日本人の医師や看護婦たちといっしょに視察しました。そこで私たちを歓迎する1人の詩人に会いました。彼女は、患者のなかの希望者に、俳句や詩を創ることを教えているのです。死ぬ前に、ラスト・ポエム、最後の詩を書き残すことを勧めます。そこで私は芸術的に自分の体験をきれいに表現している詩をたくさんみました。ここに入院している患者はだいたい3週間くらいで亡くなります。1905年にできた非常に古い、伝統のあるホスピスです。アート・セラピー(芸術療法)や、ミュージック・セラピー(音楽療法)が盛んに行われ、それが死に行く患者のQOLを改善するのに役立っています。
サンフランシスコのエイズホスピスでは、絵を描くことを勧めています。廊下に見事なラスト・ピクチャー(死ぬ前に描いた絵)が並んでいます。これもヒューマン・ポテンシャルを最後まで開発するための1つの具体的な挑戦です。
日本で、ホスピス施設を造ることもたいせつですが、これからは老人ホームや在宅の高齢者のために、音楽療法や芸術療法をもっと積極的に取り入れて、たとえば俳句を創るとか、絵を描くなどの挑戦を行えばよいと思います。
これからの高齢者教育として、もう少しそのようなチャレンジによって、いままで開発されていなかった、自分のなかの貴重なヒューマン・ポテンシャルを発揮できるようにすることが望ましいのです。
死への準備教育の必要性
「死への準備教育」は、高齢者のQOLを改善するためにも欠かせません。だれでもいつかは身近な人や配偶者を失う試練と自分自身の死に直面させられます。これはどうしてもやむを得ないことです。
先ほども話しましたように、いま日本人の平均寿命は世界一ですが、死亡率は100%です。だからこそ、死について考えなくてはいけないのです。
私の教え子の1人は、大学で死の哲学を勉強しながら、ボランティアとして東京の老人ホームで働いていました。あるとき老人たちに「あなたは大学でなにを勉強しているのですか」と聞かれたので、彼は「死の哲学を勉強しています」と答えたそうです。いままでそのホームでは、死についての話はしたことがなかったそうですが、毎月2人くらいは亡くなっているのです。それからは老人たちが1人ずつ「ちょっと話していいですか」と、この18歳の若者に、自分にとってふさわしいお葬式のやり方までいろいろ相談するようになったのです。
結局、老人たちはみんな死について、心のなかで考えてはいても、社会的なタブーによって、それについて話してはいけないと思い込んでいたのです。だから私たちは高齢者に、心のなかでの悩みや苦しみについてもっと自由に話してもよい、もう死はタブーではないと納得させることがたいせつです。
いま、日本も非常に変わりました。新聞も盛んにこのようなテーマを取り扱っています。1983年に私は「死への準備教育」について新聞に投稿したことがあります。これがきっかけで、メディカル・フレンド社から叢書『死への準備教育』の3冊を1986年に出版しました。私は、日本の文化史のなかで、1986年は1つの転換期、ターニング・ポイントの年になったと考えています。死のタブー化の時代から、死への準備教育の時代への転換期です。この年あたりから、死について自由に語り合おうという雰囲気が広がり出したのです。これは1つの文化的な革命だといっても、過言ではないでしょう。
特に、高齢者は独りぼっちで死について考えることが多いのです。しかし、そうした苦しみを自由に話せるようにすることも、高齢者のQOLを高めるための1つのポイントです。
私たちがコミュニケートしたいテーマは、大ざっぱにいって2つあります。1つはうれしいとき、喜ばしい体験があったときです。すぐにだれかに話して、相手がいっしょに喜んでくれれば、2倍の喜びを感じます。第2のテーマは、悲しいとき、苦しいときです。だれかが耳を傾けて聞いてくれたり、共感してくれる人が側にいれば、少しは楽になります。私の母国ドイツには、このような美しいことわざがあります。「ともに喜ぶのは2倍の喜び、ともに苦しむのは半分の苦しみ」。
夫婦の間でも、死について自由に話すことができればお互いにずいぶん楽になるでしょう。だから、私はプレ・ウィドウフッド・エデュケーションを提唱したいのです。なかなかよい日本語訳がないのですが、「配偶者の死に備える教育」、あるいは「独りぼっちになる前の教育」とでも訳しておさましょう。おそらく日本の既婚女性の90%はいつか夫を失うでしょう。日本人の平均寿命は男性が76歳で、女性が81歳ですから、結婚するときに年下だったとすれば、なお独りぼっちの期間が長くなります。伴侶を失うのは生涯でいちばん苦しい体験といえるでしょう。しかし、その一方でこの悲嘆のプロセスを乗り越えて成熟した人間になる可能性も大きいのです。1人になってからの新しい自由への挑戦です。以前にはできなかったことにも挑戦して、眠っていた
ヒューマン・ポテンシャルを開発するきっかけにすることができるのです。
「大きな苦しみを受けた人は、恨むようになるか、優しくなるかのどちらかである」。これはアメリカの哲学者、デューラントの美しい言葉です。苦しみは高齢者に必ずつきまといます。たとえば経済的問題や健康状態の悪化などいろいろあります。配偶者を失ってから周囲の人を恨むようになって、一生涯立ち直れない人もいます。しかし、自分の苦しい体験を通して、苦しんでいる人の気持ちをもっと優しく思いやり、愛を示すようになれる人もいるのです。
ユーモア感覚の勧め
QOLの改善はコミュニケーションがたいせつだと先ほども話しました。ユーモアはコミュニケーションに大きな役割を果たします。私は、相手に対する思いやりがユーモアの原点だと考えています。その点で、私はジョークとユーモアをはっきり区別したいのです。ジョークは言葉の上手な使い方とかタイミングなど、頭のレベルの技術です。ユーモアは心と心の触れ合いから生まれる愛の表現といえます。
これからは、愛と思いやりの具体的な表現として、高齢者にもユーモア感覚が大いに必要です。
ユーモアの出発点は、相手がなにを期待し、希望しているかです。老人ホームでも、家庭でもストレスの少ない、温かい環境をつくるためには笑顔やユーモアがたいせつです。私は時々地方の文化会館で講義をするのですが、駅を出ると、いちばん生真面目そうな中年の男性に声をかけます。「すみませんが、文化会館はどこですか」と聞きますと、たいてい“No speak English”といって逃げ出します。私は日本語で話しているのに、彼は私の言葉を全然聞いていないのです。彼はただ生真面目で、私の顔だけみて、あっ外人だ、英語を話さなければならないという恐怖に駆られたのでしょう。全然私の言葉を聞かないで、ただ逃げようとしたのです。
老人ホームのなかでも、ユーモアのない固苦しい人だと、ほかの人は避けるでしょう。ユーモアのある生き生きして、喜びに満ちた人であれば、みんないっしょに座りたがります。ユーモアは孤独を乗り越える積極的な生き方につながっています。
ユーモアについてのドイツで最も有名なことわざは「ユーモアとは、にもかかわらず笑うことである」といいます。その意味は、私はいま苦しんでいますが、それにもかかわらず、相手に対する思いやりとして、微笑みや笑顔を示しますということです。老人ホームでも、家庭でも、みんながもう少しユーモア感覚を磨くことによって思いやりや愛に満ちた雰囲気を豊かにできるのではないでしょうか。
時間になりましたので、これで終わりたいと思います。どうもありがとうございました。





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