日本財団 図書館


高齢者ケア国際シンポジウム
第3回(1992年) ゆとりある生活環境と自立


第1部 基調講演  高齢者ケア・私のみたまま、感じたまま

ノンフィクション作家評論家
上坂冬子



お早うございます。上坂でございます。
今日はその「ゆとりある生活環境と自立」ということを中心にこのようなお集まりを計画されて、専門家の方々がいろいろとお話になるというときに、私が基調講演などさせていただくのはほんとうに場違いだと思うんですけれども、全く素人の立場から今日の専門家の方々のテーマとは全くはずれるかとは思いますけれども私自身の経験を踏まえた上でお話を申し上げたいと思っております。
実は今朝の読売新聞の「顔」らんにも紹介いただきましたとおり、私はこのような大きなシンポジウムで、しかも自分の専門とは全くちがう老人問題についてお話を申し上げるのは初めてでございます。初めてなもんですからドキドキもしております。私はこれまで老人問題についてあまり大きな発言をしてはまいりませんでした。どうしてかと申しますと、実は9年前に母親を亡くしております。で、そのあと父親が亡くなりました。両親を見送ったことで私は大変心の奥で大きなショックを受けました。
母親の場合は交通事故でございました。昨日まで大変元気にしていた母親が今日から姿を消してしまったということで、私は実は2年間ほど人前にも出ませんでしたし、電話口ににも出ないというような生活を送りました。5年目ぐらいからようやく人中へ出るようになりまして、数えてみますと今年は母を亡くしてから9年目になります。9年目になって初めて母を亡くしたときのことを人の前で話ができるようになった、逆にいいますとその間とても自分の口からはお話しできないというような心境をもって過ごしてまいりました。こういう経緯から、1人の人間として親を亡くすということはどういうことなのかと、こういう立場から老人問題に敷衍して話をさせていただきたいと考えております。

人生の色を変えた、母の死
私の両親は年をとりましてから2人きりで暮らしておりました。父親は役人をしておりましたんですけれど、戦争が終わりましたときに公職追放令というのにかかりまして役所を追われてしまったわけです。でその後、愛知県の豊田市というところで商売をしておりました。商売をしておりましたんですけれども母が60代半ば父が70歳に入ったころから時々、父親がつり銭を間違えたりするようになったんだそうです。で、商売をやっているのはちょっと年齢的にもということになりまして、そのときに、じゃあということで兄弟みんなで考えまして、そのお店からちょっと離れたところにございます丘の上の隠居屋に両親を移したわけです。
そこで両親は2人だけで、楽しく暮らしておりました。私も幸せに暮らしているからいいものだと思いこんでいたわけでございます。でそれからどんどん月日がたってまいりまして、ときどき私の家へ両親を呼んだり、また私の兄弟が両親をいろんなところに連れていったりして、はたからみると幸せな老後を過ごしていたわけでございます。それこそ自立した老後を両親が過ごしていたわけでございます。その間だんだん両親が年をとってきたことは私ども兄弟みな感じておりました。お正月なんかに集まりますと「そろそろなんとかしなきゃいけないね」「そろそろ考えなくちゃね」と誰もがいうわけでございます。誰もがいうんですけど「んまあそのうちに」というのが結論になってしまって、みんなでそのような電話をかけたり、物を送ったりというようなことで両親を取り囲んでいたわけでございます。
私の家の話ばかりになりますけれども、私は大家族で育ちました。10人兄弟でございます。母親は何人かなんてよく聞かれるんですけども、母は1人でございます。昔の人は10人子供を生むと表彰されるなどという時期でこざいました。私の家の母はがんばって10人生みましたところで戦争が終わってしまって表彰はなくなってしまったというわけなんですけれども、10人おりまして独身で過ごしてまいりましたのは私だけでございます。で、そうしますと、それぞれ配偶者がございます。9人がそれぞれ配偶者を持っておりますんで、にくじゅうはちで18人、私を入れまして親の面倒を一応みる立場の人間が19人いたわけでございます。そんな中で両親がまあまあ健康に丘の上の家で暮らしていて、これからなんか考えなければとみんなでそろそろ話し合っていたときに母が亡くなってしまったというわけでございます。
年をとってまいりまして父親が時々原因不明の熱を出すようになりました。そのつど電話で、母から様子を聞き、「じゃ、大事にしてちょうだいねと」ということでその場その場が終わっていたわです。ところがある日また父が高い熱を出しまして、母親が夕飯がすんでから、解熱剤を用意しておこうと、薬を買いに表へ出ました。タやみがせまっていましたところを薄いグレーの着物を着た母が道を横ぎるときに、車にやられてしまったということでございます。
今でもそのときのこと−その電話がかかってきたときのことは、私はなるべく思い出さないようにしておりますし、9年たちましても、その当時のことはまだ詳しく皆さんにお話しする心境にはなれないような状態でおります。で、実際に連絡がまいりましてから、私はもうだめだと思ったもんですから兄弟たちがかけつけた中で、私はかけつけておりません。よく親の死に目に会えないのが非常に悲劇的のようにいわれますけれども、私の場合にはとてももうだめだという状態にかけつける気になれませんでした。もう少しはっきり申し上げますと、これはとんでもないこととお思いになるかもわかりませんけれども、母親の葬式にも私は列席できませんでした。とてもその場に居合わせる気力がありませんでしたし、だいいち立ち上がる力がなくなっていたわけです。
で、その日から私は大げさにいいますと、それまでの人生の色が変わってしまったという気がいたします。先ほどいろいろな本をご紹介いただきましたけれども、ちょうど私が新しいテーマを見つけて次の取材にとりかかって、いわば仕事の上で一番脂が乗っているときに母と別れたわけです。でそうしまして母が亡くなってから本が出版されまして、本来ですと非常にうれしいはずなんですけれども、私はその本を見たときに、まあ、紙くずか、木の葉かという気がいたしました。親をしっかりみることができないで、東京で夢中になって仕事をしていて、本ができ上がってそれがどうしたというのだ、という気がしたわけでございます。実際問題として、私が仕事に夢中になっていたために、母をいいかげんなことでうしなってしまったんじゃないだろうかと、そんな気持ちがいつまでも私の心にひっかかっておりました。今でもその気持ちを消し取ることができません。

電話では気づかなかった親の老化
実際に私はまあ一般的にいう親孝行なほうでした。親孝行というよりも、私自身がどこかでまた親にすがっているところがあったんだろうと思います。本を書くときにも、これができたら一番先に親にと、親がどういうだろう、どう思うだろう、ということが頭のどっかに働いておりました。
このごろはあまりテレビにも出ませんけれども、当時はよくテレビに出ておりました。そのテレビに出るのも田舎の両親に元気な姿を見せたいと、きっと親が喜ぶだろうと、いうようなことでテレビに出たりしておりました。ところが自分のほうから親にいろいろ通信を送るだけで、本を書いて親に見せようと、テレビに出て親にみてもらおうと思うだけで、親のほうからの反応をしっかりとらえることが私にはできていなかったんだろうと思います。ま、いろんなところに講演に行きますけれども、講演に行った先でホテルに入りますと、まず家に電話をしまして、今日はこちらに来ている、こういうめずらしい食べ物があったから送るというんで、地方のめずらしい食べ物なんかをしょっちゅう送っておりました。だいたい東京におりましても地方におりましても、朝晩、電話をかけて親と連絡をとっておりました。
母を亡くしてみてから思うんですけれども、朝晩電話をかけますと親は大変元気な返事をするわけです。「やあ、こちらは相変わらずだ」と。「今どこにいるの、あ、岩手県にいるの、昔お母さんも行ったことがある」と。そして「お父さんにちょっと代わるからね」と元気に応答するわけです。
それで、両親は元気にしているものだなと思って、私は講演を終えて東京の家にもどってくるという生活がつづいたんです。けれども、今から思いますと、これが大変な間違いだったなと、今ごろになって気がつきます。娘から電話がかかってくるということで、親はぐちは言わない、一番いいところをみせよう、というんで、いつでもきげんよく「こちらは大丈夫」「こっちは元気」という返事をくれていたわけです。
今ごろになって気がつくんですけれども、電話では親の老化はわかりません。むしろ実態以上に晴れやかな面が私のところに伝わってきていたわけです。私は単純なもんですから、あ、こんなに元気ならいいということで、自分も生き生きとして仕事に打ち込んでいたんですけれども、これがとんでもない間違いだったということが後になってわかりました。

花咲けど なぜか悲しき こぞの春
実際に親を亡くしてから家に行き、あとしまつをしてみまして、そのときに母が座っていた位置に座って窓の外を見ますと、ちょうどむくげの白い花のさかりのころでした。夜なんかそこに座って窓の外を見ると、月明かりに白い花がこう咲いているわけです。で、そこに座ってみて初めて母の気持ちが深々と私の胸に迫りました。亡くなったのがあと一息で76歳になるというときだったんですけれども、76歳を間近にしながら、夜父が早く寝静まって、母が1人でここでテレビを見ながら窓の外をふっと見たときに、白いむくげの花を見たときに、どんな気持ちがしたんだろうかと……。丘の上ですから物音ひとつしておりません。そんな中で1人ポツーンと年寄りがどんな気持ちで過ごしていたんだろうかということが、実際にその場に座ってみてからわかったわけです。
まあ迂闊なことだったんですけれども、私はちっとも気がつかなかったんですが、母は毎日、日記をつけておりました。すぐそこの本箱に立ててあったんですけれども、私はたまに帰りますとうれしくておしゃべりばかりしてしまって、その本箱に日記帳が立ててあることも気がつかずに帰ってまいりました。亡くなってから母の日記帳を見てみました。毎日の変化がいろいろ書いてございます。で、その中に今でもはっきりおぼえておりますのが、いろいろと俳句が詠んでありましたんですけれども、春の号を見ましたところが
「花咲けど なぜか悲しき こぞの春」
と書いてございました。大変花の好きな母親でございました。今日はどんな花が咲いた、あんな花が咲いたと、私には電話でうれしそうに連絡してくれたんですけれども、実際に1人になって夜日記をつけるときに、花は咲いたけれどもなんとなく今年は心が浮かない、「なぜか悲しき こぞの春」と書いてございました。もし近くにいたなら、こういう母のしのび寄ってくる老いに対する変化が私にはわかったはずなのに、東京で電話線を頼りに話をしてたんじゃあ、こういうところは酌み取れなかったなあと、私は思ったわけです。いくつかの本を見ながら、こんなものを書いていったいなんだったんだろうかと、私の人生はなんだったんだろうかと、大変後悔をしたわけです。

親の老後をみることは人生の基本
実際にそれでは親をどういうふうにみればよかったかということはまた別問題かと思いますけれども、とにかく仕事なんかなげうって母親のそばにいてやればよかった、両親のそばにいてやればよかったと、私は思ったわけなんですけれども、それは親孝行とかなんとかではなくて、今になってこんなに後悔するくらいだったらば、自分のためにも、親のそばにいて最後まで自分の納得のゆくまで、親の面倒をみればよかったなあーと私は改めて思ったわけでございます。1人の人間として1人の人間を見送るということが、人間の一生にとってどれほど、見送る側も見送られる側にとっても大事なことかということを、とりかえしがつかなくなってから気がついたわけでございます。
実際にああすればよかった、こうすればよかったということがいくつもあるんですけれども、基本的なところでは私は仕事なんかなげうってゼロにしてもいいから、親の老後をきちっと看取ることができたら、私自身がどんなに満足する人生を送れただろうかと思ったわけでございます。ま、なんでもないことのようですし、古い新しいで言えば、私の申し上げていることは古いことかもわかりません、がしかし私はこの問題は古いとか新しいとかの問題ではなくて、人間が生きていく上での基本的な一番大事なポイントの1つではないだろうかと考えているわけです。
老人問題をどう考えるか、高齢者社会にどう備えるか、というようなことを色々検討するのは、まことに結構なことだと思いますけれども、社会科学では御しきれないポイントが、私はこのテーマには残るだろうと思います。老人問題というのは社会科学的にどう解決するかという問題と、人間の本性としてどう対処してゆくかという問題の二本立てで考えなければ、完全な解決はできないんじゃないだろうかと、もっとくだいて言いますと、高齢化社会をどう生きるか、高齢化社会にどう対処するかという問題をつきつめてゆきますと、子供が親の面倒をどこまでしっかりみるかという問題につきると思います。
一人一人が親をどこまで、親の人生の最後をどこまでみとどけるかということを、改めて問い直した場合には、高齢化社会の問題の少なくとも半分はかたづくんじゃないだろうかと、私は自分の後悔を踏まえてそんなふうに考えております。あの時ああすればよかった、この時ああすればよかったという悔いがその後の私の人生をどんなに停滞させたかということを考えてみますと、それと引き換えに自分の若いほうの人生をなげうってでも年寄りに尽くしたならば、年寄りも若いほうも両方救われるのではないかと、私はこんなふうに今結論づけているしだいでこざいます。

どんな辛いことも胸の奥までは響かない
でまあ、母親が亡くなってから今度は父親が1人残されたわけです。父と母は6歳ちがいでした。私どもは一応みんな兄弟でそれぞれ両親の老後について話し合っておりましたけれども、その場合に無言のうちにお父さんが先だろうと、みんなが思っていたわけです。ですけれども、ま、人生にはいろんなことがございまして、逆になることもあるわけでして、私たち子供にとりましても意外な事態に立たされたわけでございます。
先ほど母の死に目に会いに行かなかった、葬式にも出なかったと申し上げましたけれども、もちろん私は東京にじっとしているつもりでした。じっとしているつもりでしたけれども、考えてみますと父親が今どんな気持ちでいるだろうかと思ったわけでございます。それから1日おきまして私は田舎にとんで帰りまして、葬式の間中父を介護する役についたわけです。もちろん私の父は元気でございまして、私共の田舎のほうでは、逆になった場合(父親のほうが年が上ですから、父親が先にまあ自然の流れでいきますと亡くなるわけですけれども、これが順序が逆になった場合)には、父親は葬式に出なくてもいいということになっております。父親は私が思っていたとおり、お寺の控え室におりました。
その控え室に私が駆けつけたわけです。兄弟はみんなお葬式のほうに出ますので、父親は1人で控え室にいるだろうと思ったとおり、ポツンと父が控え室におりました。私が入っていきますと、ホッとしたような表情をいたしました。私はなんにもその話にはふれずに「今東京から着いたんだ」と言いました。そして東京から買ってきた物なんかを少し並べました。私の父は40代の時に一度くも膜下出血で倒れております。その後遺症があるわけではないんでしょうけれども、まあ時々年をとってからフワッとすることがございました。その日も私が思っていたよりも落ち着いた表情で、母のお葬式のことには何もふれませんでした。私がいろんな話をしますと、ボアーッとしたような表情でいちいちきちっと答えました。きちっと答えたんですけれども、ところどころつじつまが合わないわけです。私はこれはもし、くも膜下出血の後遺症が今出ているなら、これは救われると思いました。
私は父親を少し休めようと思いまして、そばにあった座布団を2つに折って「ちょっとお父さん、ここに横になって寝たら」と言いましたところが、父は「そうしようか」と言って控え室でごろんと横になったわけです。
で、父親が横になって私の顔を見上げまして「君は芸者になるとよかったねえ」なんて言うわけです。私はびっくりして「ま、どうして」と言いましたところが、父は「男を寝かせるのがうまいから」なんていうわけです。
私はキョトンとしたんですけれど、これが本気で言ったのか、ふざけて言ったのか、自分も辛いんで辛さかくしに言ったのか、いまだにその辺のところがよくわかりません。ニイーッと笑って「男を寝かせるのがうまいから」なんて言うわけです。そうしておいて、また、まじめな顔になって、下から私を見上げるようにして「年をとるということは有り難いものだと」。
「どうして?」また私が聞きましたところが、「どんな辛いことがあっても胸の奥まではドォーンと響かない。若いころは、ちょっとしたことでも胸の奥までビィーンと響いたものだけれども……、年をとるということは有り難いものだ」と。
「どんな辛いことでも、胸の奥底までもう響かなくなった」というわけです。
これはおそらく本心だろうなと私は思いました。本心だろうなと思ったんですけれど、81歳の父親が自分の心の中をこんなふうに分析してみせたわけです。年寄りというのはボアーッとしているように見えても、恐ろしいほど冷静な分析ができるもんだなあーと、私は改めて81歳の父の存在に注目したしだいです。「胸の奥まではドォーンと響かん」と言いながら、おそらく「お父さんは大丈夫だよ」ということを言いながら、むしろ私を励ましてくれていたんじゃないだろうかと、今になって、これも私は気がつきました。ま、母親に急に先立たれて意識朦朧の父親が娘に対して、「お父さんは大丈夫だよ」ということを、こういう恰好で伝えたんじゃないだろうかなと、私は思っております。

連係プレーで楽しんでいた両親の人生
実際に父親は非常に健康でしたけれども、母親とこう一対になっていて初めて健康が保てたんだろうと思います。私の父と母は非常に対照的な性格でした。父は外向きの明るい性格です。母は外に出ることがあまり好きじゃありませんで、非常におとなしいタイプでした。例えば、老後いろいろと地域でいろんな会合があるわけです。でまあ俳句の会なんてのがあるわけです。父は人の集まりに出て行きたくて仕方がないわけです。ですけれども父は不器用で俳句なんてつくれません。
母は表へ行くこと、人中へ出て行くことは嫌いなんですけれども、俳句をしっかりつくって1人で詠んでいます。そこで、地域で自治体の主催の句会なんてのがありますと、父はどうしたかと申しますと、母につくらせてそれを自分の作品のようにして表へもって出る、まあ両方で連係プレーで楽しんでいたようでこざいます。実際に私がこの目で目撃いたしましたのは、月に1回の句会に出かける父が玄関のとこで、仕度を全部済ませて母に向かって「まだできんか、あと1句だ」なんて言っているわけです。でまあ宿題を全部揃えて母からもらって父は出て行って、今日は丸だったバツだったといって元気に帰って来るというような生活をしていたわけです。
母が亡くなってからはそういう連係プレーはできませんし、それまで2人で生きておりましたのが、これからどうするかということになったわけです。先ほど申し上げましたように、私の家は年寄りをみる立場の人間が19人いたわけです。19人おりましたんですけれども、父が1人になったときに、なるほどこういうものなのかと私がつくづく思いましたのは、じゃ誰がみるのかといった場合に、私は別としまして、18人のうち「じゃ私がみます」と言った人間が1人もおりません。私の家の兄弟はそれなりに両親をそれぞれ思っておりました。世間でいう親孝行という範疇には入っておりました。それぞれ父をみながら大切に思って父の老後をなんとかしてやりたいと思っていたんですけれども、いざその事態が来てみますと、18人の誰もが「じゃあうちへ」と言い出した人がいなかったわけです。誰もがそれを言わなかったわけです。そればかりか、「お前んとこどうだ」なんて言いまして、みなそれぞれ「俺んとこはだめだ」とか「お前んとこどうだ」というような言い方をしておりまして、ふだん両親を大切にしている兄弟の姿を見ておりましただけに、私は現実をみせられたような気がいたしました。

弟夫婦と3人で父をみることに…
けれども私自身それじゃ父を東京に連れてくるかということになりますと、ちょっと待てよとひるむ気持ちがございました。私自身のこともありますけれども、81歳になった父を今動かしたら、結果としてはおそらく悪い結果になるだろうと、もうちょっと前ならばよいけれども、老境に達してから場所を動かしてはまずいだろうと思ったわけです。結局どうしたかといいますと、父がやっておりました商売を受け継いだ一番末の弟が父の家の近くに住んでおりましたので、その弟が通い詰めるということになったわけです。父はこの場を動きたくない、夜が危ないということで、その弟とその嫁とが交代制で泊まり、その間私が東京での仕事を済ませてから東京から通う…、とにかく3人でとりあえずこれでやってみようということになったわけです。それで、父はそうしますと、少なくともそれまでの生活の場所だけは保つことができるわけです。
父はいつまいりましても、淡々として決まった椅子で決まった位置に座って、いつものようにテレビを見ておりました。ちょっと余談になりますけれども、そのときにテレビで老人ボケの特集を随分長々とやっておりました。父は黙ってそれを見ておりましたけれども、私はやっぱりああいう番組というのは、老人が寝静まってからしてくれないものかなあと思いました。父はなんと思って見ていたか私はわかりませんし、私もその番組を見た父に、どう思うなんていうことを話しかける気にはとてもなれませんでした。父が一生懸命見ているもんですから、その場をそおっとしておくしかないと思ってそのままにしておりました。けれども、あれはちょっと残酷な風景だろうなあと、私は思ったわけです。
3人の連係プレーで父をみておりますうちに、だんだん父が弱ってくるのがわかりました。そのうちに、若いころの後遺症なのか、ある日家の玄関の前で父がうずくまっていたそうです。そこにやって来た一番末の弟が声を掛けたときに意識が朦朧としていたということで病院に入りまして、まあ脳血管関係の病気だろうと思います。しばらく入院していましてから元気になって退院してまいりました。その後出たり入ったりということが繰り返されたわけです。でその間に老いてゆく父親というのを東京から通っていて見詰めることができたわけですけれども、ふだんは日常生活には差し支えない状態でございました。ごはんもおいしいおいしいといって食べておりました。おいしいおいしいと食べておりましたけれども、ある日、私が台所で茶碗を洗っておりましたところが、そこへ父がスーッとやってまいりました。パッと私が見ましたところが、目の前の棚の所に中性洗剤があるわけです。きれいな色をした中性洗剤です。私の横にスーッとやってきた父が、スーッと手を伸ばして、その中性洗剤をぐっと飲もうとしたのです。私がびっくりして「お父さん何やってんのそれは石けんなのよ」と言いましたところが「ああそうかい、うまそうな石けんだなあ」と。たしかに言われてみますとおいしそうな色をしております。このあたりからだいぶ父が弱ってきているなあと私も感じておりました。
 
「年寄りはハメを外すなということだな!?」
そのころには弟がしょっちゅう通い詰めていました。父は白内障でソフトコンタクトを目に入れておりました。歯はもちろん入れ歯です。
その父がテレビを見ているときなどに、不意にコンタクトや入れ歯を外してその辺に置くというしぐさを始め、それが癖になりました。入れ歯を外してテレビの上にポッと置く、まあ入れ歯のほうはいいんですけれども、ソフトコンタクトを外してその辺にポンと置きますと足元のじゅうたんの中に入って見つからなくなってしまうわけです。ある日私が見ているところで、弟とその嫁が一生懸命になってじゅうたんの中を捜していました。「何捜しているの」と私か言いましたところが、「2万円捜しているんだ」と。当時まだソフトコンタクトは1つ2万円だったそうです。「2万円を捜してるんだ。お父さんすぐこうやって外してしまう癖が付いて困るんだ」と。そして、「これ何遍も、1日に何遍もこういうことがあるから、見つかる場合はいいけれども、見つからない場合はほんとうに2人でこうやって捜さなきゃならない」と。
「ね、お金私が出すから、もうそんなコンタクトたくさん買っておいて、落とすごとにまた入れてあげてちょうだいよ」と私が言いましたんですけれども、弟夫婦は「それもいいけれども、お金の問題じゃない、やっぱりもったいないから」と。
父はコンタクトを外すとテレビは見れないはずなんですけれども、相変わらずテレビをジーッとこうして見ております。「お父さん、このコンタクトレンズはずうっと1日目に入れても害にならないから、こうやって勝手にとっちゃだめだよ」と。「ついでに言うけれども、この入れ歯もこんなところにパカッと置いておくと、もしよその人が来た場合には気持ちが悪いと思う、家族はいいけれどもほかの人が見たら汚いなあと思うから、入れ歯も寝るときまで外さないように」と、弟が控えめに父に言ったわけです。
そうしましたところが、わかるのかわからないのか、ポーッとした表情でテレビに目をやっていた父が、にこっとして弟の顔を見ました。「要するにお前が言いたいことは、年寄りはハメを外すなということだな」と。
これには参りました。私も弟夫婦もキョトンとして要するに言いたいことは年寄りが歯目を外すなと言うことだなと、いちいちこう歯と目を指さしてやったもんですから意味がわかったんですけれども、歯目を羽目にひっかけてシャレを言ったわけです。ポーッとしてテレビを見ている父を見て、半分ぐらいわかっているのか、あるいはわかっていないのかと私たちは思っていたんですけれども、このシャレには一本参リました。年寄りというのはポワーッとしているようだけれども、どっか一点こんなに覚めている面があるのかと、つくづく私は思ったしだいです。

脳外科病棟で死期を迎える父と…
その後、何度も入退院を繰り返しましてから脳外科関係の病棟に入りました。床に就き始めますと、やはりポワーッとして過ごすことが多くなりました。脳外科関係の病棟の診察というのは毎日決まって「おじいちゃん、今日は何月何日ですか」「おじいちゃん、いくつですか」「おじいちゃん、子供何人いますか」というようなことを、決まったパターンがあるんだと思いますけれども、毎日同じことを聞きに来るわけです。
私たちはそばにいると、毎日同じことばかり聞いてと思っておりました。けれども2〜3日は父親ははっきり答えていました。「今日はえーと何日だったろうかな」、カレンダーに目をやりながら答えた日もあります。で、「おじいちゃん、子供は何人ですか」「おじいちゃんの年はいくつですか」と聞かれて、一生懸命工夫して答えておりました。
調子のいいときは言い返すわけです。「君、昨日もそれを聞いたじゃないか」と。「そんなことを聞いてなんの意味がある」なんて答えるわけです。そういうので病状を計るのかと思いましたけれど、やっぱり年寄りにもばかにするなというような表情があるのがわかりました。
「そんな質問には答えん」といった日もございました。ポワーッとした日とはっきりした日が入り乱れてだんだん父は死期を迎えているんだなあと私たちは思っていたわけです。結局最後は胆管が詰まって胆汁がうまくでなくなり、それが命取りになってしまったわけでございます。最終的には、意識不明という状態が長くつづきました。
このときも、私はもうこれはどんな手を尽くしても駄目だと思ったときに、取材で奄美大島まで抜け出しました。やっぱり父の最後を看取るという気にはとてもなれませんでした。兄弟たちがそれまで私が外の仕事をやめてずっと父のそばに付き添っていたのを知っておりますんで「最後は俺たちが代わるからいいよ」と言って交代してくれました。私がとても父の最後をみていられないという気持ちを理解してくれましたんで、私は奄美大島に抜け出したわけなんです。

父をベッドに必死で縛り付ける
母のときと違いまして、父のことを思い出すときには、私は割合気が軽いんです。と申しますのは、脳血管関係の病気の方にはよくある症状なんだそうですけれども、私の父も夜になると起き上がる、大きな声を出す、暴れる、というような症状が出始めました。でそのときに昼間ずっと付きっきりで看病しております私としては、とてもこれは付さ合いきれないわけです。でいろいろ口で言って回りの病棟にも迷惑だから大きな声を出しちゃいけないとか、立ち上がっちゃいけないとか最初は言っておりましたんですけれども、とてもこれではもう解決がつかないと思ったときに、父の両手足をベッドに縛り付けました。
最近ではこんな様子がテレビで時々放映されますのでご覧になった方もおありかと思いますけれども、まあ痛くないような太い紐で両足をそれぞれベッドに縛りまして、両手もそれぞれ縛り付けまして、そしてとにかく寝てちょうだいと言って体をこうさすっているうちに父のほうも眠るという日が何日もつづきました。大変酷なようですし、父も「何をするんだお前は」と最初は大変怒っておりましたけれども、そうしなければ私自身明日の看護はできないと、もう必死で私は縛ったわけです。時々最近テレビでそういう場面が出てまいりまして、恐らく私は自分がそれをやっていなければ、年寄りに対してなんと残酷なことをするんだろうと、批判の側に回ると思いますけれども、ああいう場面を見て私は、あれは無理もない、ああやんなきゃ……そばにいる人ご苦労さんという気持ちで見ております。見ておりますと同時に、私自身があの場面から目を反らさずにテレビを見ていられるというのは、ああいう場面を私自身が父に対して行ったこと、父の両手両足をベッドに縛り付けたのは私自身だったということで救われているわけです。
ほかの方にやっていただかないで、私が納得して父をベッドに縛ったんだ、あれはあれで仕方がなかったんだと、短い期間でしたけれども、自分の手で父をみたということによって気持ちがこんなに安定しているものなのかと、気持ちがこんなに救われるものなのかと、私自身は体験したようなしだいでございます。

親をみることは結局自分自身のため
実際に自分が手をかけて老後を見送った父と、自分が全く手をかけずに電話をかけただけで終わらせてしまった母との間には、私自身にとってこれだけの開きがございます。こう考えましたときに私が思いますのは、やっぱり年寄りの面倒をみるということは結局誰のためでもない自分自身のためなんだなと。父の場合に私がこれほど救われるということは、自分としてできるかぎりのことはやったと、このことによって子供のほうが得難い満足を得られるわけです。そうでありませんと、なんにもしてやれなかったということで、子供のほうが生涯拭いきれない負い目を負うことになります。老人問題の一番のポイントとして外してはならないこの点を、私は今になって気が付いているということをご報告申し上げたいと思います。
それではどうすればよかったかという問題がひとつ残るわけです。どうすればよかったかということは、理論的でなく、私は両親を亡くしてから毎朝新聞の間に挟まれてくる建て売り住宅の間取り図なんかを無意識のうちに自分でこうじーっと眺めている自分に気が付くようになって感じました。兄弟なんかは「何、もう1軒姉さん買うの、独りもんが2軒も3軒も買ってもしょうがないよ」なんて言うんですけれども、私はまー口には出しませんけれども、2世帯同居住宅を無意識のうちに見てるわけです。今でも後悔を拭いきれない、あのとき2世帯同居住宅を求めて、私と両親とが同居するのが一番良かったんだなあと、私は心のどっかでこの悔いがあるわけです。

親子の同居に最終的な救いが……
無意識のうちにその新聞の広告を見てしまうのでした。実際に同居していれば両親の老いというのが、私なりに観察できたんじゃないだろうか、こういうとこに座わって、こういうとこからこういう角度で、夜、白いむくげの花を見たらどういう気持ちになるかということも、もし同居していればわかったんじゃないだろうか。私は両親を亡くした途端に、仕事なんかなんだと、東京で仕事なんかしているのがいったいなんの意味があるのかと、ある程度親が年をとってきたら、子供は仕事なんか全部なげうって親の元に行って一緒に暮らすべきだと、私は結論づけたんです。
けれども、少し冷静になってみますと、そうも言っていられない、何よりの証拠に私の兄弟、標準より親孝行な者ばかり揃っていると思うんですけれども、18人が父を囲んで「俺がみる」とは言わなかったわけです。それぞれの生活があるわけです。それぞれの生活があった場合に、じゃあ年寄りのほうも若いほうも両方が納得するにはどうしたらいいだろうかと思いますと、やっぱり同居が一番いいだろうと思います。
まあ、私がこんなことを申し上げますと、同居といってもお嫁さんと気の合う人と合わない人とあるから、おばあちゃんとうまくいかなかったら、中に入った旦那さんが困るからなんていう説もありますけれども、私は、まあ独身の立場からその辺のところは、あんまり微妙なことがわからないということもありますけれども、自分の後悔も色々含めまして、あっ、そういう嫁はつまみ出せばよろしいと、嫁の替えはあっても親の替えはありませんなんていう乱暴な方法を口にいたします。口にいたしますけれども、それは冗談としても、けんかしながらでも、私はやっぱり親子が同居するということによって親も子も最終的には救われるんじゃないだろうかと思っております

利用しやすい看護や介護の施設の充実を…
それと同時に私自身が慌てて父の面倒をみて、今度は後悔しないようにと思って父の面倒をみたときに、一番困りましたのが、老人に対する専門的な知識がないことです。あるいは病人に対する専門的な知識がないことです。ずうっと父に付き添っておりましたんですけれども、父はふだんから機嫌のいい人で、何を食べさしても美味い美味いと言って食べるわけです。ひどいときなんかまだ口に入れないうちに、美味いなんて言っているわけです。そのくらい積極的な人生を歩んだ人なもんですから、私もついついつられて食べるだけの物を食べさせました。
結局、お腹をこわさせたということが何遍もあります。お水をどんどんほしがるもんですから、お水をどんどん、じゃあもう1杯もう1杯とあげているうちに、お水を吐いたなんてこともあります。そういう基本的なところで、全く私は無知だったわけです。
こういうときにはどういうふうに対処したらいいかという専門知識がないことを非常に残念に思いました。
今日お集まりのみなさん方の中には、専門知識を持ってお年寄りをお世話してらっしゃる方がたくさんいらっしゃると思いますんで、私は自宅で年寄りを介護する人たちにもいつでも聞きに行けるような、そんな老人ケアの専門家の方たちの待機してらっしゃる場所があったらどんなにかいいだろうな、電話一本でこういう症状になったんだけれどもどうしたらいいかと聞けるところが、窓口があったらどんなにいいだろうかなということも考えております。
実際問題として私の父がもしあれからずうっと長生きしていた場合に、じゃあどういうことになっただろうか考えますと、おそらく私も自分の人生を全部捨てるというわけにもゆかず、またそろそろ仕事のほうを片手間にしてでも何かやってみたくなるだろうと、父の看護をしながら、片手間に自分の仕事も取り戻すような、取り戻したいような気分になるだろうと…。そうなった場合に一時的にでも父を誰かがみてくれないか、どっかに預かってくれないかという要求が出ただろうと思います。そういう基本的には子供がみるけれども、その基本的な状態を踏まえて手助けをしてくれるような看護の施設、介護の施設というものがあったら、どんなにか良かっただろうなと、私は今になって色々と考えているしだいでございます。

老人が人の輪の中でマイペースの人生を!
私自身はまあ親の面倒を十分にみることができませんで、自分の悔いを込めて、ああいうことがあったらいい、こういうことがあったら良かったと今になって色々考えているしだいですけれど、これからは、幸か不幸か日本の景気もだんだん低調になってきた、日本の経済成長もテンポが遅くなってきたということを聞くにつけましても、私は老人の介護は基本的には子供が親をみるという一本の柱を大切にしてゆきたいと思うわけです。子供が親の面倒を一生懸命みもしないで、難民を助けようなんていうところに今ちょっと目がゆきすぎているんじゃないだろうかと、基本的なところで自分の親は自分がみると、血のつながりのある者がその血のつながりを大事にして人間が人間を見送る、という体制を取り戻してゆきたいもんだなと、私自身の後悔を込めて今場違いかと思いますけれども、こんなふうに思っております。
今日は「ゆとりある生活環境と自立」というテーマを掲げての会合どうかがっておりますけれども、自立というのは何も年寄りを2人隔離して、そして年寄り2人の生活をさせるということではないと思います。老人が自立するということは、老人が孤独に耐えるということではなくて、老人が人の輪の中でマイペースで自分の人生を淡々と保ってゆけるような、人の輪の中で誰にも気がねせず、誰にも誰の人生も煩わせず、マイペースの人生を保ってゆけるような、そんな環境を若い者のほうで用意することじゃないかと、そのことが結局若い者が救われる道になるのじゃないだろうかと、そんなことを今私の立場として、私の心境として結論づけております。どうも長時間ありがとうございました。
(文責・笹川医学医療研究財団事務局)





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