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高齢者ケア国際シンポジウム
第2回(1991年) 痴呆性老人の介護と人間の尊厳


第1部 基調講演  老いと東洋の心

インド哲学者・東京大学名誉教授
中村元



私に与えられたテーマは、「老いと東洋の心」ということだが、どこまでを東洋と呼ぶかということについては、西洋の知識人の理解の仕方もいろいろあり、わが国でも一様でない。ここでは、私がたまたまインド哲学を研究している関係から、南アジアと東アジアに限らせていただくことでご了承いただきたい。

1.老い死に行く運命
東洋にはいろいろの伝承あるいは伝統があり、国により、民族により、伝統が異なっている。したがって、「老い」という概念、あるいは理解の仕方も、その伝承ごとに違っており、また1つの伝統のなかでも、必ずしも一様の理解がなされているわけではない。よって、「東洋の心」として1つにまとめて論述することは非常に困難であるため、特に注目すべき点のみを取り上げたい。
東洋で最も普及した宗教は仏教であるが、その成立後期ごろには「老いる」、老年ということを問題としていた。初期仏教の典籍の1つに、『ダンマ・パダ』という聖典がある。日本語では『法句経』といわれ、そのなかに「老いる」ということをテーマにした1つの章が記されている。それは「シャラーバガ」といい、人間はいつかは年をとって老いるものである。その老いた姿を問題にしている。
「この容色、姿は衰え果てた。病の巣であり、もろくも滅びる。腐敗の塊で、破れてしまう、生命は死に帰着する。骨で城がつくられ、それに肉と血とが塗ってあり、老いと死と高ぶりとごまかしとが収められている」という、痛烈な反省がそこに表明されている。
われわれは、それにもかかわらず、長く生きたいと願う。だれでもそう思う。
しかし、われわれの望みは決して満たされるわけではない。『スッタニパータ』という非常に古い仏典があるが、おそらく釈尊の教えにいちばん近いものであろうといわれているが、そのなかではこういわれている。
「ああ短いかな、人の生命よ、100歳に達せずして死す。たとい100歳よりもさらに長く生きるとも、また老衰のために死ぬ。」
こういう問題を仏教では取り上げ、仏教哲学では「縁起」というテーマで思索を展開している。人間を考える。最後には人間は「老死」、老いて死ぬということにぶつかる。その老いて死ぬというのはなぜか。それは人間が生まれたから
である。人間が生まれるというのはどうしてか。それはその前に人間の生一般というものがある。順繰りにたどっていき、最後には人間の奥に、いかんともしがたい妄執というか、衝動というか、そのようなものがある。それが迷いに取りつかれているということを考えたのである。
この「老い」に関する反省は、仏教の開祖である釈尊がすでに深刻な反省を述べている。彼は王国の長子であり、若いときには非常に幸福な生活を送っていた。ところが、いかなる人間でも、老い、やがて死なねばならぬということに気づき、この問題に取り組み、ついに王宮を出、出家修行者となって道を求めたのである。年をとってから彼の反省が述べられている。
「ああ、私は若いときにはまことに快適な生活を送っていた。父の国王、また周りの人から大事にされて、快適な生活を送っていた。しかし、ふと反省を強いられることになった。
人はだれでも老いるものである。しかるに、他の人が老いているのをみると、ああ、嫌だな、と思う。これは自分にはふさわしくないことだと。自分はそんな形にはなりたくないと思う。しかし、老いに襲われる。
また、病人をみると、ああ、病人というのは気の毒だなと思う。自分はそうなりたくないと思う。しかし、自分が病にかからねばならないという、それに違いないという、その運命を人々は気付かないで、目をそむけようとしている。
最後に人は死ぬ。しかし、死ということを考えようとしない。これはどうしたことだろう」
と、彼は思った。
その反省、回顧について、人間というものを奥深く見通してみると、人間存在の奥には3つの驕りがあるという。
1つは、若い人は、自分はまだ若い、老人の事柄は遠くにあることだと思う。
だから、気付かなくても、自分は若い者だという驕りがある。病人をみては、自分は病気ではないと思う。自分は健康だという驕りがある。
では、年老いて病に悩まされている人にはもう驕りがないかというと、そうではない。自分はまだ生きているのだという思いが、どこか心の奥に潜んでいる。これは人間からぬぐい去ることのできない、根源的な驕りなのである。
では人間の奥にあるものは何か。それを克服するにはどうすればよいかということを、釈尊は考えたのである。
人間が老い、死ぬという運命、これは国王といえども逃れることはできない。
あるとき、国王が釈尊のもとにきて、質問をした。
「尊いお方さま、生まれた者で老いたり死ぬのを免れる者がありましょうか。」釈尊の答えは、
「大王さま、老いたり死ぬのを免れる者はおりません。大王さま、富裕で富み、多くの財宝があり、大きな財産があり、多大の金銀があり、多大の財物、私財があり、宝や穀物を多くもっている王族もいますが、彼らも生まれたからには、老いたり死ぬのを免れる者はおりません。」
国王といえども、老いを免れることはできないという、まことに痛烈な反省である。
その人間にとって、老いないものがあるか、消え失せないものがあるか、ということを次に問題にして、いろいろ論議するのである。
「なにが老い、なにが老いないのか。体は老いる。賢者は、人間の運命をじっと見つめようとする。普通の人は相手に向かっていうのですが、汝は来た人の道を知らず。また、去った人の道を知らない。汝は生と死の両極を見極めないで、いたずらに泣き悲しむ。」
そこで、
「自分の真相を見極めるのが恐ろしい。真相から目をそむけようとするが、目をそむけてはならない。この容色は衰え果てた。病の巣であり、もろくも滅びる。秋に投げ捨てられた瓢箪のような、鳩の色のようなこの白い白骨をみては、何の快さがあろうか。いとも麗しき国王の車も朽ちてしまう。身体もまた老いに近付く。しかし、朽ち果てないものがある。善い立派な人々の徳は老いることがない。善い立派な人々は互いに理を説き聞かせる。」
ところが、世の多くの人はどうか。その運命についての反省をなすことなく、無為にして老いていく。学ぶことの少ない人は牛のように老いる。彼の肉は増えるが、彼の知恵は増えない。

2.老いに至るまでなにをなすべきか
それでは、老いに至るまでになにをなすべきかということが、第2の問題として論議される。
それに対する釈尊の答えは、
「老いに至るまで戒めを保つのはよいことである。信仰を確立することはよいことである。明らかな知恵は人々の宝である。福徳は盗賊も奪い去りがたい。」
宝は盗賊がもっていってしまうということがあり得る。しかし、自分が身に徳を積んだならば、その美しい姿というものは、これは盗賊といえども取り去ることができない。そのように考えれば、修養を積んだ人の老いた姿というものは、これは尊ぶべきことである。
次に第3に、ならば老いというものは、忌み嫌い、厭うべきものではなく、尊敬さるべきものである。老いが尊敬されたということを少し述べたい。

3.老いは尊敬された
仏典をみると、老いた人ということが、単なる年齢が老いた人という意味ではなく、地位の高い人に使われている。例えば当時、人々はギルド(商人たちの組合)を作っていた。そのギルドのいちばん偉い人、それをジェッタカと呼んでおり、最も年老いた人である。それが現在でいうヘッドあるいはプレジデントという意味なのである。
年老いた人に対する尊敬というものが讃えられており、年老いた人を尊敬する、そのならわしを保っている人には4つの事柄が栄える、増し加わるといっている。
4つの事柄とはなにかというと、長生きすること(ロンジェビティ)、姿の美しさ(ビューティ)、幸福(ハッピネス)、力(主として気力のことをいうと考えられる)である。これはインドのマヌ法典でも説かれている。
また、他の例として、当時、バガザという大国の王さまが、ベイサリーというところに住む商業民族がつくった共和国を攻め滅ぼそうと思い、大臣を使いにたて、その考えの是非を釈尊に聞いた。釈尊が使いの大臣にいろいろ問い返した。
その1つに、その国では年老いた人を尊敬しているかどうか、古老を尊んでいるか、というのである。大臣の答は、
「はい。彼らは古老を尊んでおります。」
そうすると釈尊は、
「そのようなよいならわしを保っている国を滅ぼすことはできない」
と答えたという。それでその王さまは隣国を征服することをやめたといわれている。
老人が尊ばれたということは、おそらく当時は定住的な農耕社会が形成されていたために、農耕に関する知識が豊かな老人に対し、尊敬の念が払われたものと思われる。この考え方は東アジアの国々一般に伝わっており、ことに禅では顕著である。禅では、偉い修行者のことを「老師」という。これは非常な尊敬の言葉であり、お互いに呼び合う場合でも、相手に尊敬をもっていうときは「老兄」という。老人でなくても、「老」という字は尊敬を意味する。
さらに、一般の習俗のなかにも現れており、日本ではどちらかといえば、なにか事柄を決するには、割合老人を上において、その意向に従うということが多い。徳川時代の制度にも、現在でいう総理大臣のことを大老と呼び、閣僚を老中と呼んだ。これはやはり老いに対する尊敬であり、インド人は「リスペクト・フォー・エイジ」といっているが、これは東アジアから南アジアにかけて広く残っていたと思われる。

4.老人のなすべきこと
ただ、年をとるというだけではなく、人間というものの本性を見つめて、そこで学ばねばならないわけである。
また、マヌ法典のなかに、「人はその頭が白いからというので老人なのではない。たとえ年は若くても、学問をした人、彼を神々は長老であると知る」と記されている。
さらに、仏典『ダンマ・パダ』のなかにも「頭髪が白くなったからとて長老なのではない。ただ年をとっただけならば、むなしく老いぼれた人といわれる。
誠あり、徳あり、慈しみがあって、人を損なわず、慎みあり、自ら調え、汚れを除き、気をつけている人、こういう人こそ長老と呼ばれる」といわれている。
そのような人が本当に尊敬され、老人のあるべき姿であるといっている。
だから、年をとっても道を求めることを忘れてはならない。これは『論語』にも引されており、『論議』第7編に、葉(しょう)という当時の知事が、
「孔子様というのはどういう方ですか」
ということをお弟子の子路に聞いた。子路は黙っていた。すると孔子が、こう答えてくれればよかったのにといった。
それは、現代語に訳すと、「あの人ときたら、意気込むと食事も忘れ、おもしろくて心配も忘れ、年をとるのも気がつかない始末です」と。道を学ぶということに意気込むと、なにもかも忘れてしまう。年をとっても、努め、努力している人という者が讃えられている。これが、人間が生とか死を克服する道であるという。
年をとったからといって悲観する必要はない。『スッタニパータ』のなかに次のように記されている。ある学生(これは年老いた人)が釈尊に向かって、「私は年をとったし、力もなく、容貌も衰えています。目もはっきりしませんし、耳もよく聞こえません。私が迷ったままで途中で死ぬことのないようにしてください。どうしたらこの世において、生まれ、老い衰えるということ、老衰を捨て去ることができるでしょうか。その理を説いてください」
と聞いた。
そうすると釈尊が、
「人は物質的な形態があるがゆえに、人々が損なわれるのをみるし、物質的な形態があるがゆえに、道に怠る人は病などに悩まされる。したがって、そなたは怠ることなく道を求めて、再び迷いの生存に戻らないようにせよ」
と答えた。
さらに彼は釈尊に問うて追求する。
「あなたはもう世の中のことを何でもご存じのはずです。どうか理を説いてください。私はそれを知りたいのです。この世において生と老衰とを捨て去ることを。」
釈尊が、
「人々は妄執に陥って苦悩を生じ(人間の奥には何とも言葉では言い表されない、どうにもできない妄執のようなもの、衝動的なものがある)、老いに襲われている。あなたはそれをみているのだから、そなたは怠ることなく励み、妄執を克服して、再び迷いの生存に戻らないようにせよ」
と答えた。これが究極の心構えであると。
その心構えをもつと、年をとったからといって、なにも悲観することはない。
世間の人はこういう。この世で人が年若く、青年、若者であり、その髪が漆黒で、幸福な青春に満ちていて、人生の初めにあるならば、そのときは優れた知能をもっているといわれる。ところが、この人が年老いて、80歳または90歳または100歳になったときには、その卓越した知能から退き落ちる、そうみなしてはならない。
釈尊は、
「私はいま、老い、老衰し、もうろくし、高齢にして、すでに人生の終わりに達し、我が齢は80歳である。しかし、私の体がなかなかいうことをきかなくなっても、私は真理を求めてきたから、自由に理を説くことができる。人格を完成し、向上に努めた人の説法は尽きることがない。彼の教えの言葉は尽きることがない。彼の問答は尽きることがない」
と述べているが、現在生きている方をみても、私よりははるかに先輩の高齢の方が、非常に知恵が鋭く、まことに適切な表現と行動をとられることに、私は感心することがある。画家で、高齢になってからすばらしい絵を残される方がいる。学者でも、例えば、『大漢和辞典』をつくられた諸橋轍次先生は、齢99にして新たに本を書かれた。しかも、そのスタイルが非常に新しい。仏教の代表者の釈尊と、儒教の代表者の孔子と、道教の代表者の老子が一堂に会していろいろな問題を討議するという想定に基づく対話である。そのような本を著されたのをみて、私は感嘆した。やはり年をとってもなお、優れた姿を示す人がいるということをここに紹介したしだいである。

5.わが国の福祉事業の伝統
社会政策や福祉事業は、海外では非常に進んでおり、ことにヨーロッパの国々から啓発を受けることが多い。しかし、日本は日本なりに長い伝統があり、衆知のとおり、聖徳太子が仏教を広め、そして、世の悩める人々を救うために療病院をつくられた。これは現在でいう病院である。また施薬院を造り、薬を病人に分かち与えるということをした。そのような精神が後へ受け継がれ、奈良時代には行基菩薩のような人が人々の苦しみを取り去ることに努力した。
また鎌倉時代は、忍性律師という方が(西洋のフランチェスコと同時代)、悩める人々を救うために、あらゆる種類の社会奉仕活動をされた。しかしこれが意外に日本人には知られていない。日本の鎌倉仏教といえば、宗派を開かれた方々のことについてはよく知られているが、忍性律師のような人がいたということは、案外知られていない。
忍性律師は鎌倉に病院を造り、総計2万数千人の人を治療した。また、奈良の北山にも病院を造り、ハンセン病の人をそこに収めた。今日でも北山十八間戸といわれ、18個の個室がある。
歴史の書物にも記されているとおり、いかなる人に対しても救いの手を差し伸べたのである。歩けない病人を背負って奈良の町に出、買い物を手伝った。
その病人は非常に感激し、
「ああ、ありがとうございます。お師匠さまのご恩は決して忘れません。私がこの次生まれ変わってくるときには、その印をつけて生まれ変わってきますから、お心におとめください」
といって亡くなった。その病人が亡くなったのち、弟子入りを申し込んできた
人がいた。その人には彼の病人がいっていた所に黒いアザがあった。これは生まれ変わったらお師匠さまにご恩奉じをしますといった人の、あの生まれ変わりだといって、人々が奇瑞を感じて話し合ったということがいわれている。
北山十八間戸は、当時のものはなくなっているが、後生の人が忍性律師の功績を讃え、同じものが再建されている。
なぜ北山に建造したのかは、現地を訪れるとよく理解ができる。北山からは、東大寺、興福寺、法隆寺などの五重の塔などが眺められ、非常に景色がよいのである。
西洋ではどうかといえば、ドイツのアウスブルグにあるものが老人ホームのいちばん最初だといわれている。建物や部屋は立派ではあるが、しかし条件があった。まず、フッガー家という実業家の家の雇用者でなければならないこと。
そして、カトリック信者でなければならないという制限があった。
しかし、忍性律師や聖徳太子は、いかなる宗派的な束縛もなかった。どのような人でも受け入れた。まことに尊いことであり、このような尊い伝統をもっているのにもかかわらず、現在では、残念ながら日本では消え失せてしまっている。本当に残念なことである。
しかし、現代あるいは未来の日本人が、それに勝るとも劣らない活動を展開されるであろうことを切に期待するしだいである。





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