日本財団 図書館


高齢者ケア国際シンポジウム
第1回(1990年) 不安なき高齢化社会をめざして


第5部 パネル・ディスカッション  高齢者ケアの展開・日本の将来像


●司会
日野原重明 聖路加看護大学学長
紀伊國献三 筑波大学社会医学系教授
Robert Butler,M.D. マウントサイナイ医科大学老年病学教授

●パネラー
Gitte Ege,M.A. デンマークゲントフテ市・リューゴ高齢者総合センター所長
Carroll Estes,Ph.D. カリフォルニア大学教授
Lewis Lipsitz,M.D. ハーバード大学医学部内科助教授
Mathy Mezey,Ed.D. ペンシルベニア大学看護学部教授
長谷川和夫 聖マリアンナ医科大学神経精神科教授
鎌田ケイ子 東京都老人総合研究所主任研究員
中島紀恵子 日本社会事業大学教授
大熊由紀子 朝日新聞社論説委員
折茂肇 東京大学医学部老年医学教授
大塚俊男 国立精神・神経センター精神保健研究所部長

【司会(紀伊國)】まず日野原先生から、このセッションの狙いとするところのイントロダクションをお願いしたいと思います。
【日野原】今回、このシンポジウムを催したのは、まず医療従事者に、老人のケアが重大であるということを、もっと強く認識していただきたいということ。また、老人の問題は医療、ケアの提供者だけではなく、受ける側、そのファミリーをいっしょに含めての計画でなければ、まとまったプログラムはつくられないということから、両側の人々が一堂に会して、しかも日本以外に5つの国々の経験を聞いたうえで私たち日本の将来を考えたいということから、このような大きなシンポジウムを催したわけです。
まず私が最初にお話したいことは、老いの問題をほんとうに早くとらえたのは医療者ではなかったということです。仏陀がシッダールタ太子であったときに、宮殿を出て老いた人をみたとき、このような老いというものは人間の宿命的な問題であり、どのように対応しなければならないかということを考えて、宗教的な生涯をされたということはあまりにも有名ですが、これはフランスの老人に関する学者であるシモーヌ・ド・ボーヴォワールがその著書『老い』の冒頭に、この仏陀のことをとらえています。
私たち自身が、未来の老いの存在だということです。私が老いるのだから、私のなかに老いが生まれたときからあるということ。それはドイツの詩人がいった、「私のなかには死という種がある」ということと同じようなことで、これはもっと私たちがほんとうの意味で人間自体の問題として考えなければならないことです。それを仏陀はいみじくも表現されたということをまずお話したいのです。
第2には、日本における老いの問題提起は、文学者によって早くとらえられたということです。有吉佐和子さんの「恍惚の人」という小説がいかに多くの人にこの痴呆の問題を印象づけたか分からないし、老いのセックスの問題を谷崎潤一郎が「鍵」という小説のなかで多くの人々に示しました。
日本では、例えば私は50年以上内科医をやっているのに、老いの問題、また痴呆の問題を考えるのが遅すぎました。失禁の問題を考えるのも遅すぎた。痴呆も遅すぎた。やむを得ないと思っていたということで、私も告白しなくてはならない。今後、老いの問題なしに医学や看護は考えられないほど大きな問題になっているので、日本にはない知識や経験を外国の人から教わると同時に、どうすれば日本の将来像を私たちがデザインすることができるかということを考えたのです。
そこで、皆さんといっしょに、皆さんの質問を受けながら、高齢者のケア、ケアを要する老人に対してどういうふうに将来の展望をもつかということを、厚生省が示したこの施策を念頭に入れながら考えたいというのが、このパネルです。
さっそくですが、パネラーの方にごく短く、いままでの講演やセッションで非常に日本の将来のために考えられるようなテーマ、あるいは皆さんからのアドバイスがあれば、内容は問いませんのでどのようなものでも結構です、高齢者のケア、ことに日本としうことを念頭において話をしていただきたいと思います。
【司会】それでは、バトラー先生にお願いしたいと思いますが。先生は日本の祉会福祉大学とも、日本政府とも関係をもたれたということで、そのことについてお話をしていただいてはどうでしょうか。
【バトラー】やはり私は、文化的な研究、そして学際的な研究をするべきだと考えています。この2日間、私どもはその方向で、医学の現状、そして変化の現状、特に心身の変化についてはいろいろ討議をしてきました。しかし、医学の定義は幅広くならなければならない。そしてそのなかに、社会的な行動、または哲学的な局面も含めていかなければならないと思うのです。日米が建設的な形で研究をしていくことがたいへん重要であると考えています。
【司会】さてそれでは、わが国には遠来の友人を大切にするという習慣がありますが、エステスさんはまだいままでのセッションでお話にならなかったと思いますので、まずエステスさんにお話をいただきたいと思います。
【エステス】アメリカの見解をお話したいと思いますが、まず日本の方たちに祝意を表明したいと思います。
日本は、いまやアメリカにとってヘルス・ケアで2つのことを達成されたということでモデルになっています。1つは長寿です。世界でいちばんの長寿国になられました。第2に、すべての人たちに対するヘルス・ケアを実行しておられます。したがって、日本はコストも低い。私どもアメリカで使っているコストの半額ですが、すばらしいヘルス・ケアが日本では行われています。
最近の国勢調査では、人口の28%、また6,200万の人たちが定期的なヘルス・ケアを受けていないという調査があります。もちろん、日米としては、お互いに学び合うことができますし、これこそ学び合いの第1歩であると考えています。
しかし、ぜひ皆さんには、日本がたいへんすばらしいことを達成されたということをしっかりと認識していただきたい。やはり、皆さんの価値観、すなわちお互いに助け合うという気持ちがあったということ。特に、ライフ・スタイルがよかったので、これだけのすばらしい成果を上げられたのだと思います。特に栄養において、そしてお互いに人間を尊重するという文化があったからだと思います。
さて、先ほど長期のケアに対して健康保険を導入というお話が出ていましたが、これは普遍的でなければいけないと思います。私は社会学者として、加齢と加齢のプロセスというのは非常に大きな影響が、加齢の定義によって受けられると思います、社会が加齢をどのように定義しているか。高齢者というのは人に依存する。そしてまた、不具であるという定義があるとすれば、高齢者になると、私たちはもう休まなければいけないというようになる。そうなると、社会的にはもう死んだも同然。そして、身体的にもだめになったといわれるわけです。やはり、自己達成型の考えももたなければならないと思います。
人間というのは、人の期待されたとおりに動くものだと思います。したがって、大きな期待を高齢者に対しても抱かなければいけないと思うのです。全面介助、すなわち、もはや何もできないという状態、自分は独立しているのにこの人はもうだめだと考えられると、依存性が高まるのです。簡単に老人たちは周囲の人の期待どおりの行動をするようになってしまいます。
私たちのモデルには、教育や研究がいろいろ行われていますが、これが追いついていないのが現状です。やはりいろいろな高齢化に対するものの考え方を変えなければいけません。不可逆的だと思われていたものが、可逆的であるという認識もあるわけです。
私たちは、心理学的、社会的、そして経済的なコストをこれ以上維持することはできない。高齢者の依存性を高めるということであってはいけないのです。すなわち、不可逆的、そして有機的なべースのものならばよいが、人工的につくられた依存性は、もはや維持することはできない状態ということです。
今回の会議では、介護者は病気、痴呆を中心に介護をするといわれていました。実際、痴呆や慢性病に悩んでいる人たちもいますが、それは一部です。アメリカの在宅老人たちで70歳以下の人たちは、80%までは機能的に動きがとれています。できる限りこれらの健康な老人が独立できるような環境をつくっていかなければいけない。そして高齢化社会に対して備えていかなければならないと思うのです。
それだけではなく、私たちはプログラムをつくり、心身の機能を高め、慢性病の改善もしていかなければいけないと思います。機能的に独立している老人の3分の1が2年間で状態が変わるということが分かりました。すなわち、いまはだめでも、3分の1はよくなるわけです。不可逆的ではなく、可逆的なのだということを認識し、そのためのプログラムをつくっていかなければならないと思います。すなわち、リハビリテーションを行い、慢性疾患で悩んでいても、これが可逆的に治るのだというプログラムをつくらなければいけないと思うのです。
また、障害者を含めて、彼らに力を与えるように努力をしなければいけないと思います。そのために、われわれとしては6つのことが必要になってきます。
まず第1にactive agingです。Active agingとは何かというと、教育と明確な保健的な行動を行うということ。運動をする、社会的に参加させる、そしてまた具体的なプログラムを導入して、自己評価を高める。そして、自分で自分を明確に管理していくことができるようにしていくということです。
第2に環境、戦略をよくすることです。すなわち、必要ならば自分をコントロールできない、自尊心を失っている人たちに対して、これを取り戻すように教育をする。必要ならば、再教育をする。例えば、急性ケアのモデルを使うことも必要でしょう。
第3に、基本的な所得レベルを考えなければいけない。保健政策としては、やはり所得政策が大切です。十分な所得を老人に与えることが必要になってきます。
第4として、方向づけを変えなければいけないということです。文化的なシフト、すなわち高齢者は気の毒な存在なのだという考えをやめて、力をもつ存在とみるわけです。すなわち、高齢者社会を乗り切るためには、健康で社会的な家族をもたなければならないわけです。そして高齢者間題を解決しなければ、健康な社会を生み出すことはできません。高齢者に対する考え方を変えることが必要です。
第5に、国家の資源ということです。これは日米で分かち合わなければならないのですが、長期のケアのリソースを確保するということです。目にみえない、しかも無償で多くの婦人がケアを行っています。この人たちを休めるためにデイ・ケアを与えるとか、コミュニティ・べースのプログラムを導入して家族を助けてあげる。そして家族の支持を得ていくようにしなければいけないと思います。
最後に研究です。特に大切なのは、社会的・行動的・心理学的な研究が必要だと思います。老人が独立できなくなる、あるいは依存性を高めるのはなぜか、そのようなことを研究すれば、人に依存した存在の高齢者の数を減らしていくことができると思います。また、ヘルス・サービスに関する研究、どのような形で高齢者に対してケアをしていけばよいかという研究が必要だと思います。
【司会】どうもありがとうございました。老人独立宣言6章を紹介していただきました。
それでは、今度は日本の先生方からの問題点、まず、鎌田ケイ子さんからいかがでしょう。
【鎌田】ちょっと総論的になろうかと思いますが、ふだん私が考えておりますようなことをお話したいと思います。
私は15年来、老人看護のテーマでいろいろ研究や実演をしてきましたが、改めて思いますのは、いろいろ複雑な老人のヘルスの問題を解決するためには、従来の医療のコンセプトは行き詰まっているのではないかということです。これから老いの問題を解決していくためには、日野原先生もお話になられたように、やはり新しい医療を創造していかなければ、この問題には対処できないと考えています。
ではその新しい医療の中核になるものは何かと考えた場合、いままでにもいわれてきていることですが、私は医療のなかにケアのコンセプトというか、概念のようなものをはっきりと確立しない限り、従来行われている治療偏重の近代医療では老人の問題は解決しないだろうという確信に近いものをもっています。だから、これらをどのようにうまく導入していけばよいかということです。
いままでのお話を聞いていますと、急性期、慢性期、あるいは長期ケアということを分けて考えることが合理的であるかのようにも思われますが、私自身は、あらゆるステージにおいて治療とケアがそれぞれバランスよく取り入れられていかなければいけないのではないかと思うのです。急性期であるから治療偏重が許されるというものではなく、急性期の患者においても治療とケアがバランスよくとれていなければ、結局、老人の全人的な自立性は確保できないと考えています。
もう少しことばを変えていうならば、従来は狭い意味で病気を治すということが医療の目的であったと思いますが、これからは慢性疾患や老いを抱えている老人にとって、それを治すという目標は、到達、達成からいえば、あまり現実的な目標ではなく、老人とともに医療者が、老人が自立した快適な生活を行う能力をどれだけ回復したり、失わせることがないようにできるか。それを具体的に、コンセプトだけでなくて、方法論も確立していくべきなのではないかと思います。
具体的に述べると、痴呆のセッションでも大きな話題になりました向精神薬が転倒の原因になる、あるいはそれが悪循環を繰り返す元凶になっている、というご指摘にもあったように、いままでの医療のなかでは、薬や手術などといういわゆる治療手段に財政的、人的、時間的にもかなりなウエイトが占められていたと思います。私はそれに対するウエイト、そしてもう1度そういうものが果たして有効かどうかという検討もされたうえで、老人が自立できる環境を整備するために、資源、マンパワー、あるいは時間というものが投入されるべきではないかと思うわけです。
この2日間にわたって、マンパワーの不足ということが非常に指摘されていますが、その不足をどのように解消していくかという以前に、いままで治療的な行為に対して使われていた人的な資源を、もう少しケアの側面に投入できないだろうか。そういうことも1つ考えてみる必要があると思います。
そして、人的な資源の質の問題が、いま問われているように思います。量が増えれば、それですべて解決するということではありません。さきほど日野原先生がいみじくも老いの問題について、医療者は取り組むのが遅すぎたと自戒されておられましたが、これは私にもまたあてはまることですし、皆さんにも同じようなことがいえると思います。やはり医療者自身が老人ケアをどのように取り組むかという考え方の転換、意識の転換が、いまもってできていないように思っています。
特に、医療者のなかでも、ちょうど治療とケアとを統合する役割という立場にあるナースの役割は非常に重要だと思います。これからの医療は、ケアのコンセプトをどの程度医療のなかに導入できるかどうかということ、これは私自身がナースだという身びいきもあるかとは思いますが、ナースの意識が変わるかどうかによって、それがどの程度実現できるか大きな影響を与えると考えています。医療者のなかでもいちばん患者に身近に接し、生活の面の面倒もみで、しかも医療的な内容についても深い介入をするナースが、これからの老人ケアについて、いままでの医療の延長線上ではなく、それぞれが自己意識というものを形成していかなければいけないと思います。
1990年の4月から看護教育のカリキュラムが変更され、新しいカリキュラムのなかに、成人看護学と分離して、老人看護学が看護学生に教えられるようになっています。したがって、いま教育を受けている学生さんたちが看護界の中核になるころ、日本は最も老人人口の高い時代を迎えているわけで、この基礎教育に私はまず1つ期待したいと思います。
そういった将来の展望を含めて、いろいろな課題があるなかで看護婦の老人看護の専門的な教育をどのようにシステム化していくかということが、1つ大きな課題としてあるのではないかということを指摘して、終わりにさせていただきます。
【司会】どうもありがとうございました。フロアの方が非常に質問したがっていると思いますので、パネラーの方の発言はできれば短くお願いしたいと思います。
次に、大熊先生に、お願いしましょう。
【大熊】先ほど日野原先生が、日本の将来のために、あえて悪い点もきっちりと述べてほしいといわれました。まったくそのとおりだと思います。やはり厚生省の方はお立場上、日本はとてもうまくいっていて、将来はゴールドであるという話がありましたが、まず現実をしっかりと認識することが大事だと思います。アメリカのメジイ先生が、アメリカのナーシング・ホームでは40%縛られているということをフランクにお話しになったあの態度に、日本の厚生行政の皆さんは学ぶべきではないかと思います。
アメリカの場合は40%縛っているといっても、いすには起こして、いすに縛っているのが多いようですが、日本ではベッドに縛るということが非常にしばしば行われています。武蔵野というのは、日本のなかではたいへん福祉のレベルが高いところですが、そこの高齢者保健福祉の中心人物である山本さんは、この日本では地獄をみなければ天国に行けないのだということを話されています。
少し俳徊のあるようなお年寄りが病院では夜、ベッドに縛られています。それも1人や2人ではありません。
こういうなかで寝たきり状態がつくられ、褥瘡がつくられ、ぼけが進む。そういうことがあるということをまず正確に調べ、それをどうしたらいいのかということを考えるところから始めなければいけない。これが第1です。
第2は、いま日本では寝たきり老人というものを前提として、お医者さんも看護婦さんも厚生省も進めていますが、それは日本独特のものだということが、アメリカ、イギリス、スウェーデン、オーストラリアの先生方のお話で分かったわけです。ですから、きょうここからわれわれは、寝たきり老人というものはしかたがないものとあきらめて対策を進めていくことをやめるべきではないかと思います。
リプシッツさんが、日本では骨折が少ないということを述べられていましたが、骨折したくてもできないというのが日本の現状です。
第3に、これまで日本は同居率が高いということで、お嫁さんや娘さんが、専業主婦で自宅でケアをするということを前提にして、在宅福祉や在宅医療というものが行われてきました。病院のお医者さんも看護婦さんも、自宅にそういうお嫁さんが存在するということでなければ、自宅へ帰さないというのが暗黙の前提になっています。
しかし、このことは寝たきり老人といわれるものの存在と同時に、日本だけのものになってきています。この女性の労働条件を考えたときに、もしこの人が雇われている人であれば、労働省から労働基準法違反だといって取り締まられるような、そういう性質のものです。長時間労働ですし、重いものを持ち上げて入浴させたりしなければいけないわけです。
したがって、日本では、うば捨て山になるか、、女工哀史になるか、その2つに1つという状況であるということをまず認識したうえでのゴールドプランでなければいけないと思います。
ではどうしたらよいかということですが、大筋はすでに分かっているということをお考えいただきたいと思います。もちろん、細部にわたっては研究が大切です。特に、アルツハイマー病の原因などは、まだまだ基礎的な研究が必要ですが、その基礎研究ができなかったとしても、どのようにすれば日本で寝たきり状態になっている方が起きて、にこにこして、おしゃれをしていられるかということが分かっています。
デンマーク、スウェーデンでは、人口当たりで日本の10倍、20倍というようなホーム・ヘルパーさん、または施設でいいますと、日本の3倍ぐらいの寮母さん、看護婦さんがいる。そういうマンパワーが確保されていれば、寝たきり状態にしないですむということが、はっきりと諸外国の例で分かっています。
そして、その人たちがひどい労働をしないためには、補助器具というものを上手に使えばよいということも分かっている。
また空間の広さとか、そこに思い出のものをたくさん持ち込むというようなことも、たいへん大事だと思います。最近、大阪の熱心なお医者さんが一生懸命患者さんを起こそうとしますと、「先生、起きて何しますのや」と患者さんからいわれるそうで、何かやりがいのあるようなところに行かなければいけないのではないかと思います。
その点、今回、日本船舶振興会が刊行された「新しい時代における特別養護老人ホーム」という報告書はたいへんすばらしいもので、日本の特別養護老人ホームや老人保健施設のあるべき姿を指し示していて、このことを明日から厚生省が一生懸命やれば、相当数の寝たきり状態の方が起き上がるだろうと思います。
家の改造も非常に重要で、日本ではいくら車いすがただで提供されても、車いすが使える家がないために、お年寄りは寝かせきりとなっているわけです。
日本の痴呆老人のおかれている状況は、先ほどのお話では、問題老人というのがあるのではなくて、問題なのは職員なのであるというエーエさんのお話が引かれていましたが、まったくそのとおりだと私は思います。日本の場合は、縛る職員に問題があり、閉じ込める職員に問題があります。また、そのような状況に職員を追い込んでいる厚生行政があり、厚生行政をそのままにしている日本人というものがいるのではないかと思うのです。
ゴールドプランは、これまでの厚生行政から大きく転換する画期的なものだと思いますが、まだまだ数字などをみますと、とても望みが低いという感じがするのです。10年後の数字で、まだそれでも北欧の国々にはまるで足りません。例えば、ホーム・ヘルパーを増やすといっても、現在のデンマークの5分の1ぐらいですし、特養を増やすといっても現在のデンマークの水準の4分の1にも満たないということですので、このゴールドプランはもっと前倒しにやっていただきたいと思います。
そして、先ほどから出ていますように建物もさることながら、そのなかのいちばん大切なのは、マン・パワーです。人手を無視してすべてがうまくいくというような話はありません。午前中のパネルディスカッション1の質問のなかに、外国ではボランティアの人たちの献身的な働きでマン・パワーがうまくいっているのではないかという質問が出ました。居合わせたすべての方々が、私の国ではボランティアはそういうことはしていないということでした。例えば、スウェーデンの方は、いまや専業主婦ということばは死語であって、そういう暇はないのだということを話されていました。ほかの国の方も、図書館の手伝いということではボランティアが力を発揮することがあっても、人を起こして介護の仕事をするようなところでボランティアは働いていないということです。
どこの国でもマン・パワーの数は限られているわけですが、要はどこに人材を注ぎ込むかということだと思います。日本では、例えばデパートのエレベーターやエスカレーターの前で、ただおじぎをしている女性がいます。そして、外国にはあまり例のない、ゴルフのキャディーもいます。これが日本の経済、あるいは活力のためにたいへんよいとは私には思えないわけです。そういうところに勤めるよりも、介護の仕事に就いたほうが、収入もやりがいもあると思えるような状態といった、ただ数を10万にしますというのではなく、例えば時給にしても、1時間2,000円程度に思い切って上げるようにして、これは社会から応援されている仕事なのだと、介護の仕事に当たられる方が思えるような体制をつくる、そういう段階にいまきているのではないかと思います。
【司会】マン・パワーということばはやめませんか。ヒューマン・パワーとか。
【大熊】まったく賛成です。失言をしました。
【司会】それでは、次に大塚先生お願いします。
【大塚】私は精神科医ですが、きょう私は、痴呆性の老人ということを中心にみていますので、そのなかで老人のケアということについて、感じたことを述べさせていただきます。ポイントだけをお話したいと思います。
私はきょう、いろいろな外国の方のお話を聞いて、まず地域ケアの問題では、たいへんきめ細かく個性を重んじたケアを実施されている、と思ったわけです。しかし、それには相当のお金がかかる。したがって、お金を払わなければなんらかの形で、税金なり何かをしなければ、それだけのものを受けられないのかなということをまず考えました。
実際、わが国の厚生省を中心とした、痴呆性の老人のためのケアのいろいろな種類をみていくと、種類自体はずいぶんそろってきたと思います。ただ、量的に、確かに人の問題など、たいへん少ないということはいわざるを得ないと思います。したがって、今後もそういう面は少し増やしてもらう必要があります。
そして、私が臨床医として痴呆性の老人を診たときに、医者が診断をして薬物を投与するまではできるわけですが、その他の面との接点がないわけです。医療は医療、保健は保健、福祉は福祉だという形で日本の場合、動いてしまうわけです。どこかでそれを評価し、コントロールして、1人の方にダブらない、ほんとうに必要なものを提供してくれるような地域ケアができないだろうかということを、まず地域の問題として私は考えます。
2番めに施設の問題ですが、いま日本では痴呆性の老人を精神病院、一般の病院、老人病院、老人保健施設、老人ホームが受け入れているわけです。私がもし痴呆になって精神科医に診てもらうと、精神病院に最終的には入るかもしれません、内科の門をたたけば、内科の老人病院に入るかもしれません。福祉事務所を訪ねていけば、その果ては老人ホームに入るかもしれません。つまり、本人の病態に応じてだれかが評価し、適した所に移してくれることが日本ではうまくなされていないように思います。
確かに量はたいへん少ないです。しかし、その少ない量をうまく生かすようにコントロールすることがケア・システムなのかもしれません。日本はほかの国から経済大国といわれていますが、実際は貧しい国だと私は思っています。外国に、今度の中東の戦争でもずいぶんお金を渡しますが、われわれの生活は相当苦しいなかで行われ、またそのなかで老人ケアも行っているわけです。
そのようなことを考えると、いまの乏しい資源のなかでも、われわれ日本人がいままで苦労してきた、頭を使い知恵を絞って行えば、なんとかできるのではないかと希望的観測をもっています。
もう1つは、日本では諸外国と比べて脳血管性痴呆が多いということは、ある面では予防を可能にするということでたいへん希望のもてることのような気がします。これからは、ケアのことも大切ですが、是非この機会に予防という観点からこの問題をながめてみたいと思います。
【司会】どうもありがとうございました。それでは中島先生お願いします。
【中島】この2日間で学んだポイント、しかも日本という文化を踏まえて考えたときに、最も重要なことはデンマークにおける3原則、持続性、自己決定、残存能力あるいは可能性の能力、この3原則のなかで、日本人にいちばん分かりにくいのが自己決定の問題だろうと思います。
施設あるいは家族、そして老人においても、自己決定の訓練を日本の文化ではあまり受けていないところがあります。実際、どのようなプログラムで自己決定を高めていくかというのが、分かるようで分からない問題だろうと思います。
例えば、寝たきり老人ということばはないといわれますが、この寝たきり老人ということばをつくったこと自体が、やはり自己決定のコンセプトがないことに非常に関連があるのではないかと思います。つまり、別な言い方すれば、自立に対する依存というよりは、他人任せという意味での依存関係、そしてそのなかでの人間関係を円滑にすることは、私たちは生まれたときからたいへん訓練されるわけですが、それ以上のことは訓練されてきていないと思うのです。したがって、いまのお年寄りの問題もあるが、将来私たちが年寄りになっていくときに、そのモデルがない。モデルを探しながらケアをしているのがいまの現状だろうと思われてなりません。
具体的にいうと、例えば食事でも排泄でもなんでもいいのですが、手助けが必要なときに、私たちが施設でもっているキーワードは、全面介助、一部介助、自立なのです。この3つのキーワードで老人の自己決定などは出てこないし、残存能力も出てきません。
それに対応して、介護用具もそのコンセプトであるため、私たちがケアするための介護用具はそれなりに発達しています。しかし老人たちが、あるいは障害をもった人たちが必要なごくささいな道具、手から延長できるような、ごく日常の、まさに耕すという意味の文化の道具がほとんど身の回りにないわけです。それがずいぶん、機械や何かのもっと奥にあって、日本にもないわけではないのですが、どこにあるのか専門家でさえも分からない。これを探すのは、たいへんなことだということもあります。
こういうことからいっても、私たちがいかにこの自己決定に対するコンセプトがひ弱なのか。このことを私は21世紀、自分たちも老人になるときに、しっかり考えなければ、こわくてケアしてもらえないという問題が起こります。白か黒かのケアではとてもいられない。ケアというのは、その混在型なわけです。
そのような意味で、施設のケアも、施設か在宅という問題ではないということを、先ほど伊東先生がかなり、日本人的ではないことばできっぱりといわれましたが、たぶんそういうこととつながっていく問題なのです。施設にも在宅にも必要なものはすべて同じです。そしてその中心になっているのは、その人が決定したものが身近にあるという問題なのだろうと思います。これをどの程度私たちが用意できるかということにかかっています。
もう1つ、自立的依存ということが大事なのではないかと思っています。これこそが自立と対応することばだと思います。しばしばヨーロッパの国で自立という非常に活動型の老人たちをみていて、これはしんどいなと思いながら、日本人の自立とはどういう自立なのかということを考えないといけないと思うのです。
やはり家族関係のなかでというより、人と人との和ということを中心にしながら、いつでも自分を位置づけているということ。これが100年ぐらいかかってアメリカ型になるか、北欧型になるか、そういう個人主義型の人間になれるかというと、私自身も含めて、日本人はみんな自信がないのではないかと思います。そういう意味で、どのような自立人間になればよいのかということを、私は自分を含めて、老人として考えたいといつも思っています。
もう1つ、マン・パワーの問題です。マン・パワーといってはいけないということでしたが、ヒューマン・リソースかヒューマン・パワーか、どちらがいいでしょう。この問題ですが、今度の海外協力法でさえもこれだけ法律がいろいろ解釈できたわけです。定義もいろいろあるのかもしれませんが、どうして自治体が人を雇うこと、ケアをするワーカーを増やすことの決定ができないのか、いつも不満に思っています。
今度の10か年計画でも、何人増やすと国ではいっているのですが、国は国の勝手、自治体は自治体の勝手、市町村は市町村の勝手ですから、だんだん薄くなって、市町村で3分の1到達すればいいようなもっと少ない話になるのかもしれません。これではもう間に合わないのです。人などというのは10年かかってようやく一人前になったとしても、いつまでもそこにいるものではありません。最も消耗度の激しいリソースです。そういうことから考えても、よほどこの10年間で人を増やさないと、困るのは私たちです。そのことで、国民的コンセンサスをどうやって求めるかということを私たちは考えなければなりません。
看護婦不足を例にとっても、看護婦さんがストライキしてお気の毒だ、という話ではすまないはずなのです。国民たちがどのようにしてもらいたいのか。これはヘルパーさんも寮母も含めて、全部女性の話です。しかも女性たちはこれから働いていく人たちです。いまでも7割働いているわけです。ある人の試算でいえば、高卒の人の4人に1人がワーカーになっても、まだ足りない数だそうです。したがって、よほどみんながこういう人たちのことをしっかり考えていかないと、問に合わないだろうと思います。是非この件に関して、皆さんに厚い討議をお願いしたいと思っています。
【司会】どうもありがとうございました。もう少しパネラーの方にお聞きしましょう。それではエーエ先生。エーエ先生は、このシンポジウムの後、実際にケアを行っている施設にも訪れて、一緒に勉強しようといっておられますが、いままでの日本の方々のディスカッションを聞かれて、日本に対する提言というか、何をまず始めたらよいかということについて、コメントがあればお願いします。
【エーエ】ずいぶんいろいろな話がありました。少なくとも何かが必要なのだが、その必要なものをどこから得たらよいのでしょうか。だれがこのチャレンジに対応するのでしょうか。やはりまず研究、調査が必要だと思います。このすばらしい自己達成型の仕事のPRをすべきだと思います。そして、とにかく人をみつけることが大切だと思います。
重要なことは、ホープレスではないということです。まったく期待がもてないわけではないと思います。私どもはアメリカで、寝たきり老人をみました。日本人が必ず寝たきりになるというものではなくて、何か対処ができるものだと思います。
さて痴呆ですが、重度の痴呆の人はよくはならない。脳細胞がだめになってしまったので、彼らを回復させることはできませんが、残った機能を使うことはできると思います。状態がよくならなくても、彼らや彼女の気持ちをよくしてあげることはできると思うのです。そういうことはたいへん必要ですし、それを行うことで、私たちも気持ちを豊かにすることができると思います。
だれが痴呆になるか分かりません。近い将来、あなたがなるかもしれない。私かもしれない。ですから、もっとこの状態について国民に知らしめることが必要だと思います。あなたたちも年をとれば高齢者になるのですよ、そして痴呆になるかもしれないということを。痴呆には多くの予防策がとられていますが、年を重ねるとどうなるのか、そして体が年をとるとどうなるかということを繰り返しになりますが、すべての国民1人ひとりに知らしめるべきだと思います。
非常に訓練を受けた運動選手が、1週間風邪をひいて寝こんだ場合、その1週間前のレベルにもどるまでに半年かかるそうです。若い人でさえそうなのですから、老人が寝てしまったらどうなると思いますか。それをよく考えていただきたいのです。
もう1つ、老人のアイデンティティを保つことがたいへん大事だと思います。老人というのは疎外されてしまうのです。特に、何かあったときに疎外されてしまうと、自分に対してアイデンティティをもつことができなくなってしまいます。若い人たちは、アイデンティティを取りもどすことができますが、老人はそれができなくなります。したがって、疎外しないように、そしてアイデンティティをもたせるように、私たちが助けることが必要だと思います。
またお医者さん、あるいは看護婦に限らず、多くの専門家たち、例えば社会学者、心理学者などが協力することも必要だと思います。
【司会】どうもありがとうございました。次にリプシッツ先生にお願いしたいと思いますが、リプシッツ先生の日米の共同研究というのは、たいへんおもしろいわけで、若干PRをさせていただくと、笹川医学医療研究財団が研究費を出させていただいたわけです。そのときに日本のナーシング・ホームといわれましたが、あの場合、実際には老人保健施設のカテゴリーですが、支払い方法がご承知のとおり定額制であるため、薬を使うことについてのディスインセンティブが働いているということも事実です。そのへん、他の老人病院、あるいは特別養護老人ホームと呼ばれる税金で補助されているところとは支払い方法が少し違うので、もう少し幅広い比較もまた必要ではないだろうかという気もしています。ディフレント・ホスピタル、クロニック・ホスピタルも必要だと思います。
【リプシッツ】先生がおっしゃったことに対して、少し答えたいと思います。
私は、2つの基本的な価値観を日本の方がもっておられるということにたいへん感銘を受けています。1つは家族に対する価値観です。今回、私は子どもを連れて日本にきていますが、非常に温かく日本の方たちが迎えてくださったことにたいへん感激しました。また多くの方たちから、家族が第1と、家族が何にも優先するということをうかがって、たいへん感銘を受けているのです。
2つ目の価値観は健康です。日本にくる前、健康が第1だと。すなわち、疾病の予防とか、ライフ・プランニング・センターもそのためにあるのではないですか。やはり予防と健康増進のためにあると思います。
ところがこれに対して、高齢者のことになると、まるで違うことを話されます。女性は仕事をもつようになったから、高齢者の面倒などはみられないという。ということは、日本は家族に対する責任というすばらしい価値観に背を向けようとしているように思います。
また、健康第一といわれているにもかかわらず、高齢者が寝たきりになることを期待されてしまっている。これもやはり逆説的です。
また、それだけではない。この2日間、アメリカから学ぶ、アメリカのようになりたいということをうかがいましたが、ほかの方たちの意見をうかがうことはたいへんよいことだと思いますし、ほかの国のやり方を勉強することもたいへん大事だと思います。また、文化的な国際比較をすることもたいへん大事だと思います。私たちもそれを行いました。しかし、自分の基本的な価値は維持していかなければいけないと思うわけです。世界をみながらも、内を見直すことが必要だと思います。自分たちが本来もっている日本の家族観、そして健康観を維持していかなければいけないと思います。
非常に障害の進んだ人たちのために長期的なケアをもつことは大事です。しかしながら、家族もそれに巻き込んでください。家族を必ず関与させていただきたいと思います。ホーム・ケア、ナーシング・ホーム、ホームということばがあることを忘れないでください。家族が入らなければホームではないのです。それから、ボランティアを使うということもありましたが、それもやはり家族です。高齢者がもし施設に入ったとしても、家族の関与が必要だと思います。
もう1つ、保健増進ということです。エーエ先生はじめ多くの方たちが高齢者にも活動させないといけない、といわれました。そして、ライフ・プランニング・センター、平山先生のナーシング・ホームでも、ずっとヘルス・ケア施設に対して活動させていこう、アクティブな生活をさせていきたいという考え方をもっておられるし、これからも続けていただきたいと思います。
【司会】まったくそのとおりですが、同時に、日本の考え方も若干、セルフ・クリティカルということの1つの性格のような気がします。決して自己否定をしているのではなく、むしろ自己批判をしながら前進するという歴史がありますので、そのあたりも分かっていただきたいと思います。
それではメジイ先生お願いします。
【メジイ】私もパネルの最後として、いくつかのコメントをさせていただきたいと思います。リプシッツ先生のお話のように、私も6週間日本に滞在して、すばらしいケア、すばらしいシステムを日本から学びましたし、またいかにして高齢者について考えるかという哲学も学ばせていただきました。これを学生や私の大学の同僚に教えてやりたいと思っています。
もう1つ、心配なことについても話をしたいと思います。いま行っていることから始めてほしいのです。つまり、内をみてほしいということです。だから、高齢者のためにも、すでに日本で蓄積されているものをスタート・ポイントとしてほしいと思うのです。ヘルス・ケアの介護者、そして人間、パーソネルということばをここでは使いますが、これについて話をしたいと思います。
これまでよくいわれていることですが、社会を判断する単位は、最も弱者に対してどれだけのケアを与えているかについて、社会の評価が違うといわれます。またこれに対して、社会に対する評価としては、その弱い人たちの面倒をみる人たちにどれだけの社会的地位を与えているかによって、その社会の評価が決まると思うのです。
先ほど、マン・パワー、パーソン・パワー、ヘルス・ケア・プロバイダー、なんといってもいいのですが、やはりそれぞれの社会において、これらの人たちに対して正確な知識を与えなければいけないと思います。すなわち、いまベッドの世話をしたり、食事を食べさせたり、最も弱い人たちの面倒をみる人たちに正確な知識を与え、その人たちに社会的地位を与えることが必要だと思います。この会議でもたびたび発言されましたが、やはりケアを与える人たちの社会的地位を十分に考えていかなければならないと思います。
そして、これらの問題を十分に考えると、最も新しい専門家の訓練を受けなければいけない若い人たちに、学校でどのような教育を与えるか。そして、高齢者に対するケアに、どのような情報と教育を与えるか。これを明確に考えてほしいと思います。
第2として、スペシャリストをどのようにして教育したらよいか、ということです。すなわち、ヘルス・ケアを与える人たちのリソース・パーソンとなる人たち、これは医師でもソーシャル・ワーカーでも看護婦でもよいのですが、その人たちの教育が大切だと思います。
ナーシング・ホームのナースということがよくいわれますが、この人たちこそほんとうにすばらしいスタッフだと思います。ナーシング・ホームで働く人ほど崇高な仕事はないと思うのです。同じサラリーは外食産業で働いても稼げます。賃金のことを抜きにしても、これだけたいへんな仕事をする人たちに対して高い評価を与えなければいけない。しかし、この人たちに対して十分な知識、情報が与えられていないのです。だから、このケア・ギバーに対するリソース・パーソンとなる人たちを教育することが必要だと思います。
もう1つは、学際的な取組みが必要だと思います。例えば、1人のプロバイダーだけにすべてを任せることはできないわけです。したがって、学際的な取組みが必要になってくると思うのです。
次に、専門職をもたないスタッフをどのように訓練するかということです。専門職をもたないスタッフを、よく訓練し、その訓練を日々新しいものにしていかなければならない。規則的に訓練を与えなければならないと思うのです。そして、いかにして最も新しい情報を現職にある人たちに与えるか。現職教育、アメリカでは継続教育ということばを使っていますが、継続教育をどのように行っていけばよいか、ということです。
また、1つの分野で働いた人が、転職することができるようにする必要があると思います。同じヘルス・ケアの分野においても、転職ができるような教育・訓練が必要だと思います。また、例えば病院の看護婦だった人が老人科の看護婦になる場合もあることから、途中で職を変える人たちに対する訓練、教育も必要だと思います。
もう1つ、モデルのデモンストレーション・プロジェクトをつくる必要があると思います。多くの人たちに、よいケアとは何かを教えることが必要だと思います。アメリカでは「ショウ・アンド・テル」ということばがありますが、目で見、そして耳で聞かせろという意味です。つまり「百聞は一見にしかず」という形のモデルを示したほうが、ほかの人たちに対する教育効果はたいへん大きいのです。また、研究もたいへん重要だと考えています。
多くの方たちからいろいろ学ばせていただきましたが、著名なエレック・エレキソンのことを思い出していました。日本でもよく知られている人だと思いますが、ライフ・サイクルでの発達の段階ということで、最後の段階は、バトラー先生に後で説明していただきたいのですが、絶望に相対する極みということをいわれたわけです、われわれは、次の世代に対して物を残すために、自分たちの死について、加齢について、正確に認識しなければいけない。エレキソンは個々の加齢について述べたのだと思いますが、全国的な形で、国の問題としてこれを取り上げることが必要だと思います。
すなわち、死を見つめ、そして老人のケアを明確にしなければ、次世代に対してよいものを残すことはできない。これはどの文化についてもいえることだと思います。
【司会】たいへんパワフルなメッセージをありがとうございました。いま、メジイ先生がバトラー先生のお名前を出されました。私も筑波大学の医学部で教えていますので、教育についてはやはり非常にたいへんだと反省しています。その意味ではアメリカの医科大学のなかで最初にdepartment of gerontologyをされたバトラー先生に、いまのメジイ先生の最後のことばから、続けて1っコメントをお願いしましょう。
【バトラー】まず、日本では、医学校のなかに老人医学科が12〜15校あるということですが、アメリカにおいては、127校のうちの1校だけです。そういうことで非常に感銘を受けました。アメリカでも14校の大学においては、内科の部門でかなりプログラムがあり、21校においては、精神科のプログラムはもっています。
メジイ先生が先ほどいわれた件ですが、ケアのほとんどを提供する人たちは、少なくとも訓練をされているナース・エードです。そしてサラリーのレベルは低い。前もって訓練を受けたことのない人がほとんどである、そして、すぐにその人たちが替わってしまうということを話されたわけです。
デンマークの方がいわれていましたが、そのようなケアをする役割は価値のあるものだと見直されなければならないと私も考えます。
【司会】第1ラウンドがだいぶ長くなりましたが、それではフロアの方からのご意見、あるいはご質問をおうかがいしたいと思います。
【質問者】私は、静岡瀬名病院の中野と申しますが、エーエ先生に質問させていただきます。患者さんの拘束もなしでしかも向精神薬を使わないで、確か骨折はあまりないというお話でした。その2つを使わないで骨折を起こさないという方法は、?@24時間、夜もだれかがついて監視する、?A日本で高柵ベッドという、おりのような柵の高いものに入れる、?Bベッドを低くして、落ちても骨折しないようにする、?C質のいいクッションをベッドの横におく、の4つがあると思います。先生の施設ではどのような方法で骨折を防いでおられるか、そこを是非お聞きしたいと思います。
【司会】エーエ先生、お願いいたします。
【エーエ】ベッドレールは、ほとんど禁止されています。それは、ベッドレールを使うとその上をまたいで落ちてしまうということを多く目にしたからです。私どもは、布団のようなものをフロアで使っています。もし、布団から落ちても、それほど高さがないということで、日本式にしているのです。
ベッドレールを使ってしまいますと、高齢者がそれをみて、おりのなかに入れられてしまったと感じて、その上に上ろうとしがちです。したがって、私たちは過去数年、このようなものは使っていません。
どのようなケアをしているかですが、大きな施設を小さな区分に分けるということをしています。そして、可能な限り、同じナース、同じナース助手がその入居者をみられるようにして、お互いによく知り合うようにしています。
そのようにして、けんかをする、あるいは逃げ出すということを患者の側が思わないようにしているわけです。しかし、そのような状態にもっていくまで、かなり長い道のりを歩んできました。というのは、デンマークにおいて、ルーティンで、例えば7時に何をするとかさまざまなことがあるので、全体的に変えるということはかなり時間を要するわけです。施設が入居者を入れ込むのではなくて、施設の側が入居者に合わせるようにしていくという形には時間がかかりました。
薬剤に関してですが、これは前にお答えしたと思いますが、特に老人性痴呆の場合、例外として短期的に薬剤を使うこともあります。しかし、薬剤を使わないほうが状態はよいと思います。どうぞ、見学をしていただきたいと思います。
【質問者】少し好奇心からうかがいますが、施設はどのくらいの大きさですか。職員はどのくらいいらっしゃいますか。
【キルク】エーエ先生のお話にちょっと付け加えますが、職員に関しては処遇はいいです。そういうケアをするということは、政策があって決定されだということです。つまり、こういうケアがほしいとデンマークで決定がされ、もちろんそれについてコストはかかります。資源については、できる限り効率的に資源を使うということです。小さくしても、増えるということではありません。計画の問題だと思います。
【質問者】サイズ的にはどのくらいですか。ベッド数はどのくらいですか。
【キルク】前は118床でした。これは老人ホームです。1対1の職員対入居者の割合になっています。
ケアとオキューぺ一ションですが、1人当たり平均1日4.2時間になっています。キッチンなどそういうところの仕事は入っていませんが、労働時間はそうです。そして、われわれのナースと助手はすべて訓練を受けています。
【司会】1人のケア・ワーカーが、1日に何時間働くかによって、4.2時間ケアを必要とする人に対して何人が用意されるかということが計算でき、それがキルク先生がいわれたように、だいたい1対1ぐらいということは、エーエ先生の場合にも事実だということです。
【質問者】九州の佐賀からまいりました。私は痴呆老人専門の100床の病院の看護部長ですが、なおかつ5月1日から老人保健施設、主に痴呆専門で80床開いたところの副施設長として、痴呆老人の看護体制を5年間行ってきて、評価表などいろいろなものをつくってきました。
午前中、ただ抑制するということ、向精神薬を使うか使わないか、そして鍵のかかる部屋のことなどたくさんの問題が出たのですが、これはよいとか悪いとか漠然と検討してもしかたがないと思うのです。患者さんの状態やレベルなしに討議されるので、抑制したらいけない、あるいは向精神薬は悪いということになってしまうと思うのです。
午前中のジャーナリストの方の発言、先ほどの大熊先生のお話も非常にショッキングなことでした。しかし、私は現場人間ですから、そういう面から考えたら、大熊先生ほどではありませんが、ほかの合併症があって痴呆がひどい患者さんの場合、現場では、いざ治療をするときの処置として、どうしても抑制が必要な場合があるわけです。
そして夜間せん妄などがあった場合、抑制するよりも、うちではベッドを全部出して畳の部屋にして、その患者さん1人のためにほかの患者さんを出して、1部屋空けるのです。そして24時間、そこでその人を一生懸命お守りします。早ければ3日で長くても2週間で夜間せん妄はとれます。それぐらいの状況でやっています。したがって、患者さんのレベルによって違うわけで、ときには抑制も、向精神薬も必要です。
きのうのエバンス先生の最後のことばに、私は非常に感動して涙が出る思いがしたのですが、私が分かってもらいたいのは、基本的に看護するものが愛情があってするのかどうかということです。抑制をするときも、だれが聞いても、だれがみても、納得のいく抑制であればよいと私は職員に指導しています。しかも短時間、必要最小限度ということが前提です。そこに愛情があるかないかで抑制のしかたも違ってきます。エバンス先生が、愛情が必要であって、愛情は法律ではできない。しかも、法律で愛情を壊すようなことをしてはいけないといわれました。いろいろな事態が起こったときに、法律的にいろいろなことを決めて制約しようとしますが、そうならないようにスタッフはがんばるべきではないか、私は現場の声として申し上げたいと思います。
そして、どの先生方もいわれなかったのですが、わが子に、老いるということはどういうことなのか、あなたが年をとるとこういうふうになるのですよという教育をすることが、今後10年、20年先にこういう問題が遅すぎたということにならないことの1つの対策ではないかと思います。
特に、日本の社会情勢からみても、核家族が増えているので、老人と対応する、老人を理解できるチャンスが少ない子どもたちに、わが子そのものにそういうことを教えるべきではないかと思います。
【日野原】いまの方、皆さんのために、そして外国からこられている方のためにも、あなたがいる80床の痴呆患者のための施設では、ケアをする人間はどれぐらいおられますか。
【質問者】規定どおり、看護婦は7人です。そのうち、正看護婦が6人、准看が1人です。私を除いてです。そして、介護助手が22人。私もやはり、先ほどからいわれているスタッフの教育が非常に大切だと思っていますので、介護士に対する規制は何もありませんでしたが、1989年3月の短大の新卒を22人入れました。そして私のほうで教育しています。
【司会】どうもありがとうございました。大熊先生が手を上げられましたので大熊先生お願いします。
【大熊】先ほどのご質問にお答えしたいと思います。専門家は縛るとはいわず、抑制というふうに上品にいわれるが、私どものことばで縛ると申し上げさせていただきます。ある病院の例に取り上げると、おむつを夕方6時に取り替えてから、朝まで取り替えませんので、お年寄りはおむつがぬれたのが気持ちが悪いので外そうとする。そうすると、ベッドが汚れて、あとあと困るというのが縛る最大の理由です。
副次的に俳徊というのがあるのですが、俳徊は、たぶん昼間の間に何も活動がなくて、ボーッとすごしてしまうことに原因があるのではないかと思います。西山先生の施設では昼間、体を動かすので、夜はぐっすり眠られるというお話があったように思います。
だから、お話のような短期間、10分間とか、何かをする間、抑制するというものではなくて、夕方の6時から朝の6時までべったり縛られているということです。
抑制というものを、2つに考えなければいけないと思います。12時間にわたる抑制と、5分、10分の抑制とは少し意味が違うのではないかと思いますが、いずれにしろ、あの方が重くて暴れるから、抑制されているのではないということは、はっきりと申し上げられると思います。
そして、例示した病院の場合、院長さんは東大のご出身で、医局は東京医大からというわけで、決してそれほど度外れた病院ではなく、正式に予告をして監査をすると、完全にパスする病院だということですから、ほかにもこのような病院がある可能性があります。
先ほど、愛情をもって抑制すれば患者さんも感謝するだろうというようなお話がありましたが、私自身は、どんなに愛情があっても、縛られるのはいやです。デンマークで縛らないというのは、そういう当事者の身になって考えているから縛らないのだと思います。それでは、縛らないですむようなヒューマン・パワーはどれだけ必要か。そのためにはお金はどれだけ必要かというように、話が進んだのではないかと思います。
そういう過程を抜きにして、愛情があれば縛ってもいいだろうという考えをまずやめなければいけないのではないか。そして、現場の方たちがたいへんな自己犠牲をし、献身的に、いまのひどい看護要員、介護要員のままでなんとかしてしまうということも、もうそろそろやめなければいけないのではないかと思います。
少しデンマークの方から、なぜ縛らなくてもできるのかということを話してもらえればと思います。
【司会】そのことは後で、スウェーデンの方もおられるのでお聞きしますが、先ほど手を上げられた方いらっしゃいますね。どうぞ。
【質問】福岡の鈴木でございます。精神科医です。遠藤周作さんのお話で、少し頭の痛いことがありました。日本の救急医療は全然なっていないではないか、もう少し整備する必要があるというお話でした。毎年、公営企業年鑑という刊行物が出ているわけですが、1990年の病院の部をみますと、救急の部と老人痴呆を入れた精神医療は不採算部門のトップになっているわけです。不採算部門として放置しておくことは非常にまずいわけで、こういうことをまず解決してもらわなければいけないのではないでしょうか。
次に、マン・パワーといってはいけないようですが、パワーの問題として、看護婦さんの資格をもつ人たちは准看、正看を合わせて全国で150万人いるわけです。しかし、そのうち実際勤務しているのは半分もいないわけです。つまり、資格がありながらほかの職業に流れているという状況があるわけです。そういう人たちの話を聞きますと、これはアメリカも日本も同じだと思うのですが、看護婦は非常に大事な仕事、どんなに給料が安くてもやるのだという使命感に満ちた人と、いやな仕事で給料も少ないからやめる、という2つに分かれるのです。まじめな看護婦さんのためにも、やはりもう少し給料を厚くしてやる必要がある。新聞を読んでいたら、やはり倍ぐらい看護婦さんに出すべきではないだろうかという率直な意見が出ていたわけですが、これは主に大熊先生にコメントをいただきたいと思っています。
もう1つ、日本は古来から、両親の面倒は家を引き継いだ長男がみて、もし両親が病気になったら長男の嫁がみるのが美徳なのだという伝統があるわけです。最近はだいぶそれもすたれてきたようですが、そういう状況は日本が非常に顕著だということは、2〜3年前、折茂先生のデータでも少しあったように記憶しています。そういうことから、長男のお嫁さんが非常にフラストレーションもかぶるし、それに応じてお年寄りもいろいろトラブルもある。そのような状況をどのように解決すればよいのか。これも大熊先生にコメントをいただきたいと思います。
もう1つ、先ほどの大塚先生の、なんとか痴呆は予防できるのではないか、というお話ですが、これも私は大事なことだと思います。血管性痴呆はある程度予防できるわけで、私は65歳の人の痴呆率の4%ぐらいはなんとか、社会事情もよいし、いろいろ精神保健的なケア、啓蒙運動でできるのではないかと思い、保健所とタイアップして行っているわけです。そういう意味で、大塚先生のお話を、たいへんありがたく拝聴しました。
【司会】大熊先生が質問したのですが、逆になってしまいました。それでは、大熊先生お願いします。
【大熊】まず、ナースについてですが、ナースの給与が少ないと私は思っています。初任給はちょっとよさそうにみえるのですが、それは超超過勤務をしているためで、その後、年齢が高くなればなるほど、同じような学歴の人よりも差が開くばかりです。ナースの資格は高卒3年ですが、私は仕事の責任の重さなどから考えて、同年齢の大卒の給与を差し上げて当然だと思っていますし、それが保障されるように、診療報酬の看護料を引き上げなければいけないと思っています。
お嫁さんの件は、先ほども出てきましたが、ホーム・ヘルパーというプロを正式に養成し、お嫁さんや家族は精神的なところで主に関わり合って、その愛情が消えないようにしていくことが大切だと思います。いまの状況では、愛情をもっていた人があまりにかぶりすぎて、愛情も枯れ果ててしまっている。そういった状態にならないように、お嫁さんがみることが美徳という考え方も切り換えていかなければいけないと思っています。
【司会】ありがとうございました。先ほど、デンマークの場合なぜ拘束なしでできるのだろうかという質問が大熊先生から出されましたが、それについてエーエ先生お願いします。
【エーエ】もしよろしければ、初めに看護婦の問題についてコメントしたいと思います。看護婦というのは、ミッション(使命)であるべきではありません。普通の仕事です。使命ではありません。患者は機械ではなく、人間なのです。人間に接するのですから、なんらかの能力、そして同情、共感の能力が必要です。つまり、看護婦になりたいという精神が必要なのです。
日本では看護婦が不足しているというように理解しています。私は毎日、家にいたいと思います。いろいろなことを感じることができます。それは、施設にいる場合と非常に違うと思います。私の働いている国は恵まれていて、ケアが必要な人に対して、必要とされているケアを提供することができます。本当にそういうことがこの国ではできないのでしょうか。デンマークで行っているようなことが日本では本当に不可能なのでしょうか、
そのことで次に、デンマークではなぜ拘束が必要ないのか、という問題が提起されます。これは、寝たきり患者がいないことの理由と同じです。姿勢の問題だと思います。それほど恐れていない。先ほどもいったのですが、足の骨を折るということを、それほど恐れていないわけです。人生にはそういうリスクはつきものですし、それほど高い頻度でけがとか骨折が起こっているわけではありません。そういうことを恐れるよりも、1人の独立した入居者としてサポートしてあげる。施設に収容され、ずっとベッドに張りつけられているということよりも、生活をしているという感じを与えたほうがいいと思います。
朝まで寝たきりにしておくということはよくないことです。ときとして、ある種の固定をする必要があります。例えば、足を切断しているような人の場合には、固定することが必要だと思います。車いすの前にテーブルがあって、立つときには必ず注意をして立つようにする。足を失っていますので、胸のところにテーブルのようなものをおいておくというようにしています。ところが、あまりにも固定してしまうと、残存機能がなくなってしまうし、あまり予防にもならないと思います。この点は先ほど発言があったと思います。この点については、日本では拘束によって悪化してしまったという研究結果がある、という話があったと思います。答になりましたでしょうか。
【メジイ】私は、2つ申し上げたいと思います。ナースが仕事を続ける、そしてその雇用条件の問題ですが、先ほど、非常にフラストレーションを覚える状況にナースがいる、と指摘されました。アメリカのナーシング・ホームのプログラムでは、ナーシング・スクールをナーシング・ホームと連携させています。
1つ、非常によい結果が得られました。ナースの幹部のような人たちがグループをつくって、こういう人たちがナーシング・ホームと話をしています。だれも孤独感をもって仕事をしたくないのです。また、たいへんな問題、自分では解決できない問題があるわけですが、グループをつくって、問題を分かち合う、討論をするということをしています。
日本では、ナースが困難な状況にあります。しかも孤立しているのではないでしょうか。ナースの孤立ということが問題なのではないでしょうか。
あと2つのことがアメリカではナースの仕事に対する満足度を高めてきたのです。1つは臨床の段階で仕事の分類を変えて、ナースが出世できる。管理者までとはいきませんが、高い臨床のポジションに就けるようになっています。新しいナースのための仕事もつくると同時に、臨床の責任の地位をエキスパート・ナースのためにつくっています。このように、雇用を分類した後、differenciation(区別)して、高い地位、登用の機会、昇進の機会を与えているということで、満足度を高められました。
もう1つ、アメリカの行っている方法で、ナースの仕事満足度向上に役に立つのではないかと思われるものは、サラリーです。サラリーは過小評価していません。サラリーは絶対的な必要条件です。低賃金ではいけないのです。満足度を上げるためには、どの社会でも同じことがいえます。
もう1つ、ナースと医師との間になんらかの互いに合意できる、安心できる関係をつくるということです。ナースは教育を受けてきているわけで、再編成、つまり医師と看護婦の関係を再編成することが必要です。医師も看護婦も満足している場合には、看護婦も長い間仕事を続けるし、それと同時に、患者の罹病率、あるいは患者の回復に非常によい影響を与えています。死亡率低下にもよい影響を与えていることが分かりました。
【司会】そのとおりだと思います。いまの看護婦に対してのお話は、同時に、施設に働くそのほかの従業員にもまったく同じことがあてはまるだろうと思っていますが、リプシッツ先生、どうでしょうか。デンマークおよびスウェーデンでは、固定ということば、フィクセーションということばを使うのか、あるいは抑制、縛るということばを使うのか、ナーシング・ホームではまだ抑制があるのではないか。この原因と、それが除去できる方法について、リプシッツ先生、個人的なご意見がありましたらお願いします。
【リプシッツ】私どものセンターではなるべく使わないようにしていますが、実際、拘束着は多く使われています。調査によっても、必要以上に使っているところがあります。最近、、立法化されて、1990年の10月からすべてのナーシング・ホームが、この拘束着の使い方についての調査をして、なるべく拘束着、また拘束具は使わないですむようにという方向にあります。
メジイ先生がいわれたように、やはり罹患率にもたいへん関係してきますし、拘束着をつけられると興奮してしまうということもあります。そういうわけで、拘束を減らすという努力をしています。
しかし、すでにこのような拘束着を使うことに慣れている人たちにとっては、これを取り払うことはなかなか難しいのです。何か独創的な解決策を見つける必要があるかと思います。例えば、行動や徘徊など、それらの問題に対してどのように対処するかを考えることが必要だと思います。
次に、寛容性だと思います。寛容性がないと、徘徊したり、変な行動をしたら、抑えてしまおうとするのです。看護婦も忙しいですし、なるべく自分の仕事は減らしたい。だれかを縛って拘束しておけば、時間がほかに使えるわけです。文化や国によっても、寛容度が違うと思いますが、寛容性がないということも1つあると思います。
また、ナーシング・ホームの管理者たちは、スタッフに対して自由を与えているわけです。使わない自由です。私たちが拘束なしに、もし転倒してしまったら、あるいはベッドから落ちたら、訴訟を起こされるかもしれないわけです。そうすると、病院の管理者たちは困りますから、トップのほうからなるべく拘束着を使ったほうがよいということがあるわけです。私のナーシング・ホームでは管理者のほうから、例えばこのナーシング・ホームで股関節の骨折がなければ、何かやり方がまずいのではないかということがいわれないようにということです。やはり常識を使うということが大事です。
例えば、徘徊が心配な場合、ドアを目立たないようにするということも1つの解決の方法かもしれない。開けにくくするなど、いろいろな形で徘徊を防ぐこともできるし、独創的な形で解決策を見つけることが大事ではないでしょうか。
【司会】次のご質問の方、どうぞ。
【質問者】先ほどから身体拘束の問題が盛んに議論されていますが、私どもの施設でも、精神科の病棟では、合併症のお年寄りの方が多くて、ときに拘束が必要なのですが、その際は主治医がサインをしないとできないようになっています。しかも、正式な文書でその理由を明記し、時間までいわなければいけない。何時間以上になったら、それはまた改めて評価しないといけない、という厳密な方法を取っています。
しかし、ほかにもしっかりした施設で、身体拘束をやむなく行うという、非常にリミテッドなことをしている施設もたくさんあると思うのです。
そして、老人病院が批判されますが、現在、天本宏という方が院長の「老人医療を考える会」という、100床ぐらいの老人病院が多摩のほうにあります。この方がイニシアティブを取って、老人病院自体のなかから老人医療を考えて、よりよく改善していこうという動きが出ていますので、そう外国の方にも恥ずかしくない老人病院もあるのではないかと思っています。
そして、予防のことですが、東京都で痴呆老人の疫学調査を1980年と1988年に行ったのですが、出現率は減少しているのです。1980年には65歳以上が4.6%ところが、8年たって、同じスタッフが同じ診断基準で行ったのですが、4.0%でした。しかし、その間に東京都の老人人口は増えていますから、あとの1988年の推計出現率は5.3%になるはずです。したがって、予想された値よりもずっと少なくなっています。
この理由は、脳血管障害の治療が進歩して、予防が成功しつつあるということの1つではないかと思います。それは老人研究所副所長の柄澤先生のお仕事ですが、環境の要因をいろいろな努力によって、アルツハイマーはともかく、痴呆の出現率に、そういう数字が出ています。
私たちはアメリカのLIAと協力しているのですが、痴呆の出現率がアメリカは10%、日本は5〜6%なのです。これは診断基準の差によるものではないでしょうか。アメリカはアルツハイマー病が非常に多く、日本は脳血管性痴呆が多い。そして先ほどの骨折の話では、和式トイレの場合、骨折は少ないということでライフ・スタイルが老人の病気にいろいろな影響を与えているのではないかと思います。
こういう面で、トランスカルチュアルな疫学というか、疫学調査を日米で現在進めつつあります。そういうことが今後の重要な研究ではないかと思います。
最後になりましたが、理念がたいへん大切だと思います。老人のケアをする場合に、どういう理念をもつか、私たちが老いに対してどのように考えているかが非常に重要だと思います。
【司会】どうもありがとうございました。それでは、時間もだんだんなくなってきましたので、エステスさん、お願いします。
【エステス】ナーシング・ホームと拘束着についてお話ししたいと思います。高齢者に対するコンセプトのなかでは、非常によいプログラムがアメリカで行われています。これは、ナーシング・ホームの入居者に力を与えよう、権利を与えようというものです。すなわち、チームをつくって、このホームのスタッフと患者が協力するものです。患者ごとに再活性をするようなプランを立てています。そういうわけで、それぞれ個人の入居者がなるべく多くの独立性をもつことができるように、入所しながら独立できるようなプログラムを採用しています。
スタッフの考え方の方向を変え、やはり人居者により多くの力を与えて、彼らの知恵を使って、意思決定にも参加してもらう。そういう形で権力、あるいは権限を与え、できれば社会的にコントロールする機能を患者に取りもどしてもらおうというものです。やはりコミュニティという形で意識を高揚させるとか、私たちのアプローチの見直しをしようとしています。これは非常にラディカルな、劇的な変化がもしれませんが、やはり人居者に独立性を与えるという面ではたいへんよいと思います。
【司会】大塚先生、お願いします。
【大塚】私も精神科医なのですが、日本では精神保健法という法律があり、拘束、あるいは隔離ということについては非常にうるさいわけです。先ほど先生がいわれたように、そのことを正確に記載しなければいけないこととなっています。したがって、拘束の定義が難しいのですが、老人ホームで拘束をするということは、いまの日本では法律的に間違っているということをつけ加えておきます。
【質問者】軽費老人ホーム清林ハイツの管理部長をしています梶村と申します。広い意味での高齢者ケアに関係すると思われますので、ご質問させていただきます。
痴呆性問題の議論に参加させていただいたのですが、痴呆性ということになると、社会的権利というか、意思能力がないという判断を受け、いろいろなことに対する決定権を失うわけです。そして、痴呆性老人としての主体性を尊重するということの2面性をもっています。
特に日本の場合、老人というのは長い間の蓄積というか、財産関係等についてずいぶん大きな権利を残している場合が多いもので、最後の段階で自らの意思が踏みにじられて、周りの人に決定が任されてしまう場合が非常に多い。そのような重大な結果が生ずる痴呆性の判断というものは精神科のお医者さんがされることになると思いますが、その場合、精神科のお医者さんにみせるということ自体が非常に人権問題になる可能性があるわけです。このあたり、諸外国の方々はどのような問題をもっておられるのか、少しお聞きしたいと思います。
【司会】ご質問はお分かりだと思いますが、われわれは高齢者の問題で、高齢者のアイデンティティということを議論したわけです。インディペンデントということばを使いました。しかし、痴呆性老人におけるインディペンデント、あるいはアイデンティティということをどのように考えるかということです。まずデンマーク、次にスウェーデンの方にその点についてお聞きしたいと思います。いかがでしょうか。
【エーエ】いろいろな形で診断が行われます。地域によっても違うわけですが、ほとんど病院で診断が行われます。一般の内科医が診断の過程で大きな役割を果たしますし、長期間かかって診断を受けることもあります。例えば、軽度な痴呆が2年後には非常に重度な痴呆になっていることもあります。そういうわけで、診断に対する明確な画一的なモデルはないのですが、デンマークにおいても、明確なアセスメントをさせるためには、コンセンサス・べースで行う必要があるかもしれないということがいわれました。
【司会】デンマークでは、あまり問題がないわけではないというように理解しました。サンドストロム先生のほうから、スウェーデンのご経験を聞かせてください。
【ザンドストロム】先ほどのご質問は、資産をもった老人が痴呆であるという診断をされた場合に、経済的な利益の問題が出てくるということだったと思います。昔、スウェーデンでもそういうことがありました。いくつかのスキャンダルもあったわけです。しかし、今日ではそういう社会的な問題はほとんどありません。
例えば、痴呆であっても財産権を失う、あるいは法的権利を失うということはありません。したがって、例えば痴呆である人の資産を死ぬ前に勝手にすることはできません。お金持ちが痴呆になっても、その財産を家族が無責任な形で使いたいと思っても、家族はどうすることもできないわけです。正式な形での対処が行われていますから、もし痴呆であると診断されたとしても、その財産権、法的権利が失われるわけではありません。
また、診断もやはりその地域によって違います。調査によると、痴呆と診断されていない人もいますし、また間違った診断がされているときもあります。大学の診療所でよい診断のプログラムがありますが、そこにくる人たちの10%は一般開業医によって痴呆であると診断されたが、結局はそうでなかったということです。脱水症状があったり、うつ病であっただけということもいわれています。
【司会】バトラー先生、いかがですか。
【バトラー】診断ということに関してですが、1950年代のアメリカにおいては、老人性の精神病であるということをいいました。そして、血管性のものも精神病とされていたわけです。例えば、ニューヨーク州において、なんらかの疑問があった場合、アテローム性硬化症であっても、サイコーセスという形をとられたという、かなり間違ったこともあったわけです。
それで、診断的なマーカーをわれわれは使うことにしました。これは除外していくことで行う診断法です。これは非常に大きな問題となり、治療の利用、あるいは臨床治験に関して、そしてどういう対象者にするのかということに関連しても問題が出てきました。
長谷川先生もいわれましたが、これはアメリカにとっても日本にとってもたいへん重要なステップであると思うのですが、合同で委員会をつくって、医師とか疫学者がいっしょになり、神経病理学者がそこに参加し、規準をはっきりさせるべきだと私は思っています。これによって病因的な、お互いに理解できるべースを構築すべきだと考えます。
例えば日本の場合は、痴呆といっても、あるタイプが多いといわれています。ということで、診断という観点をもう少し深く見直す必要があると思います。そうしなければ、社会が大きな問題に直面してしまうことになり、結果的に確かな治療ができなくなってしまうと思います。
もう1つ、高齢化に関しての委員会ができています。4つの重要な点があるのですが、そのうちの1つに痴呆の疫学研究が取り上げられています。もう1つはコストという観点、もう1つは人の苦しみという観点からとらえる考え方です。
【鎌田】話を元にもどすようで申しわけありませんが、抑制のことで少し私のほうから話をしてみたいのです。例えばデンマークと日本とを比べた場合、看護するスタッフの人数がはるかに少ないということがすでにいわれています。しかし、日本でもデンマークに近い形で、抑制を行わないで、すばらしいケアを実施している老人ホームもたくさんあるわけです。また一方、大熊先生がご指摘されましたように、病院の形態をとっているところでは、確かに抑制を安易にしているというか、目にあまるような状況もあると思うのです。
そういうことを考えてみると、人数ということも確かにべースにはありますが、やはり老人ケアの場合、日本では、医療のなかでケアを行うという姿勢がどうしてもいまもって少ないと思うのです。それでどうしても抑制、あるいは薬などに安易に頼りたがるといういままでの悪い意識があると思います。
もちろん医療費の配分なども含めて、そのへんが変わっていくことが大切だと思います。最初に私も強調しましたが、実際に抑制したり縛ったりして、手を下すのは看護婦であることが少なくないと思いますので、やはり老人医療とか慢性期の医療に対して、もう少し看護婦の関心が高まって、意識が変わっていくことも大事なことだと思いますので、是非デンマークのそういう技術的なものは学びたいと思います。
【エーエ】診断ということに関して、短くコメントさせていただきたいと思います。私が働いている自治体のリハビリテーション・センターの場合ですが、患者は、ほとんどホーム、あるいは病院からきているわけですが、痴呆の疑心があると、血流のテストを行います。さらに、2つの心理テストを行います。それによって、どのレベルの痴呆かをみるのです。
最初の段階では、あまりにたいへんではないかといわれたのですが、心理テストの結果が非常に悪く、痴呆と思われた人が、そうではなかったということが分かりました。そしてなんらかの治療をして、自宅にもどることができたということも実際にあったわけです。したがって、そういうテストを第1段階で行うことが非常に重要であると思います。
制約、抑制に関して、デンマークにおいても同じような法律があります。どうしても使わなければいけない場合には、その許可をもらわなければいけないことになっています。その許可なしに使うと、罰せられることになります。
もう1度強調したいのですが、スタッフの観点です。よく訓練された職員がいて、入居者のことをよく知っており、入居者の側も職員のことをよく知っていれば、こういう兆候があればどこが悪いのか、脳に支障があるのか、あるいはただ単に行動の問題なのか、ということが職員に分かり、実際に悪いことが起こってしまう前に何かできるはずです。
私どもの場合に、叫んだりする人は非常にまれです。確かに俳徊は初期の段階ではみられますが、それは理解できることです。ときとして、攻撃的になる場合もありますが、私どもが理解し、われわれが理解しているということを示せば、皮質を使って考えることができるようになってくるわけです。
感情ということは悪いことではありません。そして感覚で職員が自分たちを愛しているということが分かれば、うまくいくと思います。その点がたいへん重要な点だと私は思います。見落としてはならなし点だと思うのです。
【質問者】特養関係者の1人として、大熊先生にご理解とお願いをしたいと思ってお話させていただきます。島根県の鹿毛でございます。先ほどから抑制のことが出ていますが、島根県では、32の施設が、例えば夜は5回のおしめを換えます。1回に1時間かかります。そして用なしコールが7,8回あれば、側に行って手を握り、話し相手になってやりながら、眠るのを待ちます。そういう努力を大部分の特養関係者はしています。
先般、老人福祉クラブの人にお会いしたら、昔は「親孝行したいときには親はなし」といいましたが、いまは「親孝行したくないのに親がいる」というようにいわれていると嘆いていました。そういうなかで施設関係者は、国、県の指導を受けながら、限られた体制のなかで、長生きしてよかったといわれるような、長寿社会が明るい社会になるような、そういう地域福祉の拠点としての役割を果たすべく、がんばっているのです。
それはなぜかといえば、いま例えば消費税3%といっても、日本の場合、まだ残念ながら高福祉低負担という国民の気持ちが強いわけです。ですから、大熊先生のようにご高名な方は、どうぞ地域の福祉づくりのために論陣を張って、福祉の風土づくりのためにもこれからお願いをしたい。そんな気持ちです。
【司会】ありがとうございました。それは大熊先生ばかりではなく、われわれ全体が考えなければならないことです。
それでは折茂先生、お願いします。
【折茂】老人医療というのは、医者と看護婦、家族、その他、施設の方のチームで行うものだと思います。しかし、主導権を握るのはやはりリーダーとしての医者ではないかと考えます。従来、医者の生きがいというのは、患者さんがよくなる、患者さんを治すということにありました。現在では、お年寄りをみている限り、ターミナル・ケアなど、治す喜びはだんだんなくなってきているということで、まずいちばん大事なことは医者の意識改革を行うことではないかと思います。
それには、医学教育のことから考え直さなければならない。日本では医学部が80ありますが、いわゆる老年病学教室をもっているのは12にすぎず、私のところで最初に老年病学教室ができてから30年近く経過しますが、いまだに12で、あまり新しいものができる気配がありません。これは非常に悲しむべきことで、とにかく医者の教育をしなければいけません。
寝たきり老人をつくるなどの多くの問題は、老人に対する知識の欠如、老人に対する理解のなさから出てくると思われます。この教育のシステムをしっかりさせることがいちばん大事ではないかと思います。
2番目に大切なことは、お年寄りに関してはあまりにも分からないことが多いわけです。したがって、研究ということが非常に大切だと思います。特に薬では、お年寄りにどのくらいの薬を与えたらよいかという問題、検査でも、どこから異常とすべきかの判断、こういうことがまったく分かっていない。非常に分野が後れています。
医学の進歩を医療に反映するという努力が非常に必要なのではないでしょうか。是非こういう機会に皆さんのご理解をいただきたいと思います。
最後に大事なことは、ケアをする場合、お年寄りはそれぞれ異なった要求をもっていますので、あまり画一的な、お仕着せ的なことではかえってマイナスになる面があるということです。お年寄りがどういうことを本当にしてほしいかをよく理解して、それに対するケアをしてあげるのがいちばんベストではなでしょうか。
老人医療というのは、突き詰めれば地域医療だと思います。地域によってそれぞれ特色があり、人の考え方も違います。したがって、地域でそういう老人センターのようなものをつくって、医者のみならず、医療に従事する看護婦、PT,0T、そして家族の方も含めた教育をしていく必要があるのではないかと私は提言したい。
大学というところは制度を変えることがなかなか難しく、特に、私どものような古い大学ではなおさらです。若い学生もお年寄りの面倒はあまりみたがらない。現在の状態では、世の中が本当に必要としている医学教育をしていないと思います。これはやはり国の問題で、厚生省あるいは文部省などの役人の方に十分考えていただかなければならない重要な問題だと思います。
【司会】まだフラストレーションがたくさんあると思います。中島先生、お願いします。
【中島】折茂先生がお話になってくださいましたので、私はお医者さんの応援団として申し上げたいと思います。
医師がリーダー・シップを取るということに関しては不満があるわけではありません。しかし、医学的診断において医師は権威をもち、その判定に関して確信をもてばよいわけです。外国の諸先生が配慮深く、常識やアセスメントなどを深く見直す必要があるなどいろいろいわれているのは、痴呆性老人にせよ、寝たきり老人にせよ、総合的に診断しなければ医師の診断だけでは診断ということにはならないという意味でアセスメントなわけです。そのような意味で、私は本当に医師に意識改革をしてもらわなければ、老人医療は成り立たないと思っています。
同時に看護婦、そのほかのマン・パワーが、困ったときの医師頼みという姿勢を1度捨てるべきだと思います。アメリカのメジイ先生が、看護婦がどの程度選択肢をもてたかという実験研究を示されていましたが、看護婦も医師も医療関係者は総じて、素人の人が圧倒的に多い福祉施設のメンバーから比べると、選択肢が非常に少ないということに問題があり、そして日野原先生の問題提起というか、今回のシンポジウムはそのために開かれたのだと思います。
そのような意味で、私たちは自分たちが専門家だということで、どの権利か、などということではすまないと思います。そういう意味での意識改革、本当の意味でのアセスメントを大事にしていくことを考えなければいけないと思っています。
【質問者】リプシッツ先生といっしょに材料を提供した、千葉の晴山苑の平山です。いまのお話は、医者の意識革命ということでした。お年寄りの問題に取り組むためにどうしなければいけないのか。いちばん先に考えるのは、なぜ日本では寝たきりになるのかということです。日本人というのは、やはり子どもの世話になるという感覚があるわけです。子どもにしても、自分で資力があり住まいがあれば、お年寄りの面倒をみたいという感覚です。
日本人の精神構造のなかには、有名な「甘えの構造」があるわけです。年をとって体の具合いが悪くなれば、寝て療養をしよう、薬を飲んで治そうとするわけです。そういうものが重なると、残った機能がだんだんなくなるわけです。
一方、日本には非常に優れた医療制度があって、無制限に非常に安い料金で面倒をみてもらえるので、ある程度動けなくなった人は、いままでの習慣で病院に行ってしまうわけです。病院では、どうしても急性期の療養が主体です。どうしてもそれが主体になる。自分の診ている患者の病気をどのように治そうかということですが、寝たきりを治す薬があるわけではないし、痴呆というものが薬でどれだけ治るのかも分かりません。ただ、そのようにだんだん残った機能がなくなってくるわけです。したがって、病院という形で対応するのは非常に難しいわけです。
私のところでは、特別養護老人ホームを14年前、笹川先生のご支援で始めました。老人保健施設も4年前からやっていますが、老人保健施設を始めるときに、帰せるお年寄りと帰せないお年寄りがいるわけです。寝かせきりにさせられたお年寄りは、残存機能を尊重することによって治るので、帰せるお年寄りになるわけです。
お年寄りであれ、寝たきりであれ、痴呆であれ、お年寄りの感情はわれわれとあまり変わらないと思っているのです。われわれがいやなことはお年寄りもいやだと思うのです。そのようなことから、少なくとも寝たきりであれば、ベッドを少しギャッジを上げる。ギャッジが上がれば座らせてあげる。座ることができれば、車いすで動かす。そのようなことを重ねていけば、自分で移動もできるということから、人格を取りもどせる範囲があるわけです。
それをだれが決めていくかということですが、これは医者とか看護婦が決める問題ではなく、施設で働く全員が決めていくことだと思うのです。少なくとも、老人保健施設という新しい組織では、医者、看護婦、看護士、0T,PT、すべて同じであり、同一の意見をいって、老人の最善を求めている。このような風潮があって、少なくともこれを進めていきたいと思っています。
【司会】いまのお話を聞くと、医師の意識改革も行われつつあるという印象を受けました。もっと皆さんとディスカッションをしたいと思うのですが、そろそろ最終段階に入りたいと思います、バトラー先生、結びのことばをお願いします。
【バトラー】たいへんすばらしい2日間をすごしたと思います。私たちは、いかに国際的比較、そして文化的なものの考え方が大事であるかということを認識できたと思います。私は、医師として、寝たきり老人のことをさんざんうかがいましたので、厚生省および国際的リーダー・シップ・センターに対して、是非、実際に私がみた大宮の寝たきり病院を訪ねていただきたいと思います。
そうすれば、いま最後の方がいわれたように、いろいろな疾病があるということが分かります、しかも、そこに文化によく依存したものがある、態度に依存したものがあると思います。人間はいろいろな発達段階をとるものですが、活動は続けていきたい。歩かないから寝たきりになるのです。
畳のビクティムになるといわれた方がいますが、高血圧を防止する。日本の健康手帳、これも使っていただきたい。そして、エバンス先生がいわれたように、「ツー・アワー・ウインド・オポチュニティ」をもっていただきたいと思います。つまり、脳卒中の患者はもっと積極的な形で治療ができるようにしていただきたいと思うわけです。
ここにいらっしゃる方たち一人ひとりが、この寝たきり状態のコンセプトをつくると理解していただきたいと思います。そうすれば、いかにして文化を変えていくことができるかということも認識していただけるだろうと思います。
もう1つ、私が申し上げたいことは、きょうのシンポジウムのタイトルを十分理解していないと思います。高齢者ケアについて、高齢化社会に向けて、「不安なき高齢化社会をめざして」と書いてありますが、この不安というものについて十分に討議をしなかったと思います。高齢者ということを討議するときに、やはり不安、あるいは恐れがあると思います。これは文化を越えて、普遍的な恐れだと思います。また、私どもが将来、シンポジウムをもつときに、この「不安なき」ということを考えておきたいと思います。
笹川医学医療研究財団と日本船舶振興会は、包括的な、広角的な形でこのような大きなテーマについては討議をしていただきたいと思います。長寿社会というのは、今世紀、21世紀に非常に大きな特徴をもつものであるし、現在だけで討議できるものではないと思います。私たちは、これからの長いプロセスを考えていかなければいけない、進化的に進んでいかなければならないと思います。
そして、いままでは人間の有限性を拒否してきたわけで、それによって高齢に関する不安が起こってきたと思うのですが、それに打ち勝っていかなければならないと思います。やはり人間社会の進化ということを考えると、これまでいろいろいわれてきたことを全部統合して考えていかなければならないと思います。
まず、これまで考えられてきた性に関する問題、女性のほうが人道的である、あるいは介助したい気持ちである、というのはもはや過去のものだと思います。性差ということを考えてはいけないわけで、現在では、女性が介助者として大きな重荷を負っているわけですが、これに対しても変化を行い、この負担を男女でシェアしていく必要があると思います。
第2には、やはり人間自身の進化だと思います。高齢化に対して不安をもつということは、心理的にどのようにして死を乗り越えていくかという準備ができていないのだと思います。現在、活発に活躍していても、やがて高齢化して動けなくなってしまうのではないかという不安。人間の有限性についての、死を乗り越えるという準備を個人がしなければならないと思います。
また、内面的なものばかりではなく、例えばこれまでの若い人たちを高齢者がいろいろな形で助けるという、これらの社会における不安を克服していくことが必要だと思います。そして、高齢者が若い人たちに対して、どのように美しく年をとればよいのか、どのように死ねばよいのかということを知らせていかなければいけないわけです。そういうことから、人間の環境的な進化が必要だと思います。
また、選択が必要だと思います。コントロールする、支配するということ、すなわち自分をコントロールすることができなければいけないと思います。また、ケース・マネージメントを生み出していかなければいけないし、ケアの調整が必要だと思います。
日本語には正確に訳せないようなことばもあるかもしれませんが、ペイシャントというのは苦しみということです。忍耐をしなければならないという意味です。英語では患者のことをペイシャントといいます。しかし、この忍耐をするべき患者ではなくて、環境を変えて、すべての近代的な技術を生み出して、新しい世界をつくっていくことが必要だと思います。
次に教育の進化です。また、一般大衆の啓蒙が大事だと思います。やはり小さいときからこの啓蒙活動が必要だと思うのです。音楽、芸術、これはマイナーだと考えられていますが、これらをもっとメジャーなものにしていくことが必要だと思います。
そして、ライフ・サイクルに対する準備を小さいときから行っていくことが必要だと思います。そうすると、不安ということが高齢と関係がなくなってくるでしょう。すなわち「不安なき老後」について準備をするためには、このように統一性と継続性を人生にもたなければいけないわけです。そのために大衆を啓蒙しなければいけないのです。
そして、プロバイダーとしての啓蒙も必要だと思います。やはり人間のドラマでの強いプレイヤーとなるためにも、協力しなければいけない。1人では何もすることができない。看護婦、物理療法士、リハビリの専門家、すべての人が協力して働くことが大事だと思います。
それから政策の進展も必要です。安全な社会にするために多くの政策がされているわけです。一人ひとりではコントロールできなくても、社会的、経済的な大きな問題が起こらないように、明確な政策があるわけです。福祉国家ということがよくいわれますが、基本的なべースを社会に対して与えているのがやはり政策ではないでしょうか。
そして哲学、つまりものの考え方の進展も必要です。西洋には、哲学に関する文献がありません。われわれが年をとったときにどういう行動をとるかという文献がほとんど西洋にはないわけです。やはりこれも死に対する恐れに関係してくると思うのです。したがって、高齢化、加齢ということについて、やはり哲学を生み出すことが必要だと考えています。
先ほどの「不安なき高齢化社会をめざして」というテーマですが、どのような形で私たちが自分たちの将来を考え、そしてどのような形で行動していくか、加齢に対してどのように対処するか、哲学的なディスカッションが必要だと思います。東西のディスカッションを今回も行うことができて、たいへんよいシンポジウムだったと思います。
この2日間、私たちは非常にすばらしい討議をすることができました。啓発的なものでした。体だけ、医学だけではない、感情的、心理学的、社会的な、そして哲学的な局面にわたる討議を行うことができました。自由な、まったく不安のない社会にするためには、妥当なアプローチが必要だと思いますので、もっと努力しなければいけないと思います。
【司会】たいへんありがとうございました。それでは、日野原理事長、結びのことばをお願いします。
【日野原】もう時間ですので、ひと言、述べさせていただきます。多方面の方々がこれほど多く集まられたシンポジウムはないと思い、私たちの意図がそういう意味において成功したことを非常に私は感謝しています。
来年、おそらくさらにディテールに及ぶ、いまバトラー先生が指摘されたようなテーマを取り扱ったシンポジウムが開かれると思いますので、それにも大勢の人が参与されることを私は強く希望します。
この老人問題は、私たちが医学だけで考え過ぎていたことを、老人全体を考えなくてはならないという根本的な考えから、取り扱わなければならないと思いますが、ひと言いえば、どこかにパイロットがほしいなということです。パイロットはだれなのか。勇気ある人、小さくてもパイロットが、きょうの参会者のなかから現れ、是非来年ここで発表していただけることを希望して、私の皆さんへのお礼のことばにかえたいと思います。
【司会】どうもありがとうございました。最後に、特に外国からきてくださって、このシンポジウムをたいへん盛り上げていただいた先生方に感謝したいと思います。また、いうまでもなく、日本の講師の方々も、たいへんお忙しいところ、率直なご意見をいただきました。
そして何よりも私は聴衆の皆さんにお礼を申し上げたいと思います。というのは、これほど本音を語り合った時間というのは、日本ではなかなかなかったのではないかと思っているわけです。
日野原先生がいわれたように、実はこの国際シンポジウムは「第1回」と書いてあります。第2回、第3回があるということを前提にして、どのようなテーマを掲げていくべきなのか。そしてこのような本音を語るシンポジウムを続けていきたいと思っています。
皆さま方のたいへん熱心な討議に改めて感謝いたします。どうもありがとうございました。





日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION