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高齢者ケア国際シンポジウム
第1回(1990年) 不安なき高齢化社会をめざして


第3部 発表
オーストラリアにおける老人ケアの概観−過去の反省と将米の見通し−

カンバーランド・カレッジ財団、前カンバーランド大学・学長
Jeffrey Miller,Ed.D.



はじめに
1982年に、オーストラリアの専門家グループが、「オーストラリアは老人のために明確な国家政策を発表し、二ーズを満たすための方法および国家・地域社会プログラムを整備すべきである(Aging 2000-A Challenge for Society,p.173)」と高齢者対策に対するオーストラリアの今後の対応を指摘した。
この評価が下されてから、指摘された弱点に対処するために、連邦政府によって多くの積極的作業が行われた。この作業の全体的目標は、サービスおよび所得補助への総合的なアプローチを整備することであった。対策は完壁ではないが、クォリティー・オブ・ライフについての懸念を平均余命の伸びや、今後予想される超高齢者人口の増加とマッチさせようとする、誠実な試みが反映されている。
本論文では、老人の援助のために利用できる現行のプログラムについて詳述はしないが、さまざまな地域祉会サービス、ヘルス・ケアおよび祉会保障プログラムを通じて提供されているサービスの範囲を確かめることは大切である。これらは、利用者の負担がほとんど、あるいはまったくなく、年金とサービスのコストを統合することを目的としている。
本論文では、今日まだ未解決のいくっかの主要問題を論じ、オーストラリアの老人の現状について述べる。このような議論を有意義に行うためには、オーストラリアの背景について、実際的な知識をもつことが重要である。そこで、以下の数節では、オーストラリアの歴史と地理についていささか述べ、本論文の概念的アプローチと前提を確立し、老人についての事実を概説した後に、現状の検討と将来の探究へと移る。

1.オーストラリアの背景
ここではオーストラリアの社会政治史について触れるつもりはない。高齢者に対するオーストラリアの過去と現在の対応について、いくつかの特性を簡単に紹介する。オーストラリア大陸がヨーロッバに支配されたのは1788年だが、先住民の歴史はずっと以前にさかのぼることができる。ここでは1788年以降、特に独立後の時代と20世紀におけるオーストラリアの発展に焦点を当てて論述する。
オーストラリアの陸地面積は、中華人民共和国やアメリカ合衆国にほぼ匹敵する。人口は1,700万人であり、主として海岸部の大都市に集中している。われわれの「先進国」としての歴史は、わずか200年であり、その間に流刑植民地から民主国家への移行を経験した。地理的には、オーストラリアはアジア太平洋地域に位置しているが、文化は西欧の影響を強く受けている。経済的・政治的には、オーストラリアの将来はアジア地域に結びつけられている。
オーストラリアの人的資源は、比較的少なく、しかも散在している。生活水準はかなり高いが、国民の間にはいまだに階級、性別、および民族による不平等が残されている。また連邦政府と各州政府との協力は、共通の目的や国家的な優先順位によって決定されるのではなく、主として政治的な同盟関係と個人的関係によって決定される。しかし、国家的な利益のために偏狭な政治的問題を抑制することが、しだいに可能になってきている。
初期の歴史は、流刑植民地が政治的独立を達成しようとした苦難の歴史である。この波乱の時代における祖先たちの体験が、権威、独立、民族主義、および平等主義に関するオーストラリア人独特の態度に「擦り込み」されている。これらが、今度は第2次世界大戦後の大量移民の受入れにより(約400万人のオーストラリア人は、オーストラリア以外の国で生まれている)影響を受け、修正され、再定義された。その結果として、異質の文化や社会的価値観に接したことが、この現象の積極的・永続的な特性となった。それは、オーストラリア人の人格を豊かにし、その柔軟性を増しているのである。
植民地から国家への移行の間に、オーストラリアの環境が比較的厳しいことと、ヨーロッパのルーツから隔てられているという現実が、国民の目を内に向けさせ、強い独立心を育んだ。オーストラリア人は、自らを率直で偏見がなく、恵まれない人々を進んで保護する人間だと考えるようになった。そこで、「仲間関係(メイトシップ)」というものが育った(しかし現代、この初期の価他ある特性を実地にみることは難しい)。初期の産業の歴史、孤立、および社会的態度は、オーストラリア人のなかに、社会と福祉を指向する態度を育んだ。世の中をよくする責圧は、個人にあるのではなく、主として「体制」または「政府」にあるという意見が主流である。この社会・福祉指向の力は、老人のための現行の政策やプログラムも反映されている。それはいまも強力な力であるが、ゆっくりと変化しつつある。
この序論を要約すると、初期の歴史、地理的な孤立、および社会的経験が、オーストラリア人の強固な態度を生んだ。この力は、いまなお、高齢者政策やプログラムの特性と方向性に影響を及ぼしている。オーストラリアの老人ケアについての将来の見通しを探索するためには、常に、これらの強固な態度の影響を考慮しなくてはならない。

2. 前提および命題
上述のような歴史および態度を背景として、本論文の概念的アプローチと、いくつかの中心的仮定および命題を説明する。
本論文の概念的アプローチは、1970年代にC.W.Millsが述べた基本的な社会的ジレンマとの関連でとらえることができる。
Millsは、個人的トラブルおよび社会的問題という概念を用いて、社会変化の様相を描き出した。オーストラリアの老人問題には、すべてなんらかの形の杜会変化が関与しているため、Millsの思想は検討に値する。
個人的トラブルとは、他人との直接的関係のなかで起こる事件と考えられる。これらは、個人的なものであり、人が直接的かつ個人的に意識している領域の社会生活に限定されている。トラブルとは、個人が大切にしている価値が脅かされるように感じられる個人的な事件である(老人が「トラブル」と感じるものの範囲には、少なくとも収入、健康、雇用、人間的価値、誇り、自立の問題が含まれている)。
しかし社会的問題は、本質的に個人的な生活空間という限られた小さな環境内で発生した問題をいうのではなく、広い範囲において発生した問題をいう。したがって、個人的トラブルが多くの社会グループや組織に関連している場合は、社会的問題としてとらえられることになる。こうして社会的問題となった場合は、ほぼ確実に政府の検討を受け、大衆の支持を得て長期討議の対象となる、Millsが作ったような概念を用いることによって、根底に統一的なテーマを求めることが可能となる。老人の問題は、個人としても集団としても、暦年齢という根拠だけの基準によって区分されていることからくる、その自己への疑い、無力感、一般社会からの疎外感を制御し、解決することができる。
より「ありふれた」トラブルほど、社会的な問題となって現れる可能性が高い。老人の個人的トラブルを、共通の問題として公共の場で討議することが、間題解決の糸口となる。したがって、老人(個人および組織団体)にとっては、いかにその「トラブル」を「祉会問題」として一般大衆および政府に対して訴えるかが最大の課題となる。
不幸にして、多くのオーストラリア人は、老人の「トラブル」に対して建設的かつ博愛的な態度で反応できないところがある。これは、生理的な「老い」というプロセスを理解できないことが、根本的原因と思われる。このような認識の誤りに加えて、情緒的な反応の欠如が、事態をさらに悪くしている。オーストラリア人の大半は生活に追われ、社会福祉制度と医療補助を受けている老人のさまざまな問題について深く考えることができないというのが、私の悲観的な見解である。ほとんどのオーストラリア人は、彼らも「いつかは」愛情とケアと好意と、そして年輩者に対する尊敬の念を必要とする時期がくるということが、容易に実感できていないように思われる。
ここで、4つの中心的な仮定を立ててみたい。これらの仮定は、将来中心的な問題点となると思われる4つの命題を定義するために役立つと考える。この概念的アプローチを、これらの仮定および命題に沿って表現することにより、オーストラリアの老人の将来について、もっと詳しく検討するための基盤が得られるものと期待される。
4つの仮定とは、
?@老齢・老人は、社会的に決定・定義される。
?A暦年齢は、生理的年齢や機能的能力を適切に反映しない。
?B定年退職年齢は、機能の喪失よりも、むしろ経済的圧迫および環境に関連している。
?C他人に依存するようになる可能性は、性別、人種、階級、および民族に密接に関連している。
以上の仮定から、将来についての重点分野、あるいは命題を導き出すことができる。
A.退職、仕事、および退職後の所得のバランスが、中心的な政策および財政的問題となる(財政)。
B.健康で活動的な老人の増加が、レクリエーション・小売産業および政治のプロセスに大きな影響を与える(政治・商業)。
C.性差別および社会的差別をなくすための政治的立法措置が、伝統的なケアのパターンに影響を与える。
D.退職村、ナーシング・ホーム、およびホステルの増加がクォリティー・オブ・ライフの問題や、既存のボランティア団体のネットワークに悪影響を与える(社会・財政)。
これらの命題を、社会的・政治的プロセスのなかでどのように「バランス」させるべきかは、明らかでない。また、その解決は、ある時点で、世界の経済情勢、国の政治日程、およびオーストラリアの若年層の人々の利害関係によって影響を受ける。しかし、これらが将来の中心的主題であることには変わりはなく、本論文では以下にこれらを考察する。

3.老人についての事実
オーストラリアの人口は、高齢化傾向にある。寿命そのものはあまり変化していないが、平均余命の上部に達した人々の割合が多くなっている。現在のオーストラリアの男女の年齢別分布(老人)は、表1のとおりである(1990年3月期)。


表1 オーストラリア老人男女の年齢別比率

現在のオーストラリアの人口は、1,700万人強であり、そのうち約2,588,000人が、行政上の区分による高齢者である。
オーストラリアの女性は、男性より平均余命が長く、出生時に10%、65歳の時に30%の違いがある。出生時の平均余命は、男性が71.2歳、女性が78.2歳である。65歳の平均余命は、それぞれ78.7歳、82.9歳である(Nursing Homes & Hostels Review,p.18)。
オーストラリアの老人年齢は、女性は60歳、男性は65歳以上と定義されるが、ライフスタイル、仕事やレジャーへの対応、さまざまな福祉サービスヘの対応には、大きな隔たりがある。オーストラリアの老人は、社会のなかでも活動的で、活動的であり、事情に通じている。大多数は連邦政府の老齢年金と保健補助を受けているが、約22%は、老人への福祉給付を受けていない。
1990年8月には、1,334,430人が、全額老齢年金または部分老齢年金を受けていた。全額年金は、独身者1人当たり週141.20ドル、夫婦1組当たり235.40ドルである。
連邦政府が出資・運営している財政制度である。老齢年金は、退職後の人々にとって不可欠の援助である。唯一ではないが主要な収入源である場合が多い。
老齢年金の受給申請は、男性は65歳以上、女性は60歳以上でなくてはならない。オーストラリアの住民であり、申請時にオーストラリアに居住していなくてはならないか、過去に継続して10年以上、オーストラリアに居住していたことが条件である。
全額年金の受給者は、独身者は40ドル、夫婦は70ドルまでの収入であれば、年金は満額給付され、この基準値を1ドル超過するごとに、年金は50セントずつ減額される。
オーストラリアの「人口高齢化」を簡単に説明すると、オーストラリアではますます多くの人々が、途中で死亡することなく平均寿命どおりあるいはそれ以上生きている。その結果老後の生活の「質」例えば年金の支給額等に無理が生じている。オーストラリアの国民が過去105年間に「高齢化」した度合いは、オーストラリア統計局(ABS)の1881年、1933年、1986年の「人口ピラミッド」に示されている。ABSによると、65歳以上の人口の割合は、1881年には2.2%であったが(図1)、1986年には10.5%に(図2)、1987年には10.7%に増加している(p.123)。年齢構成についての統計を調べると、移民の流入が重要な影響を及ぼしたことが分かる。「出生率の急速な低下と、それよりも緩かな死
亡率の低下が、1970年代と1980年代の顕著な高齢化をもたらした。しかし、移民の増加と、家族の移民が中心となったことが、このプロセスを遅らせる傾向を示した」(p.125)と主張されている。



図1 オーストラリアの人口ピラミッド(1881 Census)



図2 オーストラリアの人口ピラミッド(1986 Census)

このような人口の実像には、将来の政策やプログラムに影響を及ぼす2つの主要命題が示されている。
?@若い人に比べて老人の数が増加する。
?A経済的状態と技術開発により、労働および社会環境が変化する。
労働環境の変化という問題は、性差別の視点からみると、老人ケアにとって特に重要である。「性差別」問題から派生しているさまざまな社会・労働問題の解明をさらに複雑にしているのは、オーストラリアが世界経済の安定性に依存していることと、就労女性の権利を労働団体と政府が強力に支持していることである。性別により女性が昇進を妨げられていた時代とは異なり、これまでのように「娘」が家庭で両親に通常は無料でケアと援助を提供することが少なくなる可能性がある。このようにオーストラリアにおいて世代間の相互援助が減っているという現象は、労働協約(雇用機会の均等、差別撤廃政策)に助長されているが、まだ十分に評価されていない。そしてこれは、女性が就職し、性差別を受けずではなく能力に応じた昇進ができるようサポートする福祉サービスを「政府」が提供すべきだという要求が、さらに高まることになろう。また、家族によるサービスと援助が「撤廃」されるため、老人福祉財政にも大きな意味をもつことになろう。おそらく、世代間の結びつきに生じると思われるギャップを埋めるために「国有化」されるのは、老人の息子や娘ではなく、孫の世代ではないだろうか。それは、実り多い研究分野であり、本論文の序論でも、将米の中心的重点分野であると述べた。
いくつかの確立された事実から、オーストラリアの老人の現在と過去の状況を検討することができる。

4.老人の現状
RusselおよびSchofieldは、保健サービスのネットワークを背景として、老人の現状を検討した。彼らは、老人の保健問題の多くが、老化のプロセス自体によってではなく、すべての年齢層に共通の疾患や環境からくるストレスによって引き起こされていると主張した(p.126)。さらに長寿ではなく、社会的要因が問題を起こしているともいう(p.128)。明らかに、人種、性差別、階級、および民族が強力な要因となって、老人が直面する状況に悪影響を及ぼしていることを政策とプログラムの分析によって確立しようと試みている。究極的には、これらの要因がヘルス・ケアの性質を決定するのである。
Kendigは、1986年の論文において、孤独な老人や、装置的ニーズの満たされていない老人は比較的少ないと主張した。しかし、彼はまた「満足」にはクォリティー・オブ・ライフの高さよりも、むしろ期待の低さが反映されていると述べた(P.57)。
老人のための政策およびプログラムに対する政治的対応が、ロビーの圧力や、次期選挙の日程に伴って動いているとは言い切れないが、しかし、そのような政策やプログラムの政治的・経済的理由とは無関係に、老人サービスの提供においてより公平な政策が達成されたと主張できよう。現在の連邦政府は、この問題へ向けて、積極的かつ建設的な前進を成し遂げた。
オーストラリアの行政制度の特異性により、連邦政府は、保健および社会福祉についての特に大きな責務を有するが、いくつかの政策とサービス分野は、各州政府の手に残されている。
現在の連邦政府の功績として、以前のようなナーシング・ホームというアプローチではなく、ホステルや地域社会サービスでのサービスを主体とした慎重な政策が行われていることが挙げられる。予算決定により、上記の政策に沿った資源の再分配が達成された。しかし、この政策が成功したのか、目的とされていた経済的・杜会的利益は提供されたのかどうかについては、次節で論じることとする。
老人ケア政策(全国)および老人ケアのための連邦政府資源の再分配の計画の枠紬みは、下記の一般原則に基づいている:
・老人は、可能な限り、自宅で援助を受けるべきである。
・老人は、他の援助システムでは十分にニーズが満たされない場合にのみ、宿泊サービスによって援助されるべきである。
・サービスは、可能な限り、リハビリテーションと機能回復を促進するような雰囲気と方法によって提供されるべきである。
・ サービスは、退院して援助の少ない宿泊サービスや地域社会サービスを受けることが、多くの人々にとって可能であり、かつ望ましい結果であるという認識に立脚すべきである。
現在の政府の政策は、老人が自宅に留まり、保健や家事のニーズのために各種の在宅サービスを利用することを奨励している。しかし、いつから「老年期」が姶まるのか、いつ自発的に退職するか、いつからどのように年金が開始するか、どのような保健関連給付が確保できるかを、政府は年齢を基準として規定している。
老齢年金の受給資格を決定する規則は、厳格かつ複雑である。現在「所得」については、独身者の場合、年金以外の所得が週40ドルを超える分について、1ドルごとに50セントが年金から減額される。夫婦の場合、基準額は週70ドルである。
「資産」については、事実上すべての所有物と投資を含めて、一定の基準額を超える資産1,000ドルについて毎週2ドルずつ、年金が減額される。独身者で持ち家の場合、全額年金を受けるための基準額は103,000ドル、夫婦の場合は147,000ドル、持ち家でない場合はそれぞれ177,500ドル、221,500ドルである。
所得と資産の評価は平行して行われるが、年金率が低くなるほうの評価のみが適用される。自宅は資産の計算に含まれない。
老齢年金のほかに保健力ードがあり、年金受給者の大半(全員ではない)に対する重要な給付となっている。このカードにより、年金受給者は医薬品の割引き、無料の歯科ケア、無料の救急車サービス、無料の補聴器の提供を受けられる。また保健カードにより、電話レンタル料、電気、ガス、水道料金、運転免許と自動車登録料の割引きを受けることができる。多くの地方自治体は、カード所有者に対して地方税の実質的減額を認めている。保健カードをもつ年金受給者は、公共交通機関でも実質的な割引が与えられている。
保健および交通特典カードを受けるためには、収人制限があり、独身者は週95ドル、夫婦は週164ドル以下である。この資格は、受給者の資産によっても制限される。独身で持ち家の場合は118,000ドル、持ち家でない場合は192,000ドルが限度である。夫婦の場合は、それぞれ169,000ドル、243,000ドルが限度である。これらは、1990年の値である。
老人の総人口(老齢年金の受給基準である女性60歳、男性65歳以上)のうち、大多数は老齢年金とサービスを受けるが、約22%は、政府の年金を全く受けていないことに注意する必要がある。
退職所得については、1989年の連邦政府の政策声明にその実態をみることができる。
第1に、老齢年金受給年齢に達した220万人の人々のうち、170万人は、老齢年金とサービスを受けている受給者である。
第2に、これらの年金のために、毎年約100億ドルが支出されている。
第3に、この支出は、老齢年金とサービスを受けている受給者の全所得のうち、75%近くを占めている。
第4に、受給年齢に達した老人の13%が他に収入を持たず、さらに33%は収入が週10ドル以下である。
第5に、受給年齢に達した老人の31%が、家を所有していない。
第6に、2021年までには、65歳以上の人々が390万人になり、人口の18%を占めるようになると思われる。1989年には190万人、11%であった(p.3,Better Incomes)。
政府は、いま、消費するよりは将米のために貯蓄を奨励することにより、将釆の老人が「援助」を受け豊かになると信じている。老齢退職方式は、このような貯蓄のための望ましい形態である。これと、老齢年金とを組み合わせると、効果的な退職収入に関する政策となる。基本的に、この提案は健全である。それは、公共部門のサービス(政府出資)への圧力を軽減し、費用をサービスの受益者に移す。このサービスは、通例民間の契約業者により市場価格で提供される。
現在の連邦政府の見解は、前・社会保障大臣による下記の発言(1989)に、はっきりと記録されている:
「……将来、退職後、より高い生活水準への期待を満たすことは、老人労働者と女性に対してより良い雇用機会を提供することができて初めて可能となる」(p.21.Better Incomes:Retirement Income Policy)。

5.将来の問題
消費者、研究者、および政治家が多くの時間を割かねばならないと思われる問題は、次のようなものである。
・老人ケアの経済学、
・就労と退職、
・若者の役割、・研究と教育、
・レクリエーション/レジャー、
・安楽死。

(1)老人ケアの経済学
オーストラリアのように比較的税水準が高い国では、なんらかの景気停滞が現れた場合、支出削減のターゲットになるのは福祉支出の受給者(失業者と老人)の場合が多い。
老人がヘルス・ケア予算を食いつぶしているという認識が正しいかどうかはともあれ、オーストラリア政府は、常にいわゆる民営化策によって、費用を民間に移そうとしてきた。このように大きな予算上の問題(制度)を、利潤を追求する民間産業に肩代わりさせることは、保守、革新の両政府によって魅力的である。さらに、現在の年金制度には見直しが必要であるという懸念も、常に存在している。
利潤の見通しについては、私は、多くの商業的組織がサービスを提供するようになるかどうか、疑っていない。しかし、この問題についてのGraycarの助言を想起すべきである。彼は、保健・福祉サービスが、中古車や粉石鹸のように市場で売買できる消費物資ではないと論じた。さらに彼は、利用が必要となる状況は、自由な選択(市場的条件)ではなくストレスや苦悩によって作られるのが普通だと論じた(p.71)。
「家庭をケアの単位とする」「施設ではなく地域社会を活用する」「必ずしも高価ではない適切なサービスを開発する」という、3つの原則に基づいた経済的手法を推進することには、十分な根拠があると思われる。
上記のそれぞれが、検討および批判的分析に値する。
今日の重点は、投人側を指定することではなく、幅広い結果目標を特に提供されたサービスの定量的な結果に関して設定することにおかれている。
連邦政府は、ナーシング・ホームに対して、ケアの質の問題に焦点を当てた下記のような側面を考慮することを奨励しているといってよいだろう。
・ヘルス・ケア、
・自立、
・居住者の権利、
・家庭的環境、
・プライバシー、
・活動への参加、
・安楽と安全。
達成すべき結果について基準を作ることは可能だが、実績の評価はいっそう複雑である。
オーストラリア国内では、構造、プロセス、および結果を評価することが、評価を突施するための有用なモデルとなるとされている。
RusselおよびSchofieldによると、アクセスと公平さが、ニーズとアクセスを決定する中心的原則であるとするなら、ナーシング・ホーム産業は、そのような民営化への警告を非常に明確に述べている。これらの研究者は、1960年代以降に、慢性病患者、特に老人のケアの公的なサポートの主流として、ナーシング・ホームが発達したのは、健康保険制度の諸問題に対する「政府」の回答であったと指摘している。民間のナーシング・ホーム産業の誕生と地域社会サービスの導入は、政府が施設ケアのコストの抑制しようとするのを支持するためであった(pp.186-187)。その結果は、補助金比率の高いナーシング・ホーム産業と活発かつ効果的なロビー団体の発達であった。
1988年6月に行われたナーシング・ホームの研究によると、平均的なホーム居住者とは、82歳のオーストラリア生まれの女性で、夫と死別し、老齢年金を受けており、病院から民間ナーシング・ホームヘ入所するまでは、一戸建ての家またはアパートにひとりで住んでいた人である(Nursing Homes for the Aged:A Statistical Review,June,p.12)。
同じ研究によると、1988年には1,417個所のナーシング・ホームが存在し、継続的な看護を必要とする病弱な老人のために、72,116床のベッドを提供していた。これらのベッドを補完するものとして、987個所のホステルに43,000床の浦助金によるベッドがあり、「最低水準」のホステル・ケアまたは、より集中的な個人ケア・サービスを提供していた(p.1)。
ベッド数の水準は、オーストラリアの70歳以上の1,000人当たりにして、ナーシング・ホームまたはホステルに約100床のベッドが提供されている。
1988年には、ホステルのベッドは非営利的団体が運営していたが、ナーシング・ホームのベッドの48.4%は、民間セクターによって提供されていた。
興味深いことに、1986年に行われた宿泊ケアの研究は、「ナーシング・ホーム・ケアは、その水準のケアを必要としない老人によって、かなり誤用されている」(p.125)と述べている。オーストラリアでは、ナーシング・ホームのベッドの20〜30%をホステルに転換して、個人ケアを提供することが望ましいというのがその慎重な結論である(Nursing Homes & Hostels Review,p.126)。
老人ケアの経済学という分野は、必要かつ興味深い研究分野の1つである。地域社会ケアの概念は、障害のある老人に「家庭」環境のなかでサービスを提供しようとする趣旨であるため、非常に推奨できる。ここでも、RusselおよびSchofieldは、在宅ケア運動を支えるコスト効果およびクォリティー・オブ・ライフの主張に対して、非常に懐疑的である。彼らは、親族が主要なサービス提供者であること、完全なコスト研究が欠けていること、在宅ケアがケアの質を高めるという仮定、社会的問題の医学によるコントロール、病弱な老人が特に孤立していることなどの要因を指摘した(pp.189-191)。
在宅ケア・サービスの限度とコスト効果についての注意深い研究が明らかに必要である。いくらよいアイディアであっても、その政策とプログラムを支持し、パラメータを変更・修正するためには、研究による裏づけが必要である。

(2)就労と退職
人間の発達には、個人差と、連続した共通体験のなかでの成長の速度という特徴がある。暦年齢は、生理的能力や機能的知力を評価するためのよい尺度ではない。思春期がよい例である。同年齢の子供でも、その生理的・解剖学的成長のタイミングには、大きな偏差がある。これと同じことが老人にも当てはまる。人は、異なった速度で「年」を取るのである。したがって、柔軟な退職年齢についての選択肢を与え、若々しい老人の経験と技能を活用する機会を与えるべきである。彼らの技能、知恵、および経験を活用するために、短時間、パートタイム、および定期的な雇用契約をもっと利用しやすくするべきである。
このような、就労年数を延長するための動きが、年金受給資格、健康保険給付、課税水準、退職・老齢退職政策についての問題を生じるのは避けられない。しかしながら、オーストラリアが決断を遅らせるのではなく解答を求めているならば、今日なおわれわれの政治的・社会的決定を支配しているかのごとくみえる哲学的・政治的思想の論議なしにこれらの財政的問題に取り組むことが必要である。
多くのオーストラリア人にとって、年齢を基準とした福祉用語で「高齢者」と分類されることは、いくらかの喜びとともに受け取られている。一方では、これは法制度と老齢退職制度(年金)による労働力からの強制的な撤退であり、歓迎しない人々も多い。
時代とともに、老人の普遍的保護の概念は、単なる恩恵から不純物の混ざった恩恵へと変化してきた。また、時代とともに、退職についての古い定性的なモデル(年齢による受給)は、より定量的な様相へと変化し、退職生活を「楽しむ」機会が大きくなった。
老人および高齢化についての将来の文献は、クォリティー・オブ・ライフ、自己認識、老人機能の連続、個人的責任、健康的な活動といった概念を、ますます探究し、反映したものになるであろう。

(3)若者の役割
世代間ギャップの増幅とその発現について考察するとき、多くのオーストラリア人が祖父母と孫の間の共感と強固な絆を体験していることを指摘するのは、やや些細なことのように思えるかもしれない。この絆は、両方の世代が感じるものである。
「若い世代」は往々にして悪くいわれるのだが、彼らを活用して、老人のケア、愛情、親身な心づかいを提供させてはどうかということは、詳しい検討と試行に値する。若い人々を利用して、介護者、話相手、介助者として有償で活動させることは、経済的にも社会的にも有意義であろう。このようなプログラムの実施可能性は、学校集団、クラブ、ボランティア団体などを用いて、比較的容易に検討できる。定量的な結果ではなく、定性的な結果が重視される。上記の提案には、他の集団も含めることができる。
このアイディアの根拠は、人間は友好的で協力的に接し合えるという、単純な仮定である。この特質を利用して、それを老人の社会的状況に応用することを試みてはどうだろうか。

(4)研究と教育
本論文では、研究を行う価値があると思われる分野をいくつか特定した。現在まで研究者は、条件や人間的状況に気を取られすぎる傾向があったが、実際の老人ケアの現場には、解決を必要としている状況など、問題があふれている。
将来の研究は、「老人の問題とは何か。それはどのように取り組み、研究することができるのか。研究結果を利用した行動プログラムは、どのように開始すればよいのか」という単純な問題に対する答に関連したものを中心とすべきである。
行動計画を、研究者の分析に基づいて提案し、論議するという必要性が残されている。研究者が自分を守るため、学術用語で埋められた提案を、社会が単純に受け人れるという時代ではなくなった。社会と意思決定者である政治家たちを奮起させ、刺激するものではないからである。
研究についての論議は、必然的に、老人の直面する問題や圧力についてのサービス提供者および一般大衆の教育という問題につながる。
オーストラリアの高等教育機関は、将来の老人ケア問題への「準備」のために既存のプログラムを変更または修正することをためらっている。障害者およびその特殊な援助のニーズについても、同じことが認められる。大学および大学院の両方のレベルで、高齢化およびその社会的意味についての治療技術と行動力学を、もっと重視すべきである。治療技術は、高齢化の生理的・行動的プロセスについての広い理解が伴わなければ、それだけでは不十分である。
さらに教育者にとっては、西洋医学以外のアプローチを取り入れるという挑戦がある。指圧などの東洋医学的な治療技術の使用が広まりつつあり、老人への応用にかなりの関心が集まったため、カンバーランド・カレッジ財団では、来年、日本の主要な指圧師および臨床家の研修を主催する予定である。
オーストラリアの高等教育機関における老人ケア専門家の養成の対応について、私はいまなお批判的であるが、注目に値する例も存在している。シドニー大学のカレッジの1つであるカンバーランド保健科学大学では、最近、地域社会保健大学院を設立した。この大学院の教授陣が提供しているプログラムには、開業医、療法士、看護婦、および社会・行動科学の分野での専門家たちが集まってきている。併設の女性保健研究センターは、学習体験と研究分野との交流を学際的に支援している。
より広い地域社会「教育」の前線では、老人のトラブルと問題について、なすべきことがたくさんある。オーストラリアの一般大衆は、全体的に善意ではあるが、老人との関わりにおいて非常に受動的であると述べた。オーストラリア人は、個人的な事情で必要とならない限り、老人の状況を無視または回避しようとする。このような反応は理解できるし、個人ではなく「体制」が税金を使って老人の世話をすべきだという態度を反映している。ここでもやはり、われわれの地理的、社会的、政治的歴史が、そのような態度を取らせる強力な要因となっている。しかし、だからといって、そのような無知、無関心、および時に偏見に基づく態度が容認されるわけではない。だれもがいつかは老人になるという事実について、公けにもっと論議しなくてはならない。
自分の利益を考えただけでも、人間、特に老人のクォリティー・オブ・ライフを向上させるような、公的な援助プログラムを促進すべきである。願わくば、その動機が自分の利益よりも立派なものであればよいと思う。

(5)レクリエーション/レジャー
患者ケアの哲学はずっと前に「受動的」から「積極的」へと変化すべきであった。戸外スポーツ、遠足、劇、歌、ゲームなどの系統的なプログラムの利用は、よく知られ、応用されている(図3)。このような活動へ老人が積極的に参加するよう奨励すべきである。積極的哲学のもう1つの次元が、運動やトレーニングである。一般に、このような積極的なアプローチを、参加者のニーズと能力に合わせて実施することは、オーストラリアではあまり行われていない。人体の運動能力を高め、容易に管理・提供できるシステムを、レジャーの一環として組み入れる必要がある。


図3

運動を活用する単純なプログラムを開発することは、純粋にレクリエーション/レジャーの視点だけではなく、生理学的に利益があるという視点からも、奨励すべきである。
本論文の論点は、単純である。ヒトの体はすべて、活動し、使用することにより利益を受ける。年齢そのものは、老人を無視し、身体的活動から老人を排除する理由ではない。行動と運動能力をより長く維持・増進できれば、「クォリティー・オブ・ライフ」が保たれる可能性が高まる。
「運動」の利益を奨励する際には、第1に、その証拠がしばしば矛盾していること、サンプリングや方法論に問題があり、老化自体の作用を分離するような証拠が得られないということを認識すべきである。学問的見地からは、Stamfordによる最近の総説(Exercise and Sport Science Reviews Vol.16.1988.pp.341-366)が、詳細な検討に値する。ここでは、Stanfordの「運動と老人」についての総説研究から抜粋する。
?@老人の男女は、身体運動パターンや現在のトレーニング状況にかかわらず、持久トレーニングに対するトレーニング効果を示す能力をもっている(p.365)。
?A筋力は、老人でもトレーニングによって増強することができるが、若者とは適応力が異なっている場合がある(p.365)。
?B筋肉量が実質的に減少し、体脂肪が蓄積している(p.366)。
?C運動トレーニングは、老人の骨質量の減少を防止すると思われ、骨のミネラル含有量を増加させる場合すらある(p.366)。
?D運動は、加齢に伴って低下傾向のある関節機能を改善する場合がある。上記に加え、生理的状態を逆行させる「成長」ホルモンの開発に関心が寄せられている。しかし、このアプローチの費用効果を検討するには、まだ多くの作業が必要である。
このような研究の影響と価値はどのようなものであろうか。
クォリティー・オブ・ライフを助長するアプローチを将来の老人ケアの主流とするためには、オーストラリアの環境を完全に活用することが必要である。戸外での遠足の機会と、老人の身体連動を積極的に助長するような屋内活動と組み合わせて、テレビ鑑賞や、椅子やベッドにしがみつくことの代替としなくてはならない。入念な身体活動プログラムの利点を無視することについては、人員の不足を除いては、ほとんど理由がない。専門家の指導(既存のものおよび報酬水準を高くして得るもの)を容易に得られるかどうかは、疑わしい。しかし、地域的ネットワークおよび保健専門家(理学療法士、作業療法士)の技能の活用に基づくメカニズムなら、効果が上がり、活動的、建設的、かつ有意義となろう。ナーシング・ホームや退職村が受動的活動のみに終始しなくてはならないと論じる理由は、ほとんどない。
上記の議論では、運動の生理学的側面を取り上げたが、身体を動かしたり、機能を使って同時に得られる「心理的」豊かさも無視できない。運動の生物学的・心理学的効果は、研究に値するものである。

(6)安楽死
きたる10年間には、安楽死にまつわる社会的、道徳的、宗教的、医学的、倫理的問題を率直に議論することが、どうしても必要になるだろう。宗教的、医学的議論を引き起こすことは必須であり、その倫理的側面は、特定の哲学に立脚したものとなろう。私の予想では、オーストラリアなどの民主国家で政治的問題となるのは、個人の選択の自由の原則を、適切な立法規定に書き換えることであろう。私個人は、この問題は自分自身の問題であると思う。しかし、確かに複雑であり、多くの真摯な人たちの確信で、政治的プロセスが非常に微妙なものとなるだろう。
完全ではないが、次のような議論が沸き起こることを予想している。
・ 医師による生命維持努力の中止(自発的安楽死に基づくもの)と、脳死患者の生命維持装置の停止(医学的定義によるもの)との区別。
・ 自発的安楽死を認める有効な法制度を作成することは、さまざまなチェック・アンド・バランス(ロビー団体によるもの)によって法制度が機能しなくなるため、困難であろう。
・ 最後の瞬間に患者が安楽死から「希望をつなぐ」態度に変化すること。
・ 医師が生命の終焉を積極的に助けるため、生命維持努力を継続または中止するという責任の増大。
オーストラリアでは、各州がこの問題についての立法の責任をもっている。現在、ビクトリア州とサウスオーストラリア州では、人々は生命維持処置を拒否する権利をもっている。ビクトリア州では、生命維持を受けている患者が、無能力になったときのために代理人を指定しておくことができる。またニューサウスウェールズ州は、積極的な安楽死は禁じており、他の州も同様である。
この問題が非常に感情的なものとなり、両方の側の支持者の論争は避けられないと思われる、最後には、人間が自分の環境を、政治的、経済的、社会的にコントロールすることだけではなく、人生の終わりを自分で決定することも、人間の権利の1つになるだろうと、信じている。オーストラリアでは、今後も常に個人の選択が最優先であり、政治家や、「健康」の守護者を自任する医療従事者の選択よりも優先されるだろう。
尊厳をもち、優しく、理性的で、みずからの生命を終わる方法として安楽死を選ぶであろう人々の考えを、私なりに定義すれば、「自己」ということになるだろう。この概念は、Boltの占典的著作"A Man for All Seasons"の序文に、見事に展開されている。Boltは、トマス・モアを評して、ダイヤモンドのように堅固な自己の感覚があるといった。Boltによると、モアは、彼自身、信念と主義とが、最後にどこに位置するかを知ることによりこれを達成した。Boltはこういっている。
「モアは、自分がどこから出発して、どこでとめるかを知っていた。自身のどの領域で敵に降り、どれを愛する者へ与えるかを知っていた。」
このようなプロセスは、安楽死を信じ、安楽死を選ぶ人々の特徴であると、私は信じたい。私の見解は、異なる文化、人種、宗教の人々にとっても、不快なものではないと信じる。

6.結論
本論文の主題は、オーストラリアの「老人」が、オーストラリアの将来に貢献するため自らの技能、能力、および可能性を認識すべきだというものである。この可能性は、政府が「友好的」かつ建設的な政策決定を政治舞台の力学のなかで行う場合にのみ、達成できると論じた。老人は、早期退職と本文で述べたような人口動向により、顕著な政治的勢力になりつつある。
老人の有権者としての影響は多人であり、消費者としての購買力もかなりの割合を占めている。これらの要因は、メディアの関心と相まって、すべての政党に強力な影響力を発揮している。老人(自活している人も政府の年金を受けている人も含めて)の政治的影響力は、将来さらに増大する。
老人の意見は、さまざまな組織や団体を通じて、集合的に表明されている。州や連邦政府機関は、いずれも老人の意見を「代表」していると主張している。すべての「老人」がこれらの団体のメンバーではなく、議論や活動に積極的に参加しているのでもない。社会的援助やヘルス・ケアに関する老人の不安を、いかに説明しようとも、将来についての彼らの希望と抱負は、下記に反映されている。
?@可能な限り長く、自分の家または家族の家に留まれるようなケア制度(自立)。
?A適切なレベルの宿泊ケアヘ移ることが必要となった場合に、それが可能であるような制度(肉体的安定)。
?B老齢年金だけで適常の日常生活のニーズを満たすに十分な基礎収入となるような制度(経済的安全)。
?C老人がパート・タイム就労を希望しても年金受給資格の取消や大幅な減額による不利を課さない制度(活動的であり続けることの動機づけ)。
?D利用しやすく支払い能力の範囲内にあるヘルス・ケア・サービスを提供する制度(ヘルス・ケアの経済的コスト)。
?E安楽死について、正しい知識に基づく決断を行うことができ、それが尊重されるような法的枠組みを提供する制度(寿命のコントロール)
?F人間精神の尊厳を認め、それを育てられるような環境を提供する制度(自尊心と尊厳)。
望むらくは、政府のイニチアチブと社会の態度の変化により、このようなブログラムが、それを求めるすべてのオーストラリアの老人に利用できるようになってほしいものである。

文献

1) Aging 2000; A Challenge for Society. Sandoz Institute for Health and Socio-Economic Studies, Lancaster (1982).
2) Australian Bureau of Statistics: Year Book Australia. No. 72. AGPS, Canberra (1989).
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12) Stamford B A: Exercise & the Elder]y. In Exercise & Sports Sciences Reviews. Vol. 16. K B Pandorf(ed), pp.341-379, MacMillan (1988).





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