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高齢者ケア国際シンポジウム
第1回(1990年) 不安なき高齢化社会をめざして


第1部 基調講演  高齢者への心温まるケア

作 家
遠藤 周作



数年前から、病院のキャンペーンを、本職の小説家ではなく、1人の市民として活動するようになり、たくさんのお医者さんや看護婦さんのお力添えをいただきました。
私たちの行っているボランティアは、3種類あります。1つは一般のボランティア、もう1つは在宅ケアのボランティア、3つ目は、老人による老人に対するボランティアです。
われわれ素人ができることは、医療のご専門家と違い。非常にわずかな、ささやかなことです。しかし実際行ってみると、いろいろな問題に遭遇します。言わば、とても手に及ばないこと、手に届くもの、きょうからでもすぐにできるようなこと、というようにさまざまです。
例えば、なかなか手の届かないものの1つとして、救急医療の問題があります、これは私の後輩のテレビ局のあるキャスターが、いまから3〜4年ぐらい前からキャンペーンを行っていることです、外国では、フランスのサミューのようなドクターカー(お医者さんが乗って病院まで運ぶ)、あるいはアメリカのパラメディック(お医者さんではないが、訓練を受けた看護士さんが乗り込み、病院に運ぶまでのいちばん重要な3分、4分の間に、3点セットといわれる電気ショックや、気管内挿入、点滴を行う)、また西ドイツでは、ヘリコプターまで飛ばすというようなことが行われている。
しかし、日本ではごく一部を除いてそういうことが行われておらず、消防隊員が救急車に乗って、病院から病院に運ぶという現状です。
しかもよくあることに、その病院が救急病院でも。満室ですといって断られるような現状があるのです。医療水準が非常に高まっている一方で、高齢者にとって非常に不安な状態もあるわけです。
いま日本は、65歳以上の老人が1,400万人。もうしばらくすると1,500万人を突破すると思います、そのなかで、交通事故のみならず、心臓発作などで救急を要するとき、致命的に大事な4分間が、お医者さんや適当な処置をしてくれる看護士さんではなく、マウス・ツー・マウスと手による人工マッサージしかできない消防隊員が乗っている救急車で運ばれる、そのために、アメリカなどと比べて蘇生率が日本の場合、その5分の1に等しいといった状態になる。これはわれわれ一般の市民からみても、決して理想的な高齢化社会ではないと思います。
幸い、日野原先生はじめとするいろいろな方のご努力で、今度の国会にこの問題が出て、自治省と厚生省の間の委員会で救急救命士というものをつくることが可能かどうかが審議されていますが、これも結論が出るまでに3年、4年とかかるだろうと思います。
だからこそ、こういう問題はやはりわれわれ一般の市民が、是非行ってくれという声援を送らなければ、なかなか実現しないと思うのです。
これが、お医者さんや医療関係者から出たのではなく、単にテレビ局の1人のキャスターがテレビを通じて発言したために、われわれや一般の市民も知り、そしてそれが大きな問題になってきたというわけです。本来、医療界の方たちがそれを提案すべきにもかかわらず、むしろ民間のテレビ局の人がそれを提案したという事情を考えると、やはり私は立ち後れているのではないかと思います。
そういうことは、私たちにまだ手が届きませんが、やはり応援していかなければいけない。お医者さんが乗るドクターカーを使うといっても、皮膚科や眼科のお医者さんが乗ってもあまり意味がありません。やはり救命医学というものを専門に行っている先生たちが乗る必要があるのです。これから老人が増えれば増えるほど心臓発作を起こしたり、脳障害で倒れる患者さんが多くなってきます。そういうとき、いまのように医学が細分化され、自分の専門以外のことはわからない先生が乗っても、どうにもならないのです。
ところが、救命医学科というのは、日本の大学でまだ8つしかありません。8つでは、これから増えつつある老人の救急医療に対して、どうしても人員不足になることは明らかです。したがって、この救命医学科をどんどん増やしてほしいのですが、これは医学部だけの問題ではなく、これから高齢化社会を迎える国民の問題で、国民が文部省にそれを要求していかなければいけません。そういう意味で、これからはお医者さんと一般の市民とが手を握って、問題を一つひとつできるだけ早く解決していかなければいけないと思います。
しかし、お医者さんは、糖尿病や血圧、あるいは肝臓の予防または治療にはこうしたらいいということを、マスコミを通じて話されますが、自分たちの困っている問題は、一般国民にあまり話されない。そのために、われわれはいまの救急問題1つをとってみても、ほとんど無知に等しい。本来お医者さんが話してくれていたなら、われわれはもっと早く、フランスのサミューあるいはアメリカのパラメディックという救急車が日本でも必要であるということを、いろいろな形で訴えていたと思うのです。
私のところへきているアンケートをみると、やはり死ぬときは家庭で家族に取り囲まれて死にたいという声が圧倒的に多い。しかし、いま東京のなかで、老人を引き取ってみとってやれるだけの部屋をもっている方はほんとうに少数だろうと思います。私は、地方へ講演に行きますと、いつも農家をみて、ここの家なら庭があるから、老人を引き取ってやることができるとうらやましく思うのです。しかし、東京ではそういうことはほとんど不可能で、当然、病院のお世話になっていかなければなりません。
そして、その老人病院において、私が、根本的にまちがっているというより、欠点だと思うのは、人員の不足など、いろいろなことがありますが、老人が幼児と同じように扱われていることです、戦後、人間を機能によって計るような考え、人間観ができているため、社会に役に立つ人は立派な人、役に立たない人は立派でない人ということが、いつの間にかわれわれの頭にしみ込んできているのです。
私たちの少年時代、幼年時代に、老人にはある一種の尊敬をもっていました。
それは、能楽やなにかに出てくる翁、つまり神に近い人という意味の尊敬でした。そのため、その人が社会に役に立たなくても、われわれは帽子をとってあいさつをしたものです。
しかし、いまは機能をもって人を計る社会観、人生観になっているがために、社会からリタイアされた老人が老人病院へ行くと、「ごはん食べまちょうね」、あるいは「ああ、よちよち」というような言い方をされているわけです。あのことば1つをもってしても、老人に対する扱いを根底的にもう1度考え直すべきだと思います。
憐憫の対象にだけなっている「敬老の日」を「敬老の日」ではなくて、「憫老の日」というべきです。なぜなら、老人をその日だけ憐れむときであって、決して敬っていない。敬っていないというのは、帽子をとって頭をさげることではなく、ギブばかりして、テイクしないからです。
私は、老人というのは別に社会的に働かなくても、いろいろな意味でテイクできる人たちであると思うのです。例えば、町内でバラづくりのうまい老人がいたら、その人にいろいろな人がバラのつくり方を習うのです。リタイアされた老教授がいたら、空いている大学の夜の講座で、ちょうどコレジ・ド・フランスと同じように、社会人がもう1度勉強する教室にその老教授の専門の講義をしてもらうなど、いろいろな形で役に立つことができると思います。そういうことを日本では全然考えていません。
私はある日、イギリスのジャーナリストと話をしました。イギリスでは、老人が老人の世話をするという方法を採っているというのです。これは非常によいことを聞いたと思い、老人による老人ボランティアというものを、試行錯誤ながら、わずか10何人でやり始めました。
老人のボランティアの方たちは単に1時間か2時間、寝たきり老人の話し相手になるだけですが、それだけでも家族の人は助かるわけです。碁をよく知っている老人が、病院へ行って碁を教えると、その日を楽しみにしている老人の方がたくさんいらっしゃいます。役に立たないものを神様はつくらないと思っています。機能社会では、老人は役に立たないと勝手に錯覚しているわけです。
しかし、老人は老人に対して役に立っているのです。
このようなことを行ってきて、ボランティアの方たち自身がそのことに生きがいを見いだしているということが私にはわかりました。他人を助けること、老人ボランティアをすることに、自分の老後の生活の生きがいを見いだしているということが私にはよくわかったのです。そして、その生きがいを見いだしている方というのは、不思議に活力があって、なかなかぼけないということも感じました。
日本で「ギブ・アンド・ギブ・アンド・ギブ」、つまり憐憫の対象をずっと続けていくならば、私はおそらく痴呆症はもっともっと増えていくだろうと思います。老人は活用すべきで、老人の方たちが、自分はまだ社会に役に立っているのだという意識をできるだけ持続してもたせるようにわれわれの社会が行っていくべきだというのが私の考えです。
もちろん、先に述べたように、医療対策としていろいろな問題があります。
しかし、大木先生というお医者さんがあるところに書いておられるが、延命学のおかげで非常に長寿になりました。しかし、その3分の1は他人の介助なしには生きていけない方たちです。つまり、だれかが面倒をみなければいけないのですが、日本では4人に1人は家庭の主婦がみているわけです。
そして、「ギブ・アンド・ギブ」の形をしていますから、自分でいろいろなことをさせない。ただ寝かせておくだけです。寝かせておくと、私の観察では、どんどん衰弱していきます。私の父は93歳で去年死にましたが、病院に入れたら、どんどん衰弱しました。ある日1日、家にもどしたら、非常に元気になって食欲も出ました。
このなかにも医療関係の方がいらっしゃると思いますが、日本でいちばん発達していないのは、老人が自力でいろいろなことができる器具です。例えばデンマークなどへ行くと、フォークやナイフなど自分でとれる補助器具、あるいは自力でできる器具がたくさん老人の手に入るようになっています。しかし、日本はそういうものが全然発達していない。そして、ただ寝かせておけばいいと考えられています。
その根底には、単にそういう会社ができないというのではなくて、人間観の問題があると思います。私は65歳以上の方でも自分の体がまだ動く限りできるだけ、1人でも多くの方が、もう動けなくなったり寝たきり老人になった、あるいはアルツハイマーにかかった方の支えになって、助けられるようなボランティア組織がどんどんできるべきだと考えています。
最後に、在宅医療の問題です。これから在宅医療はいろいろな意味で大きな問題になると思います。とにかくお金がかかります。リハビリテーションで週2回行って4〜5万円です。これは非常にベテランの日赤の看護婦さんたちがつくられて、私も多少援助したわけですが、私が協力できるというのは、実業家の方に主旨を説明して援助願うということだけですが。ターミナルケアの場合は60〜70万かかります、とても個人の普通のサラリーマンの家庭では払い切れません。現実に、そういう問題がいろいろとぶつかってきます。
しかし、これはお医者さんや医療関係者だけでは解決し切れない問題です。やはり私たち一般の市民がその現状をよく把握して、あすはわが身と思わなければいけません。私はよいことをしていると思うな、とボランティアの方たちとしゃべり合うのです。あしたは自分がしてもらうために、いま先輩につくそうではないかと。よいことをしてやろうという意識は短距離競走であって、長距離競走のやり方ではない。功利的な気持ちでもいいから、そうしようではないかという言い方を私はわざとしているわけです。
このようないろいろな問題が、抽象議論ではなく、具体的な場にどんどん出ていくことが望まれます。今後の高齢化社会は、お医者さんにだけ任せていてはとても解決ができない。問題を隠さずに、どんどんお医者さんにも話していただき、さらにこれをほかの家庭の問題だと考えずに、あす私がぼけたら、私が寝込んだならば、というように自分の問題に引きつけて是非考えていただきたい。
これはどのような職業に従事していようが、みんなで行っていかなければならない問題だと思っています。





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