「バートンアイランド」については、先に「オビ」と砕氷方法の違い等話しましたが、7日1650会合し打ち合わせ、8日0300発動が決定しました。見るからに「頼りになる助っ人」「頼りになる兄ちゃん」という感じでした。
船型からも感じられましたが操縦性の素晴らしさには眼を見張りました。「ファーストアイスに激突したら1浬先迄クラックが入る」などと説明をされても「まさか?」と疑いを持たさない様な感じを受けました。実際 8日 0405氷量5/10から砕氷前進に入り0445 9/10密群氷0930 10/10 途中不時着したヘリヘの燃料空輸などのため一時ストップする事もありましたが、1830「宗谷」に接舷・待機に入る迄 *本日の航程59.0浬平均速力4.2節恐るべし 砕氷能力素晴らし ヘリの誘導見事なり 唯声もなく眺めるのみ これが本当の砕氷船なり素晴らし しかし自然の力は恐るべきもので、翌9日には、脱出を考えればこれ以上の進入は危険との判断で、ビーバーの離発着可能の平坦水に接舷、空輸作戦に切り替え、先ず一次越冬隊員の収容を最優先として実施に決定しました。 *現在 遭遇している様相こそ真の南極の姿にして、昨年は余りにも幸運に恵まれ過ぎたるなり。将来のため冷静に凝視るべし…。と記しています。
2月10日1825帰投のビーバーで先ず立見隊員。2040に藤井隊員と次々越冬隊員を迎える喜びの一方で、「バートン」と入ってきた進入路は既になく、西進しクック岬方面から脱出の外ないという状況に追詰められていました。11日西堀越冬隊長も帰還、1805中野・大塚・村越3隊員を最後に越冬隊員11人と生粋の南極っ子6匹(子犬)全員収容、最悪の状況下での所期の目的は達しました。次の本来の使命・第2次越冬への全勢力の投入です。既に越冬隊員収容の往路を利用しての空輸、これに並行して雪上車2台による輸送が、11日0435「宗谷」を出発していました。極めて劣悪な条件・状況下での輸送で、当時の日記には「成否を問えば否7成3なり」と。「宗谷」指揮官・下松首席航海士は私に「ドブンと行ったら香典位頼むぞ」爆破と潜水で私と正・副を組んでいる正指揮官の悲壮な出発の挨拶でした。本観測の越冬を成功させるべく、皆必死で南極の自然と闘っていました。
極地の行動では天候・気象がその成否を決定します。必死の努力にも関わらず2月12・13日と連日の荒天で飛行不能。11日朝出発した雪上車隊も難航、1930までに15時間掛かって8浬しか進めず、