の「昭和街道」のあちこちに、坐礁した氷山が鎮座していました。その形から皆夫々に命名してありました。「ビスケット」「教会」「ジェラシー」「おっぱい」「純ちゃん」…。そして、休憩所(木箱2〜3)が設けられ看板娘(ポスター)が待っていてくれます。缶入りの「たばこ」が置いてあり、車を止めて一服したり食事や夜食を摂り、元気を回復させて再び「昭和街道」をひた走った訳です。
パドル地帯にはヘリや工作隊が投下したり立てた危険を示す標識の旗などがありますが、「スピード厳守」「注意・徐行」恩具留署(オングル署)と言う訳です。そして日本への土産としては「南極の石」が何よりも貴重品で、基地からの帰りの便には思い思いの石が積み込まれていました。中には世にも稀れな石を採取したものの、基地へ置いて来なければならない石もありました。時間があればお話ししましょう。
蜃気楼がよく発生し、氷山が船を囲み迫ってくる様な感じを、受けた事も度々あり、基地から『「宗谷」が岩の上に乗り揚げているが大丈夫か』…と問い合わせの通信が入った事もあります。
設営・輸送も概ね完了、11名の越冬も目途がつき2月15日離岸と決定。
14日夕 別離の宴、悲喜交々。
あの大探検家J.クックは我々が進入し「昭和基地」を開設したオングル島のあるリュッオホルム湾を斯く断言しています。「私が冒した以上の冒険を試みる者は永久にいない。そして南極大陸は絶対に踏破されない事を断言する」と。また、来海軍省の報告書には「この海岸は接岸不可能」とありました。そのリュッオホルム湾のオングルに基地を開設し越冬出来る喜びと誇り。
そして暫しの別れ。しかし20.40最後の輸送隊・4台編成・第29便出発、最後の最後まで頑張りました。15日別離の日 下船してゆく旧知の藤井隊員(朝日新聞・航空)に、密かに持参した国分寺の瓦(片)を託し、「昭和基地」へ埋めてもらう様 頼みました。埋めた場所は判りません。
8. ビセット〜脱出 (第一次、第二次)
第一次
2月15日 第一次越冬隊を残し12.40離岸。「23浬オープンシー。4浬砕氷。荒天となりリードなく、明日の飛行偵察を待つ」と日記にあります。この日、日本の子供達への土産としてエンペラーペンギン13頭を捕獲しました。その夜ビセットされ、2月28日「オビ」とともに脱出するまで、2週間に渉る悪戦苦闘が始まりました。船上越冬となった場合日記だけは脱出移乗員に託し、家族なり参考資料としてもらえる所へ届けようと、極力詳細に記録を残していました。(*以後所々に参考として引用させてもらいます)
探検か観測か、「前人未踏の地に乗り込むのに、100%の安全などあり得ない」「あり得る筈がない」と、我々は初めから探検と覚悟していましたので、それ程驚きも恐怖も感じませんでしたが、本気で牙をむいて襲い掛かってくる自然の猛威には、「これが本当の姿なのだ」と納得と畏敬の念を、禁じ得ませんでした。そしてささやかな抵抗も出来ない性能・装備に歯がゆさと、