
YONK
YES OR NO, KNOWNOTHING
この作品はいくつかのシーンからなっています。あるシーンではダンサー達は動きに、非常に少ない制約しか与えられていません。その結果、いわば直感を頼りに、彼らは個々の動きを進めて行きます。また逆に、あるシーンでは、大きな制約を受け、ひたすらそれを強いられることで、動きを進行させて行きます。漠然としたテーマに、動きの意味を追い求める者、求めない者、それらは次第に関係を深め、融合し、あるものは決裂して行きます。
KNOWNOTHING=不可知論者。神(超自然的な存在者)は、存在すると主張するのが有神論者で、神は存在しないと主張するのが無神論者だとすれば、不可知論者は神の存在も非存在も知りえないという立場に立っています。彼らは、意識に与えられる感覚的経験の背後にある実存は論証的には認知できない、つまり、我々が認識できるのは、経験しうる範囲の対象だけであるから、神のような超自然的な対象について我々は、何も知りえない。という説をとっています。
我々にとって、「認識できること」、また、「経験しうること」は、一体どれくらいの意味を持っているのでしょうか。
(鈴木 稔)
SDB lab
海が好きでよく行きます。
波の音を聞き、海原を見ているととても落ち着きます。水平線に広がっていく無限の広さ。浜に座っていつまでも打ち寄せてくる波を見ていると、その音や形の表情さえも感じられ、一つとして同じもののない波を見ていると不思議と飽きません。
浜で一人でいると、いつのまにか踊りのことを考える時があります。そんな時、それは舞台に出て行く前に独りになってしまうのと似ていると感じます。私はその瞬間がとても好きです。
私は海の近くで育ったせいか、忙しい時でも恋しくなって海へかえってしまいます。
厚木三杏
イルカに会いに三宅島へいった。未知の世界である海へ入ることは、少し怖かった。
午前中、透明な波が打ち上げられるサラサラの砂浜、鮮やかな色の魚が泳いでいる場所で、シュノーケルだけで数メートル潜って自由に移動できるうように練習した。
午後、部屋もなくトイレひとつがやっとあるような船の上で、放り出されそうな程の潮風をうけて1時間、人の住んでいない周りは崖だらえけの御倉島の近くへ着いた。 船のエンジンがとまりあきらめかけていた頃、遠くの方でイルカの背ビレが見えた。すごく深い海だったが、私は夢中で飛び込んだ。下の方には10頭ほどのイルカが、水の抵抗など感じさせず自由に回転して遊んでいた。その時、私の横をするりとイルカが笑って泳いで行った。何故か心地よかった。
私も、自然の一部なのだ。
ふと横を見ると海亀がいた。
上之恵民

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