◎日本と台湾の合作映画
文
門間貴志
Takashi Monma
50年間にわたる日本の植民地統治を体験した台湾だが、戦後も日本映画は上映され続けた。台湾映画にもそうした名残が見受けられる。呉念真監督の『多桑―父さん』(1994)でも、『君の名は』(1953-4)を観ている場面がある。小林旭の大ファンだったという侯孝賢督は、自作『憂鬱な楽園(再見南国、再見)』(1996)の題名を、「南国土佐を後にして』(1959)の台湾公開題『再見南国』から借りている。
60年代には日台合作映画が積極的に撮られた。その代表的な例として、中央電影が日活と組んで撮った『金門島にかける橋(海湾風雲)』(1962)、そして大映と組んで撮った『秦・始皇帝(秦始皇)』(1962)がある。松尾昭典監督の『金門島にかける橋』の主演は石原裕次郎であった。製作費の大部分は日本側の出資によるものであった。読売新聞の記者が金門島で共産軍の砲弾で死亡した事件がもとになっているこの作品は、台湾では反共愛国映画と分類されている。ここでは石原裕次郎の演じる日本人医師の武井と金門島に住む麗春という女性とのロマンスが描かれている。しかしヒロインもまた大陸からの砲弾で命を落とすという悲劇で終わる。裕次郎の相手役を演じた王莫愁(ワン・モーチョウ)は、当時新人であったがこの作品がきっかけで人気女優となった。彼女は『海辺の女たち』でヒロインを演じている。また、『あひるを飼う家』の主演女優の唐寶雲(タン・パオユン)も共演している。
同じ年、中央電影は大映と組み、田中重雄監督・勝新太郎主演で壮大な時代劇『秦・始皇帝』を撮っている。当時は中国大陸の暴政を批判した作品だとする批評もあったという。この作品の撮影には『金門島にかける橋』同様、台湾の国防軍が参加している。日本側からは他にも川口浩、若尾文子、山本富士子などが出演している。台湾側の出演者には、『路』に出演している崔福生(ツイ・フーシュン)、そして先述の唐寶雲も出演している。
この時代、台湾映画界の協力で撮られた映画は少なくない。日活は、森永健次郎監督の『星のフラメンコ』(1966)で、大がかりな台湾ロケを行っている。脚本は倉本總である。西郷輝彦が歌ったヒット曲をモチーフにしたいわば歌謡映画で、西郷自身が台湾人の母を持つ青年を演じている。また東宝は千葉泰樹監督の『バンコックの夜(曼谷之夜)』(1966)で、台湾と香港、マレーシアでロケをしている。この作品は主に香港で映画を作っていた国泰との合作である。
70年代になると、日本映画が台湾にロケにでかけることはあっても、いわゆる合作映画が製作されることはなくなった。最大の理由は、日本と中国(中華人民共和国)との接近である。再び台湾との合作が作られるようになるのは、80年代を過ぎてからのことになる。しかしメジャー同士の合作ではない。アジアン・ビート・シリーズの台湾編で余爲彦監督の『シャドウ・オブ・ノクターン(夜来香)』(1991)、柳町光男監督の『旅するパオジャンフー』(1995)、林海象監督の『海ほおづき』(1995)、三池崇史監督の『極道黒社会RAINY DOG』(1997)などのように、インディペンデント系の作品が主流になっていったのである。