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父さんたちの幻の祖国|金美齢(JET日本語学校校長)

 

『多桑―父さん』は九四年の作品で興行的にも大成功した。「一番嬉しかったのは、今まで映画など全然見ないオジサン達が劇場に足を運んでくれたことです」と呉監督は言う。「緑色和平というラジオ番組を持っていますが、次から次へとコールインがあるんです。『私達の話をよくぞ映画にしてくれた。どうも有難う』と感謝され、映画を撮ってよかったとつくづく思いました」「最初、小説を書こうと思ったのです。しかし、小説だと、主人公がどうしてもインテリになってしまう。それでは父の話ではないし、台湾のあの世代の人達の中では、せいぜい一握りの存在になってしまう。だから、どうしても映画でなくてはならなかった」。こうして『多桑』が誕生した。監督は父親を、自分の祖国や故郷がどこかもわからず、子供たちの気持ちも理解できなかった、一生涯実際に何も手に入れられなかったという意味から副題のタイトルを"A Borrowed Life"(借り物の人生)と名付けている。

一九四五年、日本の敗戦を境に、台湾人は今まで慣れ親しんできた「日本」の全てと別れを告げることを強制された。しかし、支配者として来た中国国民党はその欠落を埋める文化を何一つ台湾人に提供できなかった。彼らは、腐敗と汚職、時代錯誤の中華思想そのもので、法の概念もなければ道徳にも無縁であった。二年後、一九四七年、二・二八事件は起こるべくして起こった。「祖国復帰」したのだと我慢に我慢を重ねてきた台湾人の怒りが一気に爆発したのである。しかし、強大な軍隊を持つ国家権力に対抗できる訳がない。数万人の犠牲者を出したこの事件の後、台湾人は政治的にはひたすら沈黙を保って来た。圧政者に対する内に押し込められた憎悪が、過去へのノスタルジアに転化していくのに時間はかからなかった。

多桑は「中国」の全てを拒否した。子供達に「トーさん」と呼ばせ、清科(セイカ)が台湾風になまった通称セガで一生を通した。これは紛れもない、アイデンティティの主張である。子供達に漢奸と言われようが、犬と責められようがひたすら片想いを続けた。しかし、多桑を愛した長男(セガの人生を作品として送り出した呉念真)さえ、「父さん、なぜ、そんなに日本が好きなのですか?」と反問し続けている。

「この映画は日本に憧れその文化を慕う者もいたという視点から描かれている。これは日本人にはうれしい衝撃であり、これほど日本が歓迎すべき映画は他にはない」。

宣伝チラシの文言である。しかし、ある意味ではこれは今の日本、特に台湾に何ら関心を寄せていない日本に突き付けられた刃でもある。

筆者は、三年半台湾特派員をした経験をもち、日本でもっとも台湾を知る一人、現産経新聞論説委員長の吉田信行さんに、この映画を見ることを強く勧めた。その後、吉田氏は産経の夕刊で、長い記事を書き、「われわれは『多桑』の存在を知って、ただ喜んでいればいいというものではない。むしろ怖い。多くの『多桑』が頭に描いている日本は単なる幻想ではないのか。その『多桑』が日本の現実を知ったあとの絶望感、虚脱感が心配になる。幸いというと多少語弊があるだろうが、映画の『多桑』は遺骨となって日本を見た。もし、生きて日本を見たら、台湾に対してまるで能面のように無表情を日本を知って、どんな反応をしただろうか」と述べている。

呉監督自身も、もし父親が今の日本を見たら何を言うだろうかということを始終考えているという。多桑と同じ世代の台湾人はまだ多く台湾に残っている。その人達は戦後五〇年経った今でも、未だカルチャーショックから抜け切れていない。かつて日本の教育を受け、その文化を愛していても、今の日本を知る人間は、多桑のように幻に恋い焦がれることもないが、台湾に残され、歴史の時間が止まったまま月日を過ごしてきた人達にとって、日本はある意味では、美しい幻として存在し続けているのかもしれない。美しい幻を最後まで見続けた者の人生を借り物と決めつける権利は誰にもない。いずれにしても絶滅していく世代ではあるが、この「悲しき人々」に保護の手はいらない。トキの保護には莫大な予算とエネルギーがかけられたが、絶滅するものの運命を誰もとめられなかった。

ひょいと身をかわして、家族や観客に別れを告げたセガの最後の一言は、「再見」でもなければ、「バイ、バイ」でもなく、「あばよ」だったに違いない。

 

殖民と 白色テロに耐へ生きし

叫びは重し 「台湾万葉集」

 

「血の祖国」「法の祖国」の虚しさよ

吾があくがるるは 「心の祖国」

 

『台湾万葉集』より

 

 

 

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