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それはゼロから始まった。

-中央電影公司の美麗と哀愁-

 

暉峻 創三 (映画評論家)

 

侯孝賢の『童年往事』(85)『恋恋風塵』(87)、エドワード・ヤンの『恐怖分子』(86)、そしてアン・リーの『恋人たちの食卓』(94)、蔡明亮の『青春神話』(92)、陳玉勲の『熱帯魚』……。世界約に台湾ニューウェーヴ(あるいはその第二世代)の代表作と目されている作品の多くは、実のところ同じ一つの製作母体から産出されている、「中影」こと中央電影公司だ。

子細を省いでまとめれば、台湾ニューウェーヴの歴史とは82年ごろからの中央電影公司の活動の歴史であった。台湾ニューウェーヴは中央電影公司の存在ゆえに成立し、今なお同社がその未来までをも左右する力を持っている。そう言っても、あながち暴言とはされないだろう。今回の台湾映画祭上映作品も、当然そのかなりの部分が中央電影公司の作品ということになる。

だがそのプログラムを見ていると、こうも気づく。この暴言めいたまとめ方も、まだまだ控えめな表現ではないだろうか、と。そう、実を言えば、中央電影公司はニューウェーヴ時代に入ってからだけ同国映画史の中でイニシアチブをとってきたのではない。その設立以来今日に至るまで、およそ台湾映画史の潮流という潮流に影響力を行使し、ニューウェーブ以前の潮流に属する多くの重要作品も、やはりこの会社の下で生み出されてきたのだ。

中央電影公司の何たるかについての説明はここでは最小限にとどめよう。要は、台湾を支配してきた国民党系の会社であり、国営とまでは言えないものの多分にそれに準ずる役割と指向―例えば利潤追及にばかり価値を見出すのではなく、仮に商業性には劣るにしても国家的見地から有益であると見なされる企画には価値を認める―を持ってきたこと。ショウ・ブラザースやゴールデン・ハーベストのような民間メジャー映画会社が一人の個性豊かなオーナー社長によって永続的に支配されてきたのとは対照的に、中央電影公司では会長・社長でさえ任命制であり、従って党側から任命されて着任し、ある程度の期間その職務を務めあげるとまた別のポストヘ異動となり、同杜にはまた新しく外部または内部から新会長・社長が任命されるというシステムで運営されてきたこと。これら、二点を理解しておけば充分だろう。事実、この二つの性格が台湾映画史の上に影を落とし、というよりもそれをモロに支配し方向づけしているのだ。

 

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この時期の中央電影公司の代表作は、やはり『關山行』(56)ということになろう。台北から南に向かう長距離バスとその沿道のとある村を舞台に、おそらくは人々の融和を説こうとしたこの作品は、設定上は純台湾製にも見える。にもかかわらずこの作品の監督は『空中小姐』(57)などで香港で活躍の易文なのだ。主演陣もグレース・チャン、王元龍ら当時香港で活躍中のスターが多く含まれており、これが当時の台湾映画の状況を象徴している。クオリティの高い宣伝教育映画を目指したものの、それは香港映画界との合作で、彼らの才能を借りて実現するほかなかった。当時の台湾映画のこうした状況はその後日本映画にも波及し、あのカツシン、裕次郎も巻き込まれた。勝新太郎主演、田中重雄監督の「秦・始皇帝(台湾公開タイトル『秦始皇』)』(62)、石原裕次郎主演、松尾昭典監督の『金門島にかける橋(台湾公開タイトル『海湾風雲』)』(62)などがそうで、これらは前年に三代目会長に任命された蔡孟堅が日本との人脈に長けていたため実現したもの。それまで白黒映画ばかり撮ってきた中央電影公司とその映画人たちは、ここでカラー技術の幾許かを学んだに違いない。

また台湾語映画の全盛期とも重なるるこの時代、中央電影公司だけはそうした世の風潮に流されず、国民への標準中国語普及の先鋒役を担うことを優先する。この期間に作られた標準中国語映画のおよそ9割方は中央電影公司作品によって占められており、同社の存在がなければ政府の標準中国語普及の意図は実現しようもなかったのだ。

さて、こうしてしばしば“外国製の揺りかご”の中で知識を蓄えてきた中央電影公司の力が一挙に花開くのが、

 

 

 

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