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演劇人 ディケンズ 荒井良雄

クリスマス・シーズンが巡ってくると、世界中のどこかで、必ず上演されるのが、イギリス十九世紀の文豪チャールズ・ディケンズ(一八一二〜一八七〇)の名作『クリスマス・キャロル』(一八四三)である。日本でも、劇団昴が一九九一年に本邦初演して以来、大人も子供も揃って楽しめる定期公演として、多くの人々に親しまれてきた。原作は中編小説であるが、ほとんどそのまま、上演台本としても、朗読台本としても、さらには映画脚本としても使用できるドラマティックでファンタスティックな物語である点が、大きな特色の一つになっている。そうした劇的な小説を書くことが出来たディケンズは、実は優れた俳優であり、演出家であり、劇作家であり、自作朗読の名手でもあった。その辺の自伝的要素を枠組みに使って、ディケンズ自身や周辺の実在人物たちを登場させ、クリスマスの余興として、『クリスマス・キャロル』を作者の自宅の屋根裏部屋で上演して見せるというのが、マイケル・パラー脚本、村田元史の翻訳・演出による劇団昴の新版『クリスマス・キャロル』である。このような脚色が可能なのは、ディケンズの生涯が、演劇と密接に結び付いていたからである。
ディケンズの自叙伝的長編小説デヴイッド・コパフイールド』や、親友のフォスターが書いた伝記『チャールズ・ディケンズの生涯』などを読むと、いかにディケンズが芝居好きの少年であったかが分かる。父のジョンに伴われてシェイクスピア劇を見に出かけたり、土暴の素養があった姉のファニーと一緒に歌を歌ったり、玩具で演劇ごっこをしたりして遊んだが、なによりも物真似が得意であった。十五歳のとき、ロンドンの弁護士事務所で働くようになると、自分で稼いたお金で劇場通いを始め、ファースやバーレスクやメロドラマなどを片っ端から見た。そして二十歳のとき、当時の名優チャールズ・マシューズに心酔して、彼の役柄を一日に六時間以上も練習し、台詞を暗記するまでになった。俳優になる決心をしたのである。
そこで、マシューズのステージ・マネージャーに手紙を出し、オーデションを受けることになった。ところが、当日は悪性の風邪と歯痛から、キャンセルせざるを得なくなった。その数週間後に、叔父の紹介でジャーナリストの道が開け、物を書く仕事に熱中するようになって、『ポスのスケッチ集』(一八三六)に次いで出版した『ピックウィック・クラブ』(一八三六)の大成功により、小説家ディケンズが誕生したのであった。もしオーデションに受かって俳優になったら、『クリスマス・キャロル』や『二都物語』や『大いなる遺産』など幾多の名作は存在しなかったであろう。
しかし、子供の頃からの演劇熱は、生涯さまざまな形で、まるで妄想のようにディケンズに付きまとった。作家として大成してからも、アマチュア演劇に情熱を傾け、ベン・ジョンソンの喜劇『十人十色』のボバデル役や、『ウィンザーの陽気な女房たち』のフォールスタッフなどで、プロ俳優も驚くばかりの名演技を披露した。劇作も試みて、五編の作品を書いたが、当時の演劇界はイギリス演劇史において最も低調な時期であって、ディケンズが小説で試みたような自分の書きたい野心的な作品を受け入れる土壌はなかった。劇作も諦めてよかったのである。ところが、一八四四年十二月、書き上げたばかりの『鐘の音』を、ロンドンのフォスター邸に十人ほど名士を集めて自作朗読を行ったのが事始めで、十年後の一八五四年十二月には、バーミンガムで慈善募金のために『クリスマス・キャロル』と『炉端のこおろぎ』の公開朗読を行い、三日間に六千人の聴衆が殺到して、七千ポンドもの募金が集まって、大成功を収めた。これに気を良くしたディケンズは、長編の抜粋や短編や書き下ろしの朗読台本を二十一編も作成し、そのうちの十六編を自作自演して受けに受け、イギリス各地はもとより、アメリカにまで朗読旅行に出かけて、大金を手にした。そのために寿命を縮めたとさえ言われている。子供の頃からの演劇への情熱の見事な成就であって、人気作『クリスマス・キャロル』の朗読は、百二十七回に達した。この代表作は、他者への優しい思いやりと慈悲の精神の大切さを思い起こさせてくれる。クリスマスにふさわしいドラマだ。そして「この世には暗い影はあるものの、それにくらべたら、光のほうが強いのだ」という『ピックウィック・クラブ』の人生哲学の実践にもなっている。このディケンズの哲学は、いつの世の人々にも必要な人生観であって、そこに『クリスマス・キャロル』の人気の秘密があるようだ。
(駒澤大学教授、ディケンズ・フェローシップ会員)

 

 

 

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