えばニレの1本の木、あるいは四季にとらえたブナだとか、美しい写真がいっぱいあるんです。ところが、きょうはあえてごみの山のような汚いというか醜い写真までプロのカメラマンに撮ってもらって発表してもらいました。これからもナチュラリストとして、カメラマンとして、そのことの影響力をどういうふうに表現していかれるのか、ぜひ最後に伺いたいと思います。
姉崎 写真を撮るということは、結構相手の対象をよく理解し、よく観察し、とにかくよく自分と同化するというふうに考えています。子供たちには、そういう技術というよりも、手から伝わることが非常に大切なものですから、できるだけ絵でかいてもらうということを自然教室では勧めているわけです。絵でかくというのは、それだけ長い時間そのものに対峙して、その様子をつかもうと努力する意識が非常に持続するわけですね。
ごみというのは、確かに私たちの生活の中では邪魔者扱いにされています。だけど、あるとき、じゃ、このごみをきちんとかいてみたらどうだろうか、それを絵にすることをやってみたら、ひょっとしたら、何か全く自分の中の常識というものが変わってくるんじゃないかという気がしています。
なかなかそういう、物ときちんと対峙してみる、物を観察してみるという機会は少ないと思いますが、ごみというのは常に日常的に我々の生活の場にあるわけです。その中で、美しいものだけを目に入れて汚いものは見ないということではなくて、同じ世界に共存する者たちということで、ごみをきちんと見て、きちんとかいてみてはどうでしょうか。学校の美術の時間なんかでも、小学校で6年間あって、絵の時間も何百時間かあると思うんですが、1時間ぐらいはごみをかく時間というのをつくってみたらどうなんだろうというふうに、今ちょっと考えています。
それには、まずふだんの自分の行動、自分の生活、自分の考え方をまず疑ってみる、ひっくり返して考えてみる、そんなことからごみの問題というのを全く違う観念で自分の中に取り込んでみたらどうだろうと今考えています。
瀬田 最後にまとめさせていただきます。私、ここの高野山でこういうシンポジウムをやれたということで、ふときのうの夜思ったんですが、草木にも仏性があるというのが御仏の心だとすると、私たちは一度ごみの身になって考えてみるというのがきょうのシンポジウムのテーマだったのかなと思っています。そして、そういうふうに考えたときに、ごみは消えていきたい、その辺に大きな顔をして散らばっているということは、ごみとしては気恥ずかしい、申しわけないと思っているかもしれません。
そういう面で幾つかに整理をしてみますと、本来、ごみが不要になる前に再び役に立つことがあっていいんじゃないか。それが、瓶であればもう一度使われるというのはリユースなんですね。それから、素材として一度戻って使われるときにはリサイクルという形になります。そのときには、ごみはごみでないわけです。ですから、ごみの身になっても、ごみのままで捨てられては嫌というのは、リユースする、リサイクルするということが第1だと思います。
2番目は、周りに迷惑にならないようにしたいと。サブローさんのおっしゃった亀の話がそうだと思います。あるいは、川なり海でテグスに鳥が足や首をひっかけて生物が死んでいく。それは、人間がというよりも、ごみが自分の意思でなく、そういうことで周りに迷惑をかけている、そういうふうに考えてみたらどうかなと。
3番目ですけれども、早く消え去りたいというか、消える。そのためには、生ごみであればコンポストのようなところで土に返ることができます。そうでないと、燃しても、そのことがダイオキシンなりなんなりにつながっていくとなると姿を変えることができない。生き物で言えば、仏になれないということになるんじゃないかなと思います。
そういうことを、私たちがごみをということもありますけれども、ごみの身になったときに、私たちは何ができるか、何をしていかなければならないのかというのがわかるのではないかというのを私のまとめにして、このシンポジウムを終えたいと思います。
ご清聴、ありがとうございました。